第9話 エルとアーサー

文字数 2,861文字

 翌日──、

 アーサーは、ふたたびエル=サラナの家の近くにやってきていた。
 エルの住まいは、ミナの店があるサン・ドラクマ通りから一本脇道にそれたところにある、商店街に面したアパートの二階である。
 二階へのぼる外階段を、何度もためらいながら上る。

 ルパード隊が敗北した、あの日。
 エルは、ひとりで帰ってきた。

 ドアのまえに立つ。
 表札に、ちいさなかたちのいい字で、エル=サラナと書いてある。
 サラナ通りで生まれたエル、というほどの意味である。

 血まみれでミナ=ブルガナンの薬草店に入ってきたエルの、力のない目と、
 あわてて抱きとめた体の重みを思いだした。

 うめくように、小さくふるわせていた唇も。

 ことん、と、ドアのところで音がした。アーサーはあわてて居ずまいをただした。きぃと蝶番がきしんで、扉がひらいた。
 黒髪の、小柄な女。アーサーより2歳ばかり年上のはずだが、背は頭ひとつ小さい。
 いや、こんなに小さかっただろうか?
 寝間着用の寛衣にゆるく細帯をしめて、厚手の綿着をはおっている。今おきたばかりというような格好だが、ぼんやりとこちらを見上げてくる目つきは、寝起きというよりまだ夢の中にいるようだ。
「アーサー?」
 かすれた声で。
 何かいわなければ、と口を開いたが、言葉が出なかった。
「…入って」
 くるりと、少しふらついたような足どりで、エルは身をひるがえしてアーサーを促した。
 あとについて部屋に入った瞬間、つんと汗のにおいが鼻についた。



 エルが、ルパード隊に参加した理由は、兄が参加していたからだという。

* 

 部屋の中は、思ったよりも散らかっていた。
 しきっぱなしなのか、それとも今まで使っていたのか、部屋の半分は夜具がしめている。枕元には、膳がそのまま。
 エルは、ぱたんぱたんと布団をたたみ、膳を小箪笥のうえに載せた。長持からクッションをふたつ出して、敷物のうえに並べる。
「飲み物は用意がなくて。」
 申し訳なさそうに言う。アーサーはあわてて首をふった。クッションの上に向かいあって座る。ししばらく沈黙してから、
「……なにかあったの?」
「いや、別に、…」
 また、短い沈黙。
「体調、良くないの?」と、ようやく言葉をしぼりだす。
 エルは、うん、と小さく頷いて、
「少しね。風邪かな、……」言葉を濁す。
 そう、とアーサーは頷いて、また少し間をおいた。
 そして、ようやく、話そうと思っていたことを話す決心をして、口を開く。
「……夢見の巫女が、うちの店に来たよ」
「ルナ=サリナイが? どうして?」エルは目を大きくして聞き返した。ルナは有名人である。
「夢を見たんだってさ。……僕が、アルセア王になる夢を」
 それをきいた瞬間、エルは顔色をかえた。
 はっと息を飲む音がきこえた。アーサーが口を開く前に、エルは立ち上がって、くるりと戸棚のほうをむいた。
「やっぱり、お茶入れる。ちょっと待って」
 かちゃかちゃと茶器をさがす音。
「朝から火を入れてないから、冷たいのしかないけど…」
 そういえば、この部屋はひどく寒かった。部屋の隅に火鉢があるが、熱気はまるでない。
 炭を切らしているのか。まさか、そこまで困窮しているはずもないが。
 ことん、とアーサーの前に湯のみが置かれた。
「あなたのお父さんのことは、どのくらい知っているの?」
 ふと、思いもかけないことを聞かれて、アーサーは戸惑った。
「少しは……物語歌にある程度には。あとは、祖父や知り合いから少し。」
 アーサーは、父親の顔を知らない。
 ランガ=ブルガナン──当時はブルガナン姓ではなかったが、かれは、ミナがアーサーを身ごもった直後にマヌルガへと旅立ち、戻らなかった。
 出国したのちの彼の足跡は、『勇者ランガの物語歌』として語られている。ブルガナン大陸全土をまわって精霊王と会い、パンドル王の軍勢を従えて闇王国へと攻め入り、魔王を弑したと。
 このことは、アルセア人なら誰もが知っている。
「私も同じくらい。けれども、この街で退魔師をやるものには、勇者ランガの名はなによりも重い。ミナの店に退魔師たちが集まってくるのも、それが理由なんだよ」
 アーサーは頷いたが、どこか現実味のない話にしか思えなかった。
 アーサーにとって、父は他人であり、母はただ母でしかなかった。
「エル、僕は、…」
「ブルガナンを名乗るのが怖い?」
 エルの声はとても優しくおだやかだったが、アーサーは刃をつきつけられたように感じた。
「そうじゃない、でも……」
「でも?」
「僕は、……勇者とよばれるようないわれは何もない」
 それは、アーサーの真情であった。
「父が、ブルガナンと呼ばれるようになったのは死後のことだし……魔王とさしちがえて死んだというのも、誰も見たものはいないんだ。……いや、そうだとしても、それは父で、僕じゃない」
「魔王を倒したものが、勇者の姓で呼ばれるのは昔からのならいよ。親の姓を子が継ぐのも、何もおかしなことはない」
 エルはかすかに笑った。
「あなたの気持ちはわかるわ。あなたは、ただの退魔師見習い。勇者ではない。今は、まだ」
「今は、だって?」
「夢見の巫女が、あなたはアルセア王になると言ったのでしょう」
 エルは、すっと居ずまいをただした。
 アーサーの目をまっすぐにみつめて、しんのある声で、
「それは、アーサー、あなた自身の運命なんでしょう。巫女は、あなたの姓や血筋ではなく、あなた自身を見て霊感を得たのだから」
「でも……、」
「あなたが啓示を受けたと聞いても、誰も驚きはしないでしょう。勇者の子がやはり、と思うだけ。それを受け入れるかどうかはあなた次第だけれど」
 エルは、そこまで言って、緊張をときほぐすようにふんわりと笑った。
「なんて、厳しいことを言いすぎたかな」
「……いや、」
 アーサーの顔つきも、いつのまにか少し変わっていた。
「ありがとう。なんだか……」
「今日は少しゆっくりしていけるの? なにか、作ろうか」
 たちあがろうとする気配を察したかのように、エルはそういった。アーサーは首をふった。
「役所へいくところなんだ。……こんどの狩りには、連れていってもらえるらしい。だから、免状をもらいに」
 ただ、人手が足りずに呼ばれただけだが、それでも初めての狩りには違いなかった。
「よかったじゃない」
 エルは手をうって喜んだが、なぜか声は沈んでいるように聞こえた。
「ありがとう。……エルも来るんだろう」
「そうね。体調がよくなれば。」
 二人はどちらからともなく立ち上がった。かるく目配せをするように視線をあわせて、黙ってにっこりと笑う。相変わらずエルの顔色はよくなかったが、それでも笑っていた。
「それじゃ、」
 アーサーが笑顔のままドアをしめて、いなくなってから、

 エルは、ひそかにそこにうずくまって、嗚咽した。
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