第2章「たかが句読点、されど句読点」
文字数 2,560文字
学校の授業の「英作文」の役には立つ(すごく立つ)けど、日本語での創作には関係ない……。
例えば、日本語の「テン/読点(、)」と、「マル/句点(。)」にあたるのは、
英語では「コンマ(,)」と「ピリオド(.)」ですが、
コンマとピリオドのあいだに、つまり、テンとマルの中間くらいの感じの記号で、
「セミコロン (;)」というのがあるんですね。
この章では、それを学べばいいと思います。
テンをいっぱい打った名文と、テンをほとんど打っていない名文を比べてみる。
そして、自分の文章にも、テンをたくさん打ってみたり、打たないでみたりしてみる。
とか、とか、
すごく練習になると思います。
私には練習になりました!
なんとル=グウィンさんが同じ練習問題を与えてくださっていたので、ヒツジ大喜び!
こんな課題をやってみませんか?
ひとりきりで座って、あなたの尊敬する作家さんの本をぱらぱらめくり、どういうふうに句読点が打たれているかじっくり調べてみるのです。
(『ル=グウィンの小説教室』第2章より)
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
そう言って、細い指でもって、路傍の一箇所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙[あいたいじ]し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
(太宰治『富嶽百景』より)
「こら、こんなに綺麗にみえる」
といってお恵ちゃんのまえへ腕をだした。
「まあ」
そういいながら恋人は袖をまくって
「あたしだって」
といって見せた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。二人はそれを不思議がって二の腕から脛[すね]、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。
(中勘助『銀の匙』より)太宰さんを、読んだあとは、自分の文章に、なんだか、やたらに、テンをたくさん、打ちたくなり、
中勘助さんを読んだあとは逆にテンを打たないでどこまで行けるか テンじゃなくてこういうふうに一マスあければよいのだからテンは打たなくていいのじゃないか という気持ちになってきてついこんなふうにできるだけテンを打たないで書いてみようとしてしまうのです。^^
「文法は大事だ」というのがこの章の教訓です。
近年、文法教育がおろそかにされているのは嘆かわしいことだ、とル=グウィンさんは言います。
まさに!と思った箇所があったので、引用させてください。
オレンジを切るナイフもなしで、魂からオレンジジュースをしぼり出せと言われているようなものです。
(同書同章)
アメリカでも「文法の間違いなんか気にしなくていい、固いことは言わない、どんどん書け書け、後で直せばいい」的な空気が支配的であるみたいです。
でもル=グウィンさんは、いいかげんな言葉づかいのために、メールのやりとりなどで誤解が誤解を生んで大炎上することが多いじゃないですか、ということを指摘してくれます。
〈練習問題2〉ノンストップで行ってみよう
300から700字の文章を、句読点なしで書いてみましょう。
(段落などほかの区切りも使っちゃだめ。)
一群の人が、大急ぎや大忙し、大混乱におちいっているところを描く。
例えば革命や、事故現場、はたまた特売セール本日かぎり!の開始直後など。
書いてから読み直すときのチェックポイント:
・ふだんどおり句読点をつけて書いた文章と、どう違いましたか?
・読んで意味がわかるものが書けましたか?
(中略)
1週間後にもう一度読んで、句読点をつけ直してみるのも、面白いと思いますよ。
(『ル=グウィンの小説教室』より)
次の章(第三章)での、文章の長さをコントロールする話につながっていくので、ご安心を。
それに文法の練習って、
やっぱりじっさいに何か文章を書いてみて、その文章の「ここが変」という箇所をひとつずつ見つけていくしかないんですよね。
文の長さを自在にコントロールできるようになろう、というお話です。
乞うご期待!^^