本編

文字数 1,945文字

 始業前の教室は、心地良い混沌の時間だ。そんな教室の隅で、男子生徒の天城幸太郎と榎木誠司が話している。これもまた、松王丸高校一年八組のよくある風景である。
 季節は新年の冬。よくある風景が見られるのも、あと二ヶ月ほどのことになるだろう。
「失敗した」
「どうした、兄弟」
 思い悩む様子の幸太郎に、誠司が言葉を返している。
「好きな女の子がいる話はしたよな」
 幸太郎の言葉に、誠司は「もちろん」と即答した。
「聞かされなかった日を思い出すほうが難しい。どうした。進展でもあったか。それとも、もっと良い美人を見つけたか」
「前者だ。後者じゃない。あの子はとびきりだぞ。俺が目移りするわけないだろう。するかもしれないけど」
「いや、そこで折れるなよ。頑張れよ。純愛が『やっぱ不純かも』とか言い出したら価値ゼロだろ。100%ジュースと98%くらいジュースだとまるで信頼度が違うんだからな」
 誠司がまくし立てる。彼は紙パックのオレンジジュースを手で描く。
「じゃあ、純粋な気持ちで聞いてくれ。俺は彼女に愛を告白することにした」
 強めの話題だが、雑然とした朝の教室では目立たない。幸太郎の言葉は、誠司だけが受け止めている。
「いいことだ。これで決着がつく。妄想に基づいた話の時代は終わりだ。全力で応援する。派手にフラれるか地味にフラれるかの賭けでもするか」
「成功を願うつもりはないのかよ」
「常に最悪を想定するのが、良い人間ってもんだ。そうすりゃ、気持ちにだって余裕が生まれる」
「告白は口頭でやるべきだと思って、あの子を呼び出すことにしたんだ」
「決闘方式だな」
「そこはラブコメ方式とかにならんか」
「スマホひとつで済むこのご時世に、奥ゆかしい話だと思うよ」
 誠司は少し声を潜めた。
「で、その時はまだなのか」
「今日の放課後だ。ただ、ひとつ問題がある」
「どうした。告白のセリフを見直す手伝いなら断るぞ。『お主のせいで破談になったでおじゃる』なんて言われたらたまらんからな」
「いつから俺はトンチキ貴族みたいな個性を装備したんだ?」
 幸太郎が「おい」と低い声で付け加えた。中性的な顔立ちの彼の声は、時として女子生徒のそれにさえ間違えられることがある。低めた声さえも、ハスキーボイスとして捉えられそうだった。
 その点、誠司は顔つきが男性的で、髪色は赤色、他方で成績はトップクラスと、生きた矛盾とも言える性質をしている。声音は堂々たる低さだ。
「それ以外なら手伝うさ。榎木誠司は、いつだって朋友たる天城幸太郎の味方だ」
「じゃあ、聞いてくれ。呼び出そうと思って手紙を書いて下駄箱に入れたんだが、入れる場所を間違えた」
「おおっとぉ」
「そして、見ろ。あの子が堂々とその手紙を読んでいる」
 二人の目線は、教室の別の場所へと注がれる。
「ヤンキーでギャルの丹沢さんじゃん。宛名は書いたのか」
「書いてない」
「ケンカ売りの白紙の小切手ごくろうさん。殴られてこい」
「やはり、そうするしかないか。取り戻せないかと思ったんだが」
「そのめでたい頭に常識と良識を取り戻すほうが先決だ。まあ、呼び出した当人にめっちゃ謝って返してもらえばいいだろ」
「何とか取り返せないかな」
「奇策はな、大抵の場合で自体を悪化させるもんだ。正面から行け、正面から」
 誠司の言葉で、幸太郎は覚悟を決めたようだった。
 翌朝、幸太郎と誠司は、教室のいつもの場所で語らいを始めた。
「よう」
「どうだった、昨日は」
「丹沢さんと付き合うことになった」
「は?」
 奇襲であった。誠司の声音は、相当に間が抜けていた。
「彼女、俺のことが好きだったらしくて」
「ええ……」
 幸太郎は、バツが悪そうに笑った。照れ笑いだった。とはいえ、誠司にしてみれば、とんでもない事態の急変である。
「笑ってる場合か。照れ笑いが異様だ。しかも、丹沢さん、こう見たらかわいいじゃんかよ。マジかよ。とんでもねえ、とんでもねえやつだ。世が世なら裁判モノだ。ちくしょう、おめでとう」
 幸太郎の彼女となった少女が、二人の傍らまでやってきた。いや、より正確には、幸太郎に寄り添うように。
「改めて紹介するよ、丹沢さん……俺の彼女になった愛美だ」
「もう下の名前で呼んでるー。結構お深いところまで一日で進んでおられるー。ローマでさえ一日では成らないのに、二人はどこまで成りまくってんだよ」
「まだ三人になるような行為はしてないから」
「そういうこっちゃないわ。恥ずかしい、ああ、恥ずかしい。冷房いるわ。冬なのに」
 三者三様に、照れ笑い。このやり取りは、今のうちは三人のあいだで終わった。
 ところが、のろけた新生の彼氏彼女は、やがて学内のあちこちに照れ笑いを配って歩くことになる。ケンカの代わりに赤面を売って歩くのだから、まったく色恋は恐ろしいものである。
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