姿見の恋人 (短編)  ファンタジー  純愛

文字数 19,837文字

 姿見の恋人 
〔Ⅰ〕プロローグ
 1、シャボン玉
 私は、井*幸といいます。5歳のときのことです。イジメが原因で幼稚園を中途退園し、家で小学校への準備をすることになりました。〈い**さち〉の平仮名が、書きづらかったことを憶えています。父が幸は、「ひらがなより漢字で書く方が楽なのではないか」と、言いだしました。父は、私が頭のなかで鏡文字を絵のように描いていると感じたそうです。私は、井*幸のやや左肩上がりの鏡文字を左手で右手書き方向に書くことになりました。ことばもラ行のリの発音が出来ずに〈リンゴをジンゴ〉と、発音していたことを憶えています。〈じんご〉が、とても好きでいつも林檎を丸かじりしていたのに〈りんご〉となかなかいえなかたようです。集団生活の良さでしょうか。子供の頃の適応力でしょうか。ハンディを背負いイヤな日々が続いたように覚えていますが、幼少期のこれらのハードルは知らぬまに、小学三年生の頃迄にはクリアできていたようです。文字も右手で書けるようになっていました。
 母に、「幸は、鏡文字でもよくわかるね。シャボン玉のような文字だね。可愛いよ」と、いってくれたことばが今思いだしてもうれしいです。母は、私のことを可愛いといってくれたのかもしれません。登校拒否をせずに良かったと思います。私は、ぽっとハジケルまで天地左右の区別がつかないシャボン玉が好きです。私は家のなかで小学四年生の頃まで、鏡の前でシャボン玉をよく膨らませていたのを憶えています。それ以来、左利きのことは私から遠ざかっていました。
 私が高校ニ年生の7月、夏休みが始まる前の日曜日です。***デパートの家具売り場に、姿見が展示されていました。姿見を眺めていると鏡に映る男子がひとり、私の方に向かって手を振っています。すぐに振り向けば良かったのですが、なぜか振り向けなかったのです。男子の姿が消えたときに振り返ったのですが、すでに彼の姿が見あたりません。そのとき、寂しい気持ちになりました。またその姿見に男子が手を振っています。私も思わず恥じらい気味に手を振りすぐに振り返りましたが、彼はいません。鏡のなかで手を振っていた男子を一瞬見たように思うのですが、見当たりません。
 お年玉の貯金に助けられ、その姿見を買いました。ひとりでの高価な買い物は、洋服以外ではこのときが初めてのことです。姿見の鏡を見つめているとその男子にまた会えるような気持ちになり買い求めました。その鏡を見つめているとわくわくするのです。
 毎朝、鏡に向かって・・・「おはよう」と、独り言をいうのが習慣になりました。
 私が購入した姿見が届けられた時・・・「サチも年頃になったね」と、母はいったきりでその姿見のことをあまり気にしていません。
 夏休みの最初の日曜日が巡ってきました。午前中、出かけずに姿見を見つめています。鏡に映るシャボン玉を見つめていました。幼い頃を思いだしながら私は、シャボン玉を膨らませています。午後からは河原の公園でシャボン玉を膨らませていました。男子がひとり、私に近づいてきます。私は、彼を待っていたかのように名を尋ねます。
 「名前、教えて」
 「コウです。香りの香です」
 「コウちゃんと呼ぶね」
 「はい・・・」と、首をかしげます。
 「幸せの幸。サチと呼んでいいよ」
 「僕のこと、コウと呼んでください」
 知り合いの同級の男子とは違い、丁寧なことばづかいです。穏やかな雰囲気の男子です。背が高く歳上のように見えます。来週の日曜日に香君とふたりで、アイス・スケートを滑りに行く約束をしました。日曜日が待ち遠しいです・・・ドキドキわくわくします。鼓動とこの気持ちは初めてのことです。香君との約束の日曜日が巡ってきました。今日は初めて、父以外の男性とのデートです。

 2、ときめき
 暑い日が続きます。アイス・スケート場内は涼しく、活気が溢れています。香君はスケートが上手です。私は、スケート場のガード塀の手摺から香君を見ています。香君が、私のもとにきてふたりで滑りだします。男子に手を握ってもらうのは初めてで、トキメキます。手袋の上からも、彼のぬくもりが伝わってくるように感じました。ドキドキしながら、心地よい音色にわくわくしています。ふたりがガード塀の手摺に寄りかかるとき、香君の肘が私の胸を押します。私への衝撃を緩めるように努力してくれていたようですが、彼の肘が胸を押します。私の鼓動が激しくなります。香君もジット私を見つめます。恋心がはじけました。片思いのトキメキの二拍子のリズムが、相思相愛のときめきのメロディーに変わります。心の色が白くなったことを憶えています。香君に夢中になっていく音色が聞こえてきます。
 私は、一週間前の香君と出会ったときのことを思い起こしています。香君が、私を見つめながら手を振っています。私も思わず手を振りました。彼がにっこり顔でやって来ます。香君と初めて会った気がしません。
 「僕のこと、コウと呼んでください」
 「コウは、スケート滑れる」
 「サチ、一緒に滑りに行きましょう」
 私は、黙って香君に頷きました。待ち合わせ場所を決め、私はすぐにその場を駆け去りました。心のリズムをもう少し感じていたかったのですが、もっと彼の声を聴いていたかったのですが、恥ずかし屋さんが顔を覗かせたのでその場を逃げだしました。
 スケートを終え、今朝待ち合わせた河原に戻ってきました。夕焼け空の河原に戻ってきました。マジックアワーを香君と見たかったのですが、別れ際の私は香君の手を握りしめ、その場を駆けだします。私の逸る恋こころが、燃えるような夕焼け色に染まっていきます。翌日、夏休みの宿題を済ませて河原にあいに行来ます。香君にあいたくて河原に足が向くのですが、香君にあえません。翌日も、あえませんでした。
