第2話 蟷螂(カマキリ)

文字数 1,683文字

 腰が、止まらない。
 っていうのはこういう状態か。
 ぼくは失神寸前に感動していた。もちろん。初めてだし。だけど最後かもしれなくて、問題はそこだった。体の節ぶしをきしませながら、次のステップを必死に考えた。
 で、どうする? どうする?
 どうやって抜けるよ、これから?

 完全に彼女のペースだ。はめられている。握られている。絶体絶命。

   一度 女をものにしたことがあった
  いや違うな 彼女がぼくをものにしたんだ

 大きな瞳がうるんで、とろんとぼくを見上げている。口が、小さく動いている。
 可愛い。
 ――だめだ、見ちゃだめだ。目を合わせるな。やられる。

「一つ。目を合わせるな」
 噛みしめるように語る先輩の横顔が、脳裏をよぎる。先輩は女とのセックスから、二度も生還してきた猛者(もさ)だ。ぼくはごくりとつばを飲みこんだ。
「相手がイッてるあいだにヤりまくれ。あの一点に集中させろ。まちがってもおまえ自身の存在を思い出させるなよ。機能に特化しろ、というか、機能そのものになるんだ、おまえが」
「機能そのものですか」

「空を飛ぶ鳥より、地を這うトカゲより」先輩はふっと目を細めて、流れていく雲をながめた。ときどき脈絡なく詩人になるのが、先輩の唯一の欠点だ。「げに恐ろしきは女なり、だ。鳥やトカゲならこっちにも対処のしようがある。だけど女はな。やつらからは。逃げられない」
「そんなに?」
「絶対に目を合わせるなよ。目が合って、こっちの存在に気づかれたら、終わりだ。あいつらはおれたちをエサとしてしか認識していない。肉のかたまりプラス種の袋なんだ、おれたちは。それを忘れるな」

 先輩がそんなこと言うんだ……。ぼくはぼんやりと、彼のたくましい腕にきざまれた数々の傷跡を目でなぞった。これを〈武勲(ぶくん)〉と言わずして何と言うのか。
 微動だにせず、完全に気配を殺して待ち受け、ここぞというところで瞬時にくり出す鎌。その炸裂するパワー。百発百中の正確さ、ときには自分の体重以上の獲物をしとめる大胆さ。この界隈(かいわい)で知らぬ者のない、先輩は伝説のハンターだ。
 ぼくの視線に気がついて、彼は照れくさそうに、でも誇らしげに、とはいえどこか寂しげに、その腕の傷をあごでこすって見せた。

ここにいてね 好きなところに座っていいから
そう言われて見回したけど 椅子はなかった

「おまえもやっと最後のひと皮がムケたわけだしな」
 かるく叩かれて、ぼくも照れくさかった。蝶やなんかとちがってぼくらは、生まれたときからこの形をしている。イモムシやサナギのような劇的な変化は経ない。それでも、最後の脱皮を終えて、ぼくの体もようやく男としての準備が整っていた。
「とにかく、がんばれ。生きて帰れよ」
「ありがとうございます。がんばります」
「目を合わせるなっていうのは言ったよな」
「はい」
「じゃ、もう一つ。いちばん大事なのは何だかわかるか?」
「いえ」

「逃げることだ」
「はあ。はい」

「とにかく逃げろ。終わったら逃げろ。最速で終わらせて最速で逃げろ。長引くほど不利だ」
「そういうものですか」
 それじゃ意味なくないか? ぼくは先輩の横顔を盗み見た。あいかわらず淡々として、かすかに寂しげだ。
「そういうものだ」彼の目には、ぼくなど映っていないようだった。「のめりこんだら負けだ。いや、この試合、勝負は初めからついている。おまえも堂々と負けてこい。それでこそ男だ。そして」
 ぼくの目を見すえて、ふっと笑う。
「生きて帰れ」

  寝る時間ね と彼女は言った

 最速で終わらせろ? 無理だ。
 のめりこむな? 無理だ。
 もう目が合ってしまっている。うっとりと彼女が微笑む。嬉しそうだ。
 刹那(せつな)獰猛(どうもう)な笑みが彼女の口もとにひらめき、下腹を激しく突き上げてきた。もう、もうだめだ。しぼり取られる。どうやってこれから逃げ出せと言うんだ。

 彼女の腕がぼくの背に回る。彼女の口がぼくの肩をかるく噛む。ああっ。
 先輩。

 ぼくは、たぶん、帰れません。


BGM:
「ノルウェイの森 Norwegian Wood」ザ・ビートルズ
https://youtu.be/Y_V6y1ZCg_8
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