第4話

文字数 3,133文字

 私はドリームホールの受付の「今日ちゃん」になってから、よく喋るようになり、よく笑うようになった。
 友だちが増えた。
 レッスンやサークルに集うおじさまたち、おばさまたちは、お客さんであり、人生の先輩でもあり、歳の離れた友だちだった。
 新しいステップや技を習得しようとみんな練習に励んでいた。ダンスサークルで出会う人と楽しそうに喋ったり踊ったり、和気あいあいと過ごしている。
 みんなよく笑った。
 ステップをまちがえて笑った。レッスンの曜日や時間を勘違して笑った。家電や携帯電話の使い方がわからなくて笑った。笑うと自分も他人も許せてたいていの事は受け入れられて、寛容になる力もつくらしい。よく笑うみんなを見ていると、私も元気をもらった。ドリームホールの人たちは笑うのがうまかった。
 特におじさまたちがよく笑うと私は思った。男性が、思い切り笑う姿が目立って生き生きしていた事は新鮮な発見だった。引退すると男性は笑えるようになるのか、と考えたら、そうでない時は心から笑えないのかもしれない。会社勤めであれ家事労働であれ、現役の頃というのはみんな余裕がないのかもしれない。
 社交ダンスは男性リードを基本にした男らしさや女らしさの様式(スタイル)を持っている。元は欧米の文化だが、日本にも昔から男らしさ、女らしさはあって、その感覚と相性の良いフォーメーション、型の文化であるらしい。
 ある日、オーナーの門田(かどた)さんは、
「同じ課のパーマあてた女の子に、『それかわいいね』といっただけで、人事部から注意されてん」
 と、会社に勤めていた頃の話を私に聞かせた。
 女性社員にかけた門田さんのどうという事のないひと言だった。悪気はなく、むしろ彼女のヘアスタイルは素敵だ、という意味のほめ言葉だったけれど、女性社員は拒絶し、会社はセクシャルハラスメントに当たると門田さんを注意したのである。
 自分の善意が否定された門田さんは長年勤めた会社に裏切られた感じもして、傷ついたらしい。
 時代の変化、といってしまえばそれまでだけど、会社が突然、どうという事のない日常会話に干渉してきた事にも驚いて、これが早期退職を決心する理由の一つにもなった、と彼はいった。
 女性をリードしてエスコートする。門田さんに限らず、女性に女性らしさを見出す男らしさを身に付けた男性にとって、社交ダンスの場は自分らしく振る舞える彼らの居場所でもあった。
 それとあまり大きな声ではいえないけれど、彼らはちょっとしたアルバイトができた。
 社交ダンスパーティのサクラである。
 社交ダンスパーティは、だいたいがダンスサークルの代表者がホテルの宴会場や公民館や文化施設の多目的スペースを借りて催す。そこにタキシードやドレスで着飾り紳士淑女になりきった社交ダンス愛好者らが集いパーティを楽しむのだが、たいていは紳士が不足する。そこでパーティの主催者は上級者か、同レベルの男性ダンサーをサクラとして雇った。
 パーティに参加した女性が、誰にも誘われる事なく壁際の椅子に座ったままだと体裁が悪く、パーティの評判も落ちるので、「壁の花」ができないようあらかじめ紳士を用意しておくのだ。
 サクラの報酬は交通費に色がついたくらいだが、年金生活を送る男性にはおいしいおこづかいである。門田さんも時々サクラをして、バイト代が入ると私にたい焼きやドーナツを買ってくれた。
 上級者で、ダンススタジオオーナーの門田さんはどこでもモテたらしい。本人がいったからいくらか誇張のある話もあったと思うけれど、
「昨日は十人以上休みなく相手してん。それもおばちゃんばっかり。今日はもう腕が筋肉痛」
 と、愚痴る門田さんは売れっ子ホストみたいでおかしかった。
 ドリームホールに通いはじめて一ヶ月が経った頃、受付の仕事に慣れた私はルミ先生のレッスンに混じった。金曜日の朝の、ルミ先生と門田さんの教える社交ダンス初級レッスンである。