 日曜日が巡ってきました。初めてのデートのあと、次の日曜日に河原の公園で次のデートの約束をしていました。今日のデートは香君と映画鑑賞です。映画のタイトルは〈幼いパートナー〉で、幼い愛の物語です。香君と一緒にこの映画をみることができて幸せです。映画のあと、***洋菓子店でストロベリーショートケーキを食べました。格別の味わいです。香君は背が高く、ふたりでいても違和感を、感じさせません。街なかを仲良く歩いていると視線を感じましたが、私は気づかない素振りをしました。
 「コウ、手をつないで」と、耳もとでささやきます。
 「サチ、いいのかい」
 香君の手がそっと近づいてきます。優しいぬくもりが伝わってきます。最初はその温かみで全身が震えたのですが、今は誇らしくなるのです。香君の耳もとで私は「うれしい」と、ささやきます。友達に見られていると、私の想いは風船のように膨らんでいきます。空高く舞い上がりました。恋が愛に移ろう美しさと哀愁がただよう映画に感動しましたが、ストロベリーケーキの味わいが私を子供心に引き戻します。映画観賞とケーキの賞味のあと、しばらくアーケードの賑やかな街なかをふたりで散策します。歩いているだけなのに楽しいのです。何度も行き来した通りなのに今日は違って見えます。『こんなところにこんな店があったの』って、感じです。
 待ち合せた河原の公園に戻ってきました。公園のベンチで、私は香君に寄り添っています。男子の匂いが、香君の匂いが漂ってきます。私は男子の匂いに包まれたのも初めてのことです。香君に漂う香りは好きです。香君と一緒にいると乙女心がちらつきます。香君の香りは、私の恋心を包み込みます。包まれていきます。こんな気持ちに浸っていていいのでしょうか、恋を描いていてもいいのでしょうか。周りは皆、受験勉強を始めています。大切なときです。私は、香君に引き込まれて行くのがせつないです。私はこの気持ちに抗しきれないのがこわいです。香君が私を少しずつ大人に導いてくれることに、戸惑いを感じています。でもこのメロディーは、安易にスルーできません。今まで聞いたことのない調べです。この心地よい音色が、私の恋心を高揚させていきます。夕焼け空の美しさに、マジックアワーにせかされて家に帰ってきました。
 姿見の私に「コウが大好きです」と、つぶやきます。姿見の鏡に私の全身を映し、香君のことを考えていると、自分が〈活き活き〉と輝いて見えます。香君も姿見に現れだしました。鏡映えする香君の笑顔が私を見つめているのです。すかさず振り向いたのですが、彼は私の部屋にはいません。香君は鏡のなかにいるように思いましたが、まさかそんなことはあり得ないことです。彼と私は、二度もデートしているのですから・・・そんなことはあり得ません・・・デートしていなくてもあり得ません。
 香君と来週の日曜日は、トレッキングの約束をしています。六甲山に行きます。香君とあえると思うと心がときめきます。それまで、香君と夏休みの宿題を頑張る約束をしました。お風呂から出た私は、バスローブ姿の自分を姿見の鏡に映し、濡れ髪の手入れをしながら鏡のなかのスミズミを、ベッドの下まで鏡に映る部屋の隅々を探しましたが、香君はいません。私どうかしています。きっと恋心がもたらす悪戯です。幻覚でしょう。
 今日は、夏休み途中の元気な顔見せの登校日です。登校日の朝、クラスの女子たちが、私を見て騒めき始めます。席に着くと前席の仲のいいシホが振り向き、私と彼氏との噂のことを教えてくれました。シホは中学生からの親友で、クラブ活動も中学のときから同じ山岳部です。私と香君とがスケート場でジャレ合っていたと、噂が広まっていました。ふたりが昨日、繁華街で手をつないで歩いていたことも話題になっています。香君と一緒のときはちょっぴり恥かしいのですが、今のように同級生達に噂されても平気なの
 「見たわよ」
 「彼はだれ」
 「高校生なの」 
 「どこの学校」
 「年上じゃない」
 「何時からなの」
 「言いなさいよ」と、騒ぎたてます。
 皆、恋バナが楽しいのです。気になるのです。恋ネタは、男女共学校よりも女子学園の方が話題になるようです。何を聞かれても内緒と言って切り抜けます。結局のところ、私も香君のことをよく知らないのです。クラスメイトにせっつかされて・・・そのことに気づきました。不安と好奇心が錯綜する不思議な恋に夢中な私です。

 〔Ⅱ〕秘密
 1、鏡の世界
 夏休みの宿題を終わらせたのは木曜日です。残る夏休み中の課題は絵画日誌のみです。香君との時間が沢山持てるようになりました。金曜日、私は熱が出て家で休んでいます。勉強疲れと風呂あがりのあとの湯冷めのせいだと思います。土曜日には、三八℃以上の熱が出て寝込んでしまいました。私は、香君に連絡しないと迷惑を掛けることになりますが、連絡先を聞いていないのです。ふたりが恋をしているのが不思議なぐらいです。複雑な気持ちですが、仕方ありません。明日までに、熱が下がるのを祈るしかありません。無性に香君にあいたくなってきました。
 『コウ、あいたいよ』、そんな気持ちが行き来し、私はうなされていました。月明りが差し込む真夜中のことです。熱冷ましのタオルの取り替える動きで目覚めます。タオルの取り替えを、香君がしてくれています。虚ろな私の傍に香君が座っています。
 「サチ、早くよくなるといいね。トレッキングは延期しよう」と、優しい香です。
 私の胸がキュンと押され、目頭が熱くなりました。彼氏がいることは、日々のときめきと好日をもたらしてくれるのですね。母が、二階に上がってきます・・・香は左手をさっと振り、スルリと姿見のなかに消えていきます。母が私の様子を窺いに部屋に入って来ます。私は寝入っている振りをしました。母はタオルを取り替えて、静かに一階に戻っていきました。日曜日が巡ってきました。私は熱も治まり元気を取り戻しましたが、今日のデートは中止です。私の体調が回復するまで延期です。寝床で安静の私は、昨夜の香のことを思いだしています・・・笑顔で鏡のなかに入っていく香のことを、鏡のなかの香のことを、優しい微笑みを見せてくれた香のことを思い起こしています。香のうしろ姿が、鏡のなかに消え入るように隠れていきました。不思議な思いが心を惑わせます。不安が過ります。鏡のなかの香の振り上げる手は、鏡に写る右手ではなく鏡の中の彼の左手だったのです。鏡文字のようにシンメトリーの界がありません。姿見のなかにも鏡の世界が・・・別世界があるようです。私は、香に夢中で思考の整理が出来ません。不可思議な恋で誰にも信じてもらえそうにはありませんが、私はそれを受け入れられるのです。受け入れています。
