第12章 地上の庭

文字数 12,044文字

    


 ラフィアムが歌っていた。

「あの人が帰ってくる
 お茶とお菓子を用意しよう
 サモワールに火を入れて
 お湯をわかそう
 物語がひとつ終わる
 あの人はどんな物語を描いてきたのだろう
 きっと話してくれる
 時間はいくらでもある
 僕はシタールを奏でながら聞こう。
 さあ、お湯が沸いたよ
 あの人が帰ってくる 」

「風景が変わっている」アニスがつぶやいた。
 海は低い山並にとって変わった。その反対側では麦畑が広がり、金色の穂が風にうねる。
 灯台は変わらず、にすっくりと立っていた。その周りに茂っているのはありきたりの草花だ。金色のアワダチソウ、白い小菊をもっと小さくしたようなヒメジョオン、青いツユクサ、赤つめ草、白つめ草。それに、猫を遊ばせるのによさそうなエノコログサが配されている。
「不思議だね。どの草も好き勝手に生えているのに、草原全体ではとてもまとまっているような気がする」アニスが言った。
「宇宙は絶妙な調和で創られている。でも、それはここだけじゃない」ラフィアムが答えた。
 クホーンは相変わらず草の上にとぐろを巻いて憩っていた。
「おかえり。いい旅だったかな?」
「はい」アニスはうなずいた。
 雨の司主(つかさぬし)はその深い藍色の瞳で子供たちの顔を相互眺め、アニスに言った。
「君はちゃんと導き手の役割を果たしてきたね」
「導き手? 僕が?」
「ああ、そうだよ。『庭』を訪れなければならなかったのは、本当は君じゃなく彼女の方だった。もちろん、彼女は今までにも『庭』を訪れている。しかし、『庭』が彼女に送り続けてきたメッセージを、いつも受け取り損ねていたんだよ」
だから君を通して受け取ることが必要だった、とクホーンは話した。
「君が父さん母さんから贈られたものはルシャデールに贈られた。ルシャデール、今度は君がそれを誰かに贈らなければいけないよ」
「誰に、何を?」
 クホーンはそれには答えず、
「君はアニスや他の人にはない力を持っている。それを有効に役立てればいい。急ぐ必要はない」と、笑顔らしきものを作って見せた。竜の笑顔というのはいささか恐いものであったが。
「父さんや母さんたちには会ってきたね?」
「はい」アニスは答えた。
 みんな幸せそうだった。すーっと風が彼の髪をなでていく。
「もう雨を降らせても大丈夫かな?」
 悲しみは薄れていたが、アニスの中に居座っていた。たとえ、みんながこっちで生きているとしても、向こうに戻った時にいないのは同じだ。
 答えずにいるアニスにクホーンは尻尾で灯台を指して言った。
「見てくるかね? 家族が亡くなった時のことを」
 はい、アニスはうなずいた。
 ついて行っておやり、雨竜はルシャデールに言った。
「おまえが大丈夫でなくても雨は降らすんだろうに」
「うん、たぶんね。きっと気遣ってくれてるんだ」
「いいヤツだね、おまえは」
「ひねくれてないだけだよ」アニスはクスクス笑う。
「ふん、さすがに次期侍従候補は嫌味を覚えるのも早いもんだ」
 誰から教わったかは無視してルシャデールはふくれ面をする。
「いや、それは……」
「本当にそうなったらいいのに」少年の困惑を無視して彼女は不機嫌につぶやく。
「えっ、いやだ」アニスは即答する。
「なんで?」
「大変そうだし」
「軟弱者!」
 ルシャデールが手を振り上げて追いかけてくる。アニスはそれから逃れるように灯台の扉の中へ走り込んだ。入ってすぐに立ち止まった彼の背中にルシャデールがぶつかった。「急に止まるな!」
「ごめん……」
 灯台の中は真白い光に満ちた空間だった。
 深みのある声で、歌のようなものが聞こえる。

 静寂の空間、無の(ところ)
 誰もいない
 誰も害さない
 決してどこにもつながらず、
 それでいて、
 すべての場所に行きつける、閉じた空間
 力の働かないところ
 音のないところ
 静止せよ、記憶の森に。
 ここは想い沈みし地なれば。