 社交ダンスのビギナーを対象にしたドリームホールで一番人気のあるレッスンで、五十代、六十代の女性ばかり二十人くらいが受講していたと思う。
 門田さんの教えるベーシックステップレッスンが中心だが、最初のルミ先生のウォームアップが好評だった。
 ルミ先生のウォームアップは体が気持ちよくなった。
 オーディオからスローテンポのポップミュージックが流れるとウォームアップがはじまる。ルミ先生は、仰向けに寝転んだおばさまたちの間を歩きながら深くゆっくりした呼吸を促した。
 続いて音楽を変えて上体を起こして手足のストレッチ。筋肉や関節をしめたりゆるめたりして、それが済むと立ち上って鏡を見ながらポーズをとる。ダンススタジオを、お家のリビングでくつろぐような雰囲気にしておばさまたちの緊張を解き、彼女たちの家事をする体を踊る体へ変えていくようなウォームアップだ。
 傍から見ていても気持ち良さそうだったけれど、おばさまたちに混じって実際にやってみても気持ち良かった。みんなでドリームホールの全部が呼吸するみたいな感じだった。
 週に一度だけ、ルミ先生のウォームアップに加わるようになって、私の体は少し変わった。O脚の足の曲がりがマシになったみたいで、膝のでっぱりもいくらか平らになった。体重は変わらなかったけれど下腹がしまってウエストが少し細くなった。それとこれは変化ではないが、私は足が長い事がわかった。
 ある日、初級レッスンが終わったフロアにモップをかけていると私は滝沢さんに呼び止められた。
 滝沢さんはドリームホールの熱心な受講生の一人で背の高い女性だ。社交ダンスの男性の踊りも習得して、初級レッスンでは門田さんのアシスタントとして初心者の相手を務める。プライベートでは娘さんが出産して「おばあちゃん」になったばかりだった。その滝沢さんが、
「今日ちゃん、ちょっとここに座ってみ」
 と、自分の横の床を指す。なんやろうと思いながら私はモップをおいて床に腰を下ろした。
 滝沢さんは両足をのばすようにいうと、私の隣に座り自分も同じように足をのばした。
「ほら、やっぱり!」
 と、滝沢さんは得意そうにいい、「見て見て見て見て」と、フロアにいたみんなを呼び集めた。「今日ちゃんの足、長いわよ~」と、市場の魚屋さんが鮮度の良さをアピールする感じである。
 へえ~、と、私と滝沢さんの周りに輪を作ったおばさまたちは声を上げた。確かにそうだった。私と滝沢さんが同じ位置に並んで座っても、私の足先は滝沢さんより遠くにある。ちなみに滝沢さんは身長一六八センチ、私は一六〇センチである。
 ルミ先生が、おばさまたちの輪を分け入ってきて、私の足の前でペタンと座った。両手で私の両足を掴んでつま先をじっと見て、
「今日ちゃん、右足が入っているわ」
 といい、コンコン、と、私の右足を引き抜くように引っ張った。「よし、今日ちゃん、立ってみ」
 いわれた通り立った私は、体の右半分が靴底一枚分、持ち上がっていた。間違って、右と左で別々の靴を履いてしまった時の感じに近い。正確には骨のゆがみでいつもは少し左足より短くなった右足が、ルミ先生に引き抜かれて左右が同じ長さになり、私を右側に持ち上がった感覚にしたのである。
「変な感じするでしょ。でも、これがまっすぐ。いつもまっすぐのつもりでもね、自分でも気づかないうちにどっちかに傾いてるねんで」
 体って不思議でしょ、と、ルミ先生はいった。
 体は傾きをなおしたのに、私は傾いている。歩くと、傾きをひどく感じ、視界にも違和感がして油断すると平均台を渡り損ねるみたいによろけそうになった。
 しかし悪い感じはしなかった。体が私に等身大の不安を伝えただけで、ほどよい感じだった。

(つづく)
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