 恋しくて・・・『コウ、あいたいよ』と、鏡に向かって彼の名を呼びます。
 姿見の奥から、彼が現れます。笑顔の香が現れました。私は両手を差し伸べて、彼にハグを求めました。香は優しく私を包んでくれます。こんな不思議なせつない気持ちに浸れるとは思いもよらないことです。信じられません。不安と幸せな気持ちが交叉し、心から不安と幸せ感が溢れそうです。心がひとつでは足りません。不安な心と幸せなこころの思い想いがこぼれそうです。戸惑いが体の震えを誘います。
 彼は、ふたりの立場を話し始めます・・・
 「僕がサチにトキメキ、サチの前に姿を見せることが出来るようになれたのだよ。サチが僕にときめいてくれたので、僕は鏡から出てサチに姿を現せることが出来るようになれた。僕は、鏡のなかの一軒家でひとり暮らしをしている。サチの暮らしのなかでふたりが愛しあえば、僕は鏡の暮らしに戻れなくなる。サチの暮らしのなかでは、僕はきっと暮らしていけない。この話を聴いて僕とあいたくなくなれば、もう現れないよ」
 「私が、鏡のなかに行けないの」
 「僕が住む鏡の暮らしのなかでふたりが愛し合えば、サチが戻ることができなくなるよ。サチの未来の夢は僕の夢でもありふたりの夢でもある。ふたりには、夢はひとつだけしか持てない」
 「私はコウと一緒にいたい。先のことなんてどうでもいい。ずっと一緒にいたい」
 私から香にハグをしました。私は涙をこらえられなくなりました。なぜか私は彼が話す摂理に逆らえないと感じましたが、納得できません。納得できない香の話に、こころがかき乱されます。恋を遮る壁が厚くなればなるほどセンチメンタルな感情が、こころの隅から湧き起こり全身に広がります。季節が巡ると、香は消えてゆくことを黙っています。そのときのことを詳しく教えてくれません。私もこわくて、そのときのことを聞けません。香は私に別れのときの辛さも話さずにいます。
 「サチ、このことはふたりの秘密だよ」
 「コウ、誰もこのことを信じないと思うよ」
 私の体調が回復し、数日遅れの登山日を迎えます。母には女子三人組でのトレッキングと言って出かけます。おにぎり3個を持参のトレッキングです。私は姿見の前でモデルのようにポーズをとり、彼に声掛けします。
 「コウ、行くよ!」と、気合いが入っています。
 靴紐を引き締めている時・・・
 「誰に話しかけていたの」と、母が聞いてきます。
 「鏡のなかの彼氏に」と、私は母にありのままをいいますが・・・
 「変な子」と、笑う母です。
 これで、母との会話が途切れます。私が、彼氏の話を持ちだしても取り合わない母です。もう大人のこころなのに・・・でも、彼は鏡の世界の恋人です。母でなくても、鏡のなかに彼氏がいると誰も信じてくれないと思います。きっと信じない。
 「いってきます」
 「いってらっしゃい」と、母が送りだしてくれます。
 香が私を見つけると、河原のベンチに置いていた登山用リュックを背負い土手道まで登ってきます。私はふたりが並び歩く姿は、恋人同士の雰囲気がムンムン漂っていると感じながら歩いています。ケンカして、香とのスイッチのつけ違いをしないようにしなくては、後悔しないようにふたりの残された時間を大切にしなくては、私の心がハチキレそうです。
 ***六甲登山口からごろごろ岳を目指し、登り始めます。私達は、間もなく標高五六五のゴロゴロ岳に差しかります。大小の石がごろごろし始めてきました。私は山行中、想いを巡らせています。女子は、みんな私のようなときめきの不安を感じるのでしょうか。男子はどうなのかな。香は、私よりも大人の感じがします。ときめきと言うよりも、愛おしさの苦悩がひしひしと伝わってきます。だから私は、香に熱くなれるのだと思います。香と一緒なら、どこにいてもうき浮きします。時折せつない想いも覗かせますが、それも私にはセンチメンタルなジュエリーの輝です。こんなにもこころがおどる恋心があるのですね。生まれてきてよかった。香と出会えてよかった。
 『お母さんありがとう。生まれてきて良かったと、心が感じています』
 香があとから私を見守るようについて来てくれています。これから先、何があっても頑張れそうな気持ちです。発達障害といわれてきた私も、はじける季節があるのですね。とてもうれしいです。香とあとどれだけ一緒にいられるかわかりませんが、私は香の日差しを受けて眩しいです。今のようにときめき続けていると、きっと疲れると思います。だから、寂しいときが訪れてもいいのです。香との別れのときが来ても、私は耐えます。本当に耐えられるのでしょうか・・・強がりです。考えるだけでもめいります。香は、私の恋するこころを開いてくれました。愛の心得を授けてくれています。人の為に役に立つ生き方を夢見てきましたが、それはあと回しです。私の将来の夢より、香とのことが最優先です。
 「危ない!」と、3m先のグループの人達が叫びます。グループの後方にいた二人が、滑落し始めました。私の足元の大きな石も崩れていきます。
 「サチ!這いつくばって」
 香はすでに這いつくばっています。這いつくばって自ら滑落していきます。私の足もとで踏みとどまっています。私は、香に支えられ少しずつ元の位置まで昇りました。前のグループの男性が、香にロープを吊るします。グループの人達も、私達ふたりも無事でした。グループのリーダーは、岸本先生と呼ばれていました。山小屋で、岸本さんがふたりにラーメンを差し入れてくれました。ラーメンは、生卵入りインスタント麵ですが、山でいただいたラーメンはとてもおいしかったです。このインスタントラーメンが初恋の味かな・・・いいえ、ストロベリーケーキが私の甘い初恋のドルチェなメロディーです。香と食べた梅入りのおにぎりも忘れられない味になりそうです。