 声の主は大きな一羽のフクロウだった。
「ようこそ『時の灯台』へ」近くのコナラ林から一頭のフクロウが現れて挨拶した。灯台守のホーロウだと彼は名乗った。
「こんにちは」
「ここはあらゆる魂の記憶が眠るところ。見たいのは何だね?」
「亡くなる時の僕の家族を見せて下さい。」

 ちょうど家の上空にいるような感じだった。よく(まき)を拾いに行った裏山が、膨大な土砂となって崩れ、石の家をおもちゃのように押し流していく。が、それだけではなかった。
 精霊たちが集まっている。二十人ぐらいはいるだろう。みんな暖かな金色や銀色の光を放っていた。大きな羽を持つ精霊もいる。何人かが盛り上がった土砂の中へ入っていき、両親や妹、祖父を抱えて出てきた。みんな苦しくはなさそうだ。
 物置小屋からアニスが出てきた。呆然と立ちすくんでいる。精霊も亡くなった家族も彼には見えない。家族が一人一人アニスを抱きしめていく。その口は「すまない」とか「ごめんね」とか言っていた。みんな、穏やかな顔ではあるがアニスを一人残していくことに心を痛めているようだった。
 映像はそこで終わった。
「あの最後に現れた精霊たちは?」
「導きと見守りの精霊エフェットじゃよ。誰でも生まれた時から四、五人はついておる」
「あまり苦しまずに逝ったんでしょうか?」
「ああ、苦しんだのは君じゃろう。一人生き残ったことで自分を責めてはいかんよ」
「自分を責める?」
「君は一人生き残った自分を憎んでいたろう。そして、自らに罰を与えるために、雨が降る度に記憶を呼び戻し、恐怖を刻印していた。違うかね?」
「わかりません」……でも、そうかもしれない。
「罪を感じる必要はないのじゃよ。生きることは常に祝福じゃ。そして、よく生きた者にとっては死は恩寵となる」
「でも、エルドナは短すぎませんか?」
「彼女は君に喜びを与えなかったかね?」
「ええ、それは確かに」
「とすれば、彼女はその役割を立派に果たしたと言えないかな?」
「え……でも、すると妹はたったそれだけのために生まれてきたのですか?」
「妹さんが君に喜びを与えたことが、君には『たったそれだけ』のことなのかね?」
「えっ、いや、そうではなく……僕はもっと妹に楽しいことやうれしいこと、たくさんしてほしかった。他の女の子のように」
「だが、妹さんはそういう人生を選んだ。愛を与えるだけの短い人生。それを選べる彼女はとても強い魂の持ち主なのだよ。彼女は死ぬのが早すぎたと残念がっていたかね?」
「いいえ、生まれ変わるのを楽しみにはしていましたが」
「そうだろう。妹さんが君に贈る気持ちと君が妹さんを思う気持ちはそれぞれ別、そう思うかもしれんが、思い合う時に二つは一つだ。だからカデリで経験する君の喜びはこちらにいる彼女の喜びになる。無理に納得する必要はない。早世した妹さんを悼む気持ちが、カデリに戻った時、の思いやりや優しさに変わっていくだろう。その時また彼女のことを思い出してごらん」
 灯台守は、次にルシャデールに見たいものをたずねた。
「未来も見えるの?」
「ああ、その場合は『今の時点で一番起こりそうな未来』になるが。知っておるかもしれんが、未来はギリギリまで不確定じゃからな」
「じゃあ、二十年後の私を」

