第6話 訪問

文字数 1,676文字

 今週の土曜はリコと会わない日だ。隔週の土曜だけ一緒にランチをする。限られた時間でしか、リコとは会えない。この日、僕はリコが毎朝訪れているだろう一軒家に行ってみることにした。
 ひょっとしたら僕と会わない土曜は、この家にいるのかもしれない、とも思った。突然訪問してしまったら、リコに不審がられるだろう。ある種の賭けのつもりで行ってみるのだ。
 午後二時を回った頃、いつもは滅多に着ない紺のスーツを羽織りビジネスバッグを持ち、歩いてその家に向かった。セールスマンを装うつもりでいた。リコがいたらいたで、それは正直に話すしかない。気になって、つい来てしまったと。
 路地の人通りは相変わらず少ない。世田谷八幡宮や豪徳寺があるほか、この辺りは大小の寺が割合ある。入り組んだ小径があったり細い勾配があったり、畑も散在している。世田谷区というには、のどかで閑静な一画だ。
 あの家の前で門柱にあるインターフォンを鳴らした。一秒、二秒、三秒…じっと玄関戸を見ていても何の反応もない。もう一度鳴らすが、同じだった。辺りを見回すと、人っ子一人いない。門をそっと開け玄関まで近づき、戸に手をかける。ゆっくり横に引いたが、鍵がかかっていた。
 誰もいない。玄関の磨りガラスからも、部屋の明かりは漏れてこなかった。しばらく建物を見上げているうちに、きっとリコはここで育ったんだろうと思うようになってきた。彼女がまだ幼いときにこの家は完成し、彼女が成長するにつれ古びてきた。
 なぜリコはわざわざ別のアパートを借りているのか、そう遠くない距離に。やっぱりリコは誰かと同棲しているのかもしれない。
 ぼんやりしていると、
「あら、あんた何してるの」
 と鋭い声が背に浴びせられた。
 慌てて振り返ったら、門の外に高齢の女が眉間に皺を寄せて立っている。
「怪しい者ではありません。こちらに今日約束があったのですが、どうも不在のようでして…」
 軽くビジネスバッグを掲げてみせた。
「ああ、そうだったの。皆川さん、今時分はデイサービスじゃない」
 皆川。迂闊にも僕は、表札さえ確認していなかったのだ。
 門の前に戻り、さりげなく表札を確認すると「皆川」とある。
「おかしいなあ、確かに今日の約束だったのですが…」
「あんた、いつ頃約束したのさ」
 老女は訝しげな表情で僕を睨みつける。
「いえ、もうだいぶ前にはなってしまうので、お忘れになってしまったのかもしれません」
 曖昧な答えで逃げたが、どうやら正解のようだった。
「あんた、奥さんと約束してたんじゃないの? そしたらお生憎様。奥さん、一ヶ月前に突然亡くなったのよ、心臓発作で」
「えっ、そうでしたか。それは存じ上げませんでした…」
 文字通り言葉を失った状態だったが、老女は続けて話してくれた。
「ほら、皆川さんのとこ、亭主があんなでしょ。やっぱり男は先に奥さんに逝かれちゃうとね…急にガタが来て」
 唇を歪めて僕の顔を見るので、相槌を打った。
「娘さんがいましたよね」
「ああ、あの娘ね…」
 途端、年老いた女は萎れたように、隣家の低い石塀に腰を下ろした。
「ここはあたしん家なの」
 指を差して、ひとつため息をついた。
「養女なのに、偉い娘で…そろそろ嫁入りしてもいいのに、両親の近くで暮らして毎日ここに立ち寄ってさ」
「じゃあ、今日も…」
「あとで来るんじゃないの」
 根掘り葉掘り聞くのも憚れたが、何せリコから聞き出しにくい。
 僕の無遠慮さが本領発揮してしまった。
「今、養女とおっしゃいましたが…」
「あの夫婦には子がなくて、奥さんの親戚からの貰い子なのさ。まあ、だから全然似てない。あの娘は別嬪さんで」
 老女は顔全体をくしゃませ、笑った。
「何でも自分で学費を払って…奨学金っていうの? あれで大学行って。ほんとよくできた娘。きっと負い目があったのさ、自分が養女だって」
 目まぐるしく感情が吹き荒れている。老女の目には、うっすらと涙がにじんでいた。
 僕は、自分の心の容量を確認した。これ以上、今はリコの新情報を入れるには一杯一杯だ。老いた女に礼を言って、ゆっくりとこの家から立ち去った。
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