 河原の公園で香と離れるとき、香の左手の親指と人差し指の周りが赤く腫れていました。
 「他に怪我はない」
 「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」と、全身打撲の香が私を安心させます。
 「明日の朝、あいたい」
 「サチの部屋にいくね」
 残りのおにぎりは香が持って帰りました。寝る時間が来ても私は寝づけずにいました。
 ラーメンの容器を片付け岸本さんにお礼に行ったときのことを、リーダーの岸本さんが話してくれたことを、私は思い起しています・・・「うちの生徒達が話していた。彼は身を投げだし、とっさに君をかばたそうだ。頼りになる彼氏だね」と、話してくれたことを思い起していました。香も遠くからグループの皆さんに頭を下げて差し入れのお礼をしてくれています。香のことを他の人から褒められると、一層うれしさが増します。
 翌朝、香がなかなか顔を見せてくれません。
 姿見に「コウ、おはよう。早く顔を見せて」と、幾度も催促するのですが、顔を見せてくれません。近頃涙もろくなり、私は泣きだしてしまいました。すると赤い顔の香が現れてきました。
 「コウ・・顔が赤い・・・熱があるのね」
 私の掌が鏡のなかの香の頬に・・・熱っぽい香に私は慌てだします。私は香の看病のために冷えた水とタオルを用意し、香の傍に行きます。香は自前の薬を服用していました。私は、香の身体の汗を懸命に拭き取っています。泣きながら汗を拭きます。香に何かあれば私が悪いのです。彼を守らないと、私が守らなければ・・・香を見つめているだけで涙が溢れてきます。私は、香の傍でウトウトしてしまいます。香が、私の手を求めてきます。その動きで目覚めた私は香の手をしっかりと握りしめました。香の熱が下がっています。安心の涙が静かに頬に伝わります。頬からふたりの手に安堵の涙がこぼれ落ちてきます。私は、泣いてばかりです。香は、目で微笑んでくれました。ときめきのとき以上にその微笑みがうれしいです。香の熱が下がり、うれしいです。ほっこり風が私の胸の重しを吹き去り、風通しよくなりました。香と出会って、お母さんのありがたさに気づきました。
 『お母さん、ありがとう。これからもよろしくお願いします。お手伝い、嫌がりません』
 私が小学二年生のときのことです。病院で四十℃以上の高熱でうなされていたとき、もうろうとする私の枕元で母が泣いていたことを思いだしました。母のそのときの涙が理解できたような気持ちになりました。母にとって私は掛け替えのない子供です。私にとって香は、掛け替えのない恋人です。
 『コウ、好きです』と、香を見つめるこころにつぶやいていると・・・香が少し肩を持ち上げて「サチ、好きだよ」と、私に囁いてくれました。昨日から何も食べていなかったのでしょう。しばらくして、香はおにぎりを食べはじめようとします。私は、そのおにぎりを温め直します。おにぎりが、みじん切りの茗荷を添えた梅粥に変身しました。
香の発熱でとてもいいことがありました。私も鏡のなかを訪れられるようになったのです。
 『うふふ』・・・行ったり来たりができるのです.

 *小休止をするならこの辺りがいいと思います。

 2、ふたりの小径
 ふたりは奈良の東大寺を訪れ、頼りがいのある大仏様に手を合わせています。
 私は『コウとなるべく長く一緒にいられますように』と、手を合わせます。
 実は私、初日の出の折り、ご来光に進学がうまくいきますようにとお願いをしました。あちらこちらで色々とお願いするのは厚かましいと思いますが、お願いしてしまいました。
 『・・・の件も重ねて、お願いします』と、欲張りました。ふたりが手を取りあって丁度の幅の道です。フェンスも垣根もなく雑木林の道です。道のなかほどがずっと先まで窪んでいます。寄り添わないとふたりで歩くことができない小径です。私は、香の右腕に身を任せます。香の肘 が、私の胸元に宿ります。私は、香の腕を抱きしめて歩いています。
 「この小径を、コウと一緒に歩けてうれしい」
 「サチ、先に見える覆堂で休もうか」
 ふたりで並んで休むのにほどよい濡れ縁です。私は、冷えた玄米茶をふともものジーンズにこぼしてしまいました。香がハンカチですぐに拭き取ってくれようとするのですが、思わず手を重ねて制止します。恥かしくて、制止しました。香が手を離そうとするとき、私の手は香の手とともにふともものお茶の沁みを拭きとります。恥じらいが甘美な感触に変わりました。ふたりは、腕組をして歩いています。香の腕を胸に押し当てながら、私は歩いています。胸のなかの香の腕が、私に語りかけます・・・
 貴方に触れると心がときめくのです
 あなたの白花の香りが漂ってきます。
 貴方へのつぶやきが増えていきます
 あなたの白花のささやきが届きます
 貴方のこころの音色がいとしいです
 あなたの白花の息が伝わってきます
 僕は白花のような貴女が愛しいです
 私もあなたをこよなく愛おしいです
 「コウ、この小径に名はあるのかな~」
 「ふたりの小径」と、香が私の耳元に囁きます。
 私が行ってみたいというお店で、ぜんざいを食べて帰ります。奈良から予定よりも早く河原に戻ってきたのですが、河原から鏡のなかの香の家に寄り道します。ふたりが河原から消えても誰も不思議がらないと香が、教えてくれました。香の家のまわりは生け垣のように畑に囲まれています。畑が途切れても朝顔が連なっています。わずかな空き地にも、地を這うように朝顔が花を伸ばせています。あますところがないように花と野菜が根づいています。黄花コスモスが庭のすき間を埋め尽くしています。垣根のような竹囲いからトマトが、赤い顔を隠し切れずに覗かせています。私よりも背の高いトマトの生垣がとても印象深いです。