 しかし、現れたのはトリスタンと薔薇園の女性だった。トリスタンは物憂げな顔をして、隣に座る彼女の膝に頭を乗せている。
「かわいくない子なんだ」
「どんなふうにです?」
「笑わないし、いつも機嫌が悪い。皮肉ばかり言うし、怒って侍女に花瓶や壺を投げるつける。召使はみんな嫌がっている。」
「注意はなさらないのですか?」
「誰が? もしかして私が?」
「もしかしてではなく、貴方に決まってます。だって父親なのですから。他は皆使用人でしょう? 使用人が主人の娘に注意するのはどうかしら? なかなかできないのではありませんか?」
「父親という実感が全然ないんだが……」
「まあ。それじゃ、エデフィルに対してはどうですか? やっぱり父親という実感がないのかしら?」
 トリスタンは気まずそうな顔をする。
「こんなこと言うと君は怒るかもしれないが……」
「何ですか?」
「父親という実感が、なんというか……あまりない。もちろん、エデフィルが生まれたのはうれしい。ただ、十月の間、お腹の中で育てた君とは同じに感じられない」
「残念ね、男は身籠ることができなくて」
 夫人は余裕で微笑っている。
「まして養子。それも、ある日訪れた商人の口から聞いて、トントン拍子に話が進み、あっという間にカームニルだ。初対面の少女に『初めまして、突然ですが、跡継ぎになってもらえませんか』って言わなきゃならないんだ。彼女も戸惑っているだろうけど、私だって戸惑っているんだ!」
「そうね。でも、それならそれで、ちゃんと仰ればいいのです。今は戸惑っているけど、跡継ぎとしてじゃなく、自分の子として大切に思えるようにしていきたい、と。それを伝えないから、その子も不安になるのではありませんか? あなたを頼りにしていいのか、それとも単に跡継ぎとしてしか求められていないのか」
 トリスタンは黙って聞いている。
「大人がすべきことは、子供を自分よりちょっとだけ、ましな人間に仕立てること。祖母がよく言ってました」
「……」
「血のつながりなんて、親子であるために絶対必要というわけではないと思います。相手を思いやる気持ちさえあればいいのでは? それさえあれば、どんな子であろうと、きっと伝わります」

「これ、私じゃないよ」
 ルシャデールは、灯台守に苦情を申し立てていた。
「ちょっと人間が違っていたようだ。しかし、あの男が二十年後のおまえさんの姿だよ」
 灯台守はそう答えた。
 憤然としている彼女を横目に、アニスは別のことを考えていた。
(今のトリスタン様が二十年後のルシャデールだとしたら、あの女の人みたいになだめたり、叱ったりするのは誰がするんだろう。誰だかわからないけど、同情しちゃうな。絶対、ルシャデールの方が御前様より手に負えないに決まってる)

 外に出ると、楽師が手を振っていた。
「お茶にしようー!」
 テーブルの上にはお茶の用意がされている。船頭のヴィセトワやリシャルもいる。
 お砂糖を三ついれた甘く熱いお茶を飲んでいると、クホーンがアニスを見つめていた。
「もう、大丈夫です。」
悲しくないわけではないが、夜明けのような清々しさが彼の胸に生まれていた。クホーンは黙ってうなずいた。
 ふいに、楽師が立ち上がった。灯台のむこうから誰かが歩いてくる。抜き身の剣を肩に担い、頭には矢が刺さったまま。まるで戦いの女神といったなりだ。
ラフィアムは手の茶碗も置かずに走り寄って行く、
「おかえり」彼は頭の矢を抜いてやった。
「ただいま」答えた彼女はラフィアムの手から茶碗をとり、一息に飲んだ。笑みを交し合って後、二人はテーブルの方へ来る。
「ここにそのような刃物を持ち込むでない」
 クホーンが眉をひそめる。
「ああそうだったね」剣は吾亦紅(われもこう)の花束に変わり、テーブルに飾られた。「おや、お客人かい? まだ生きている人たちだね」
「彼らは冥界めぐりをしてきたんだ」ラフィアムは二人の方を向き、「彼女は今、死んできたとこなんだ」と教えてくれた。
 頭に刺さっていた矢を見なかったら、そんな風には見えなかっただろう。不作法かもしれないと思ったが、アニスは知りたかったことの一つを聞いてみる。
「死ぬのって……どういう気分ですか」
「直前はいつも怖いね。だけど、ある点を過ぎると、すべて許されて、ただ愛されているような幸福な気持ちになる。あたしは剣とか矢で殺されるのが多いけど、病気でもやっぱり怖いかもだろうね。ベッドに寝たまま、じっと死を待っているなんて、あたしは嫌だな。でも、次が始まるときはワクワクするよ