第2話 矛盾

文字数 1,428文字

「……」

 男はとまどった。
 こんな狂った存在の前で、俺は死のうとしているのか。
 こんな化け物を満たす為に、俺は死ななければいけないのか。

 しかし次の瞬間、思った。

 いや、そうじゃない。

 これは俺の中に残っている、生への執着が見せている幻なんだ。
 こうして人は、幾度となく死の誘惑に打ち勝ち、また悪夢のような現実へと戻っていく。

 俺はまた、あの現実に戻りたいのか?

 そんな筈はない。もしそうなら今、ここに立っていない。
 これは俺にとって、自分との最後の戦いなんだ。そう思った。

 男は息を吐いて笑うと、柵から手を離した。
 少女の目が見開かれる。




 その時、大地が揺れた。
 何かにつかまらなければ立っていられない、大きな揺れ。

「じ……地震?」

 男は反射的に、柵にしがみついた。
 揺れは長い時間、縦と横に揺れ、やがてゆっくりとおさまっていった。

「……」

 下を見ると、人々が(ざわ)めいてるのが見えた。
 電柱にぶつかった車から、クラクションの音が鳴り響いている。




「……おさまった……のか」

 男はそうつぶやき、安堵の息を吐いた。
 そして次の瞬間、慌てて少女を見上げた。

「お……おい」

 少女は柵の上に立ったまま、微動だにせずに男を見下ろしていた。

 そして男は、少女の目を見てぞっとした。

 男を蔑む冷ややかな視線。
 落胆、侮蔑、嫌悪。
 様々な負の感情がその目に宿っていた。



「最低」

「え……」

「あなたは今、死のうとした。だけど地震が起きた。これは流石に私も、想定してなかった。でもね……本当に死のうと思っていたなら、どうしてそのまま飛ばなかったの?どうして柵をつかんだの?」

「それは……」

「結局あなたには、死ぬ覚悟なんてなかった。絶望する自分に酔って、自己否定の真似事をして遊んでただけ……ほんと、興覚めだわ」

 そう言うと、少女はつま先で柵を蹴り、宙に浮いた。

「こんなの初めて。ほんと、馬鹿馬鹿しい時間だった」

 男をどこまでも蔑みながら、少女は空へと上がっていく。



 遠ざかっていく少女を見つめる。
 まだ柵にしがみついている自分に気付き、情けなくて泣いた。
 そして笑った。
 滑稽な自分を。





「……」

 大の字に寝転がった男は、煙草をくわえて空を見ていた。

 ――どこまでも青く澄んだ空。

 こんなに空を見つめるのは、いつぶりだろうか。
 子供の頃、この空に魅入られた。
 自分の夢もまた、この空の様に限りなく広がっている、そう信じていた。
 しかし今、自分に残された最後の望み、死からも見放された。

 そんな自分が滑稽で、男は自嘲気味に笑った。



 周囲はまだ騒がしい。
 突然襲い掛かった地震は、また世界に消えない爪痕を残した。
 誰も望んでいない傷跡を。



「アホらし」



 男はそうつぶやき、くわえていた煙草を吐き捨てた。

 今すぐこの世界から消えたい、そう思った。
 しかし俺はあの時、死から逃げた。生を渇望した。

 自分の中にある矛盾に答えが出ないまま立ち上がり、階下へと足を向ける。

 あの女の望みを叶えなかった。
 それはいい。いや、どちらかと言えばせいせいした。

 ざまあみろ。

 そして……
 自分に残されたこの体。今という時間。
 何をしたらいいか、それは分からない。
 でもあの時のように、体が動くままに、心が望むままに任せるのもいい、そう思った。

 体が軽い。
 階段を降りながら、男はもう一度小さく笑い、助けを求める声に向かった。
 明日のことは明日の自分に任せよう。
 今は……好きなように生きてみるか、そう思った。
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