 私が、ミニトマトを摘まみ採り胸元で拭き取っていたら、香が私にイタズラします。手のひらを広げ親指から中指までの三本の指で、私の胸のミニトマトを摘まんでいる指を押すのです。そして、下方向に軽く押し下げようとします。香の指が私の指に触れ私の指と指とにはさまれたミニトマトが、私の胸元に近づきます。反射的にピシャと、香の左手をひっぱたきますが、私の手が香の手を包み込み、ともに下へと運びます。恥じらいの音色がこころに届きます。このミニトマト、初めて魅惑される甘酸っぱい味わいです。家の周りは小さな畑がとぎれ途切れに連なり、野菜は自給自足のようです。それぞれが元気そうな野菜たちです。香が作る料理は、自家野菜の直行便が脇役を務める絵のようです。美味しそうに描かれています。香が吉野粥を作っています。塗椀には、五分粥に桜花漬けが塩味を調えています。持ち易く調温された椀の朱色が粥を包み込み、粥は桜花を引き立たせています。こんな味わいの粥は初めてです。ビロードのようなトッピングのくず湯の舌触りがなめらかです。片口のような白磁の碗に桜花漬けを浮かべ、香りを聞きながら粥をいただきます。その碗の桜花漬けは、おかわりも兼ねます。碗の湯けむりから、ほんのりと桜の香りが届いてきます。お米と葛粉以外は、香の創作です。しばらく眺めました。風邪をひいて寝込んだときに、母が作ってくれたりんご汁と五分粥が思い出されます。母が作り出す裏漉しの林檎汁は、今も一番の味わいだと思いますが、お粥は香の風味が一番です。香と一緒にいただくからでしょうか。一緒にいただく味わいが一番です。母の裏漉しの隠し味は蜂蜜、香は微塵切りの茗荷を粥に忍ばせます。
 「明日のお昼ご飯も一緒がいいなぁ~」
 「明日もお粥でいいかい。蒸し野菜とお漬物も用意できるよ」
 「コウと一緒にいたい」
 「十一時頃にきて」と、香が私ににっこり顔。
 「コウ、うれしいなぁ」と、跳ねる私。
 香の家は、古い民家です。土間迄目の字のように部屋が三つ連なり、二間には畳がひきつめられた欄間続きの通し間になっています。奥の床の間がある部屋が香の空間のようです。私が一人で生活するには寂しい広さです。とてもこわいくらい静かな一軒家です。土間寄りの部屋は板の間です。調理場と居間が続きの板の間です。家族は誰もいません。その程度しか話してくれませんが、いいのです。私は香と一緒にいられればいいのですから。でも、寂しい暮らしのように思いました・・・
 『コウ、私がいるよ』と、心に呟きました。
 姿見の鏡から私の部屋に戻ってきました。一階に降りていくと、母が不思議そうに私を見つめます。
 「何時、帰っていたの」と、母が尋ねます。
 「一時間ほど前かな」と、うそぶきます。 
 「あっ、そうか。買い物に行っていたときね。お腹空いているでしょ。もう少し待って」
 お腹が空いていないのに母が作ってくれたカレーを無理して食べました。母のカレーは、隠し味に熟成のバルサミコをほんの少し入れ味を整えます。牛肉の細切れと隠し包丁入りの手羽元を発泡スチロール箱で煮込みとても美味しいのですが、こんな日が続くと太ります・・・『私ふとっちゃう』と、嘆きました。
 約束の時間より一時間も早く香にあいにいきます。香は、南側の畑でインゲン豆を収穫しています。皮ごといただけるインゲン豆です。枝豆も収穫しました。香が、顔を手拭いで覆い茗荷畑に潜り込みます。茗荷の藪には虫がたくさん隠れ忍んでいるからだそうです。玉ねぎはきざんであります。キュウリとナスも下ごしらえが済ませてあります。料理の用意が完了です。刻みインゲン豆の七分粥です。トッピングの細切り茗荷が、粥を上品な味わいに仕上げてくれています。美味しい粥の仕上がりです。塩加減は好みに合わせます。私は、少し塩を馴染ませます。香は塩を使わないのですが、すでにかすかな塩味を粥に忍ばせてありました。インゲン豆の程よい歯ごたえと茗荷のさわやかな味わいの粥です。香が豆で私が茗荷です。ふたりの夏の恋味のする粥です。枝豆も茹でました。ふたりは、お昼ご飯をまめまめしくいただきました。
 香は、淡い味わいが好みのようです。さらりと蒸した野菜は、振り塩もせずにそのまま食べるのですが、味わい深いのです。野菜の淡味が伝わってきます。香のお家で飲むお茶も自家製で、苦味のあとからお茶独特の甘味がいつまでも続くのです。
 「コウの淡い料理は、長生きできそう」と、褒めるのですが、にこりと微笑みながらスルーします。お漬物も浅漬けです。『コウは、長生きしそうです』と、香の淡い料理に心で感嘆します。香と一緒に食事をするようになってから、私は料理に関心を寄せるようになりました。昼食を済ませたふたりは、しばらく河原のベンチで寄り添います。仲の良いカップルのように、物静かにくつろいでいます。ふたりの貴重なくつろぎのときです。
 「ただいま」と、私は玄関から戻りました。
 「サチ、お帰り。お豆腐を落としちゃったの。二丁買ってきて」
 「オーケー」と、快く返事します。
 いつも愚痴っぽい私ですが、今日は心地よく請けあいます。同じ豆腐でも、味の深みがある豆腐を求め、遠くの豆腐やさんまで買いに行きます。食材を気にしだしたのは香の影響ですね。夕食のあと、我が家は味付けが濃いと感じました。これも香の調理の影響です。
 翌朝、朝ご飯のお手伝いをします。母がみそ汁を作り、私は枝豆の粥を作りました。
 「つまみの枝豆は、残してあるのか」と、心配顔の父です。
 母は、美味しいといってくれますが、父は晩酌用の枝豆の心配をしています。
 「これから、チョクちょくよろしく」と、母は私のお手伝いをよろこんでいます。
 「いいよ、まかせなさい」と、調子に乗って安請けあいします。

 3、区切り
 中学生のクラブ活動の同窓会山行の連絡が、春にありました。富士山登頂の案内状です。中学から高校の今も、私は山岳部です。中学と高校との一貫した女子学園です。山小屋で一泊する登山計画です。参加OKの返事をしていました。卒業時の三年生は七人でしたが、三人不参加で、山岳部顧問の先生を含め女性が五名のパーティーです。シホも参加します。彼女はたった一人の写真班で、腕前はプロ級です。
 中学生の頃の山岳部は、六甲登山部のようなものでした。高校の山岳部は、伊吹山をはじめ奈良の山といった具合に近畿一円の山々で変化がありますが、今回は日本一の富士山登頂計画です。香のこと以外で、これ程緊張するのは久しぶりです。
 『コウ 一緒に登れなくてごめんなさい 戻ってきたらカレー作ってあげるね』
 冬山登山をしない私達は、トレッキングシューズです。中学と高校の山岳部顧問の先生の名は、万千歩【まちほ】で私達からマーチィ先生と呼ばれています。一本ストックのマーチィ先生の立ち姿はカッコイイです。マーチィ先生が先頭で、クラブの部長だった私がしんがりを受け持ちます。私達は、先生と並んでの一行です。マーチィ先生のストックのさばき具合で、私達は先生の感覚を素早く捉えます。先生の間合いの取り方も私達には慣れた感覚です。ごろごろ岳の一件以来、香の山歩きも信頼できますが、マーチィ先生が一番です。六合目付近でマーチィ先生は再度各種各所の装備の再確認をし、心を引き締め直します。その時、香に似た背格好の男性が気にかかり始めます。香に似ているというよりも、香のことが気にかかり誰もが香に見間違えるのです。マーチィ先生に気付かれると私の立場がなくなります。山行に集中しなければ、皆に迷惑を掛けることになります。
 『コウ しばらく離れていて お願い』
 私の視野に男性が現れると、誰しもが香に変身するのです。
 『お願い 幻でも現れないで 心がざわめくから現れないで コウ嫌い』と、きつくこころのなかの香につぶやきます。香が現れなくなりました。私に嫌いといわれて香が現れなくなったのでしょうか。はずみで嫌いと言ってしまったのです。そのことばは気にしないで・・・香らしい男性も見あたらなくなりました。心のざわめきが治まりました。私は冷静さを取り戻します。
 富士山の爽やかな空気が、感じとれます。心地よい疲労感が、充実感が、全身に通い始めます。登山の楽しみはこの充電されていくときの感覚が味わえるからでしょうか。そこに山があるからでしょうか。登頂をなし得た時の達成感に、私もよろこびを感じます。登山は区切りがハッキリしています。その都度の達成感が身体中に充満します。頂上での眺望も区切りの景観です。雨の日も風情を捉えられます。今回は、ご来光も楽しみです。区切りって、とても大切なことなのですね。私は、香との流れが止まるときの区切りのときを見逃さないようにしようと思います。
 『コウ 私はせつなさをも見逃さないよ』
 七合目近くで私は、香が愛おしくなってきました。香にあいたいです。七合目で私達は、水分補給をします。私は『幻影でもいい コウにあいたい コウ 現れてきて』と、お願いしましたが現れてくれません。香が、イジワルします。私のわがままなところは見逃してほしいのですが、見逃してくれません。 
 『コウのバカ イジワルなコウ もういい』と、私のこころのなかの香にグッチリます。
 私は、気難しそうな顔をして水分補給をしていることでしょう。
 ・・・・・
 「マーチィ先生、サチどうしたんですかね」と、シホが問いかけます。
 「恋する乙女は、わがままで気分屋になるのよ。覚えておくといいわよ」
 「恋ですか」
 「きっと、そうよ」
 シホは、いい加減なことをいうマーチィ先生だと思いました。
 ・・・・・
 九合目の小屋で私達は、宿泊します。ここで翌朝のご来光を拝む予定です。私は、今回の同窓会山行案内状を受け取った時、まだ先のことですがご来光に合格祈願をするつもりでいました。私にとってはそのことが一番大切なことです。私の夢は、国々を駆け巡り役に立つ仕事に就くことです。でも今では香の健康祈願をしようと思いましたが、お願いごとが増えて迷います。私のこころに宿る香は、いじわる屋さんなのでやはり合格祈願にします。私は、恋より将来を選びます。『ご来光様、順調に進学ができますようにお願いいたします。希望校は※〇※〇です』と、予行練習をして寝袋に潜り込みます。これで寝過ごしても安泰です。
 私は、寝過ごしませんでした。というのも真夜中でも人の動きが頻繫で、熟睡出来なかったからです。それで、感動のご来光を拝めることができました。湖のような雲上に昇り来る一瞬、一瞬が尊く輝きます。香と一緒に見たかったご来光です。最高のご来光を、香と一緒に見られなかったことが、こころ残りです。朝の支度を終え、私達は富士の頂きを目指します。頂上では、最高の登山日和に恵まれたすべての人が清々しい笑顔を振りまいています。私だけが、寂しそうにしているようです。頂上での休息のときにも愁いが隠し切れません。
 ・・・・・
 元気で闊達な万千歩が、水分補給しているその時・・・
 シホが「マーチィ先生、サチはどうしてしまったのですかね」と、また問いかけます。
 「言ったでしょ。恋の苛立ちが分からない。恋の病は、お医者様でも治せないそうよ」
 「また、恋ですか」
 「きっと、そうよ」 
 シホはマーチィ先生の恋だ、恋だ、に呆れ顔です。
 ・・・・・
 あと一歩で頂上です。その一歩を青年が踏み込みます。万千歩が立ち上がったその瞬間・・・万千歩は、元彼を垣間見ます。ニッカボッカーズにノーホクジャケット姿の青年を万千歩は見ています。懐古的スタイルが斬新な青年を見つめています。青年は、万千歩の彼氏を彷彿とさせる風姿なのです。元彼への懐かしい幻影を見ます。万千歩にも大切だった男性の幻影が現れました。山の風がこだまのように思い出を・・・懐かしい幻影を運んでくるようです。
 その青年に女性が飛びつきます。青年は、飛びつく勢いにぐらつきもせず、女性を受け止めます。彼女の飛びつく勢いが、青年には大人びているシャポーをずらします。
 シホが、「サチ、こっち向いて」と、ふたりの一瞬を捉えます。幸と香とのシャッターチャンスを逃すことなく、シホはふたりの千歳一遇の好機を撮ります。
 私は、上機嫌で香に抱き支えられています。香が現れても驚きません。不思議な恋をしている私は、自然によろこびます。私の大胆な行動に押されるマーチィ先生達も、不思議がらずに私達を受け入れてくれます。香はマーチィ先生が引き連れているメンバーに溶け込み、干瓢巻きを配っています。香の干瓢巻きは、干瓢と一緒に茗荷の千切りも加えられた自家製の細巻きです。手土産付きの香の評判は、細巻きではなく、まるで特上にぎりのようです。 私達のグループは、ひとり増えて六人での下山です。
 ・・・・・
 「マーチィ先生の恋のお話、あたりですね」
 「あたりでしょ。勉強になった」
 「受験勉強にはなりませんが、人生勉強になりました」と、軽くお辞儀するシホ。
 二人は、声を出して笑いだします。
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 香が先頭で、万千歩がしんがりの下山です。万千歩とシホが話しながらの下山で余裕を見せていますが、香の安定したバランス感覚を万千歩が見抜いての歩順です。一休みのときに幸からごろごろ岳のアクシデントを聞いた万千歩は、下山途中で香にしんがりを任せます。万千歩と幸が先頭に出ます。万千歩は、幸に先頭を任せます。幸は、香と離れても寂しがりません。万千歩の采配は的確です。
 ・・・・・
 「マーチィ先生の歩順、さすがですね。人生勉強に次いで登山勉強になります」
 「彼は歩き慣れていて、安心できるのよ。シホ、私についてくると勉強になるよ」と、万千歩の自慢気な表情に、シホは口元に手をあてクスッとします。
 ・・・・・
 私の鋭い集中力を感じるメンバー達です。登山のあと先生は反省会に私と香を外し、ふたりをひと足先に帰してくれました。反省会は地元の花火大会の日で、中学の登山部の後輩達とともにキャンプファイヤーを囲みます。私は、香の家に寄ります。帰路の途中で買い物を済ませ、仲良く帰ってきました。私は、カレーを作っています。私は反省会の後、友達の家に泊ることにすると母に連絡しました。  
 私は『お母さん、ごめんなさい』と、心のなかで謝ります。
 「コウ、味醂はどこ」
 香の家でカレーを作っています。今回のカレーに味醂を加えました。香の家にある味醂は違っています。四合瓶に入っていて、飲めるのです。まろやかで飲める味醂です。私は、初めての味わいに酔いしれます。父が海外出張のときに買ってきたバルサミコ酢に勝るとも劣らない純な味わいです。母譲りのカレーです。牛肉と鶏肉の合わせ出汁です。香の畑で採れた夏野菜に塩を少々加え軽く蒸し、それをライスカレーに添えます。香の浅漬けも蒸し野菜の隣にそっと添えます。
 「こんなにも美味しいカレーは初めてだ」
 「コウの作った野菜が新鮮だからだよ」
 「牛と鶏の取り合わせの味わいが実にいい」 
 「コウとふたりで食べると何でも美味しくなるね」
 彼氏はまるで調味料のようです。私は、美味しそうに食べる香を見ているだけで満腹になります。ときめきとは違う充実感に満ちています。胸がはち切れ、しあわせ感をこぼしてしまいそうです。しあわせの受け皿が一枚では足りません。私も香と同じくライスカレーをもう一皿お替りしました。
 ・・・・・
 花火が音を立てて咲き誇ります。花火が、華麗に咲き誇り消えていきます。後輩達と合同のキャンプファイヤーが終わりを告げます。
 「マーチィ先生、ふたりは大丈夫ですか」
 「シホ、あのふたりは大丈夫よ。私には、ふたりの運命が見えるの。可哀想なふたり」
 シホは、マーチィ先生の寂びしそうな語り口に頷きます。マーチィ先生の話すことはドンピシャリなので素直に頷いています。何度も何度もシホは頷いています。
 ・・・・・
 夕食のあと、私達は転寝しました。仮眠のあと、私達は寝具を整え直し寝入ってしまいました。私が目覚めたときは、まだ日が変わっていません。カレーがのどを乾かせます。水分補給して、香のもとに戻ります。私は、香の胸のなかに納まるようにするりと潜り込みます。香は左手を引き、私を潜り易くしてくれます。左手が戻ってきます。私をふたたび包みます。香の熱いこころに包み込まれます。私は胸の芯が恋い焦がれ、舞い上がるのを抑えています。花火のように夜空に咲き誇るのを抑えています。私はまだ咲かずに土の中で忍び続けるかたくりの花のようになります。心残りは香と一緒にご来光を見られなかったことです。
 「コウのことを想いながらご来光にお願いごとをしたよ・・・コウ・・聞いているの」
 「僕もサチのことを想いながら、ご来光に願いごとをした」
 香は、地元の一団に交じりながら御殿場ルートを登っていたのです。御殿場ルートの八合目の山小屋から、ご来光に私へのお願いことをしてくれていたのです。私と香のこころは、ひとつになってご来光を仰いでいたのです・・・私には、香のお願いごとがわかります。
 『サチの将来の夢が成就しますように』
 私は、幸せ者です・・・『コウ、ありがとう』

 〔Ⅲ〕エピローグ
 1、恋の季節
 香に抱かれながら私は、夜を明かします。
 『コウ、せつない想いをさせてごめんなさい。ああぁ~、愛し合いたい』
 香は、私を大切にしてくれました。私もそのせつなさに耐え忍びました。香の暖かみが伝わる抱擁に甘えながら、焦がれる想いを私は抑えました。香のせつなさも痛いほど伝わってきました。せつなくて苦しいのに私は香と一緒にいたかったのです。私は女性としての体調がくずれていましたが、ふたりのこころは愛に溢れます。夜が明けます。
 香は、朝食を作ってくれています。私は、寝具の中で何度も伸びをします。私は、贅沢な朝を迎えています。香が、私の頬に口づけしてくれます。
 「サチ、おはよう」
 私も身体を起し香にキスを返します。
 「コウ、おはようございます」
 塩といい、味醂といい、醬油もそうです。香の家には純な味わいが揃っています。でも、香の口づけが一番純な味わいです。朝食のあと、香が色々と話してくれました。教えてくれました。
 「僕の話しを最後まで聞いて。サチにとって大切なことだから、最後まで聞いて欲しい」と、香が話しを続けます・・・「ふたりが愛し合えば、サチが不幸になると思う。幸が僕の暮らしを選べば、両親と離れ凡々な暮らしをすることになり、サチが不幸になるかもしれない。サチの暮らしを選べば、僕とサチが不幸になるかもしれない。今だとサチが考えるときを持たないまま愛を選ぶことになる。僕は、サチの夢を大切にしたい。サチは、熟考する季節【とき】を持つべきだと僕は思う」
 私は愛しあうということが、少しわかりかけてきました。愛することは、季節をともに過ごすことなのですね。愛することは、こころがひとつになることなのですね。香は私の夢を奪いたくないというが・・・『私のこころは、コウを想い続けたいです』
 香が秘密だと言うけれど、ふたりのこの恋のことは、誰も信じてくれないと思います。でも、季節を急ぐ秋桜の花たちは私を見てくれています。朝顔が儚さを覗かせています。
 「明日もあいたい。一緒にいたい」
 「夜の十ニ時までしか一緒にいられないよ」
 香との最後の日に、デートのときの香の想いなどを聞かせてもらいました。香は、私のことがいとおしくて、愛おしくて苦しみ続けたそうです。今も愛おしいといってくれます。香は私を優しく包むように抱きしめてくれています。私はまるで姿見の鏡のように香のこころの彼方まで透き通しています。私のこころは香を抱きしめているかのようです。私が香に抱きしめられているのに、私も香を抱きしめているようです。これは恋でしょうか、この感覚は愛なのでしょうか。私のこのこころは何色なのでしょうか。間もなく十二時が過ぎ、日が変わろうとしています。香は私をそっと、お姫様抱っこして私の部屋のベッドに横たわらせてくれます。香は静々と姿見のなかに戻っていきます。私は寝ているふりをしておわかれするつもりでいました。でも、じっとしていられずに起き上がります。鏡の香に『さよなら』と、こころにつぶやきます。私は、香の頬を伝わる涙を初めて目にします。香のくずれていく顔が滲んでみえます。ふたりのこのこころは愛の音色です。私は姿見の鏡の前で右手を差し出します。香の左手と重なりますが、鏡に閉ざされています。香の世界が、鏡の世界へと戻っていきます。
 『幸せの香りが聞こえますか。コウの幸せを祈っているのが聞こえますか』
 香が鏡の奥へと薄らいでいきます。溢れる涙が止まりません。私の泣き声に驚いた母が、二階に駆け上がってきました。能面のような目元口元の私の切なそうな泣き顔を見て、母はそっと下に降りていきます。 
 『愛しいです』
 私の夢のような恋の季節が通り過ぎてゆきます。香との恋が夏休みとともに終わりました。香の吉野粥の味わいが忘れられません。桜の香りが偲ばれます。
 僕のこころには、恋のせつなさのみが残ります。幸との恋愛レッスンが終わりました。幸の梅粥の味わいが忘れられません。梅の想いが偲ばれます。

 2、幸せの香り
 鏡に向かって「行ってきます」と、元気な声をだして登校します。
 「彼氏にお出かけの挨拶かい」と、私が靴を履き終わったタイミングで母が聞きます。
 「うん、行ってきます」
 「行ってらっしゃい。幸、きれいだよ」
 「お母さん、ありがとう。行くね」                
 「幸、夕飯はお赤飯を炊くね」と、送りだしてくれます。
 私は、何の祝いごとかがわかります。母の気遣いがとてもうれしいです。せつない想いを登りきった私への赤飯です。くぎり区切りの赤飯です。
 二学期が始まります。今日は、元気な生徒の顔見せの日です。私のこころは落ち着き始めています。シホが待ちそびれていたかのように横開きの封筒を、手渡してくれます。富士登山の記念写真が数枚、入っています。一枚目と二枚目は登山口での出発と登頂での記念写真です。三枚目は私がひとりのショットで、気まぐれ顔の水分補給のときです。どれもよく撮れています。シホの家は写真館で、彼女のショット感覚は父親譲りのグット・センスです。
 「シホ、どれもよく撮れているね」 
 「次が、最高よ」と、シホがほほ笑みます。
 最後の一枚を目にした私の手は、震えがとまりません。息がつまります。しばらく見つめ続けていました。写真を胸にあてがいながら、自分を見失うほどすすり泣きしました。  
とめどもなく涙がこぼれ落ちます。また、香に会えるとは思いもしなかったのです。別れのときのつらさがこみ上げてきます。こころが崩れていきます。
 写真の私が・・・香の胸に寄りかかりながら微笑んでいます。香は微笑みながら私を見つめてくれています。私の両手は香の首に絡みつき、香の両手が私の腰を支えてくれています。香はいつまでも支え続けているのです・・・こころが涙で滲み身体の震えがおさまりません。後部座席のエミーが立ち上がり、肩をさすってくれます。シホは両腕の震えを和らげてくれています。皆が私のまわりに集まり、寂しげな表情で私を取り囲みます。皆も泣いてくれています。女子は、理由もわからず雰囲気を察知して泣くことができるのでしょうか。そうかもしれませんが、きっとそれぞれの恋の音色が、思い出されて泣いているのかもしれません。
 『皆、ありがとう』
 担任の先生が、「井*、大丈夫か」
 「・・・先生、大丈夫です」の涙声のひと言のあと、私に構うことなく接してくれたので救われました。涙の女心は、そっとしておいてもらえれば救われます。
 『**先生、ありがとうございます』
 その日、シホと一緒に下校しました。シホには「彼は、お父さんの仕事関係で海外に戻ったよ」と、話しました。シホの膝を借り、私はまた泣き続けました。
 『シホ、ありがとう』
 一年が過ぎ去り皆、入試に向けて静かです。
 「ただいま」
 「おかえり」と、母の声と旨カレーの香りが玄関まで届きます。
 私は「ただいま」と、姿見に語りかけます。
  すぐにはじけて消えてゆくシャボン玉のような恋ですが、幸せの香りが聞ける恋です。
    おわり
  ※この物語は、フィクションです。
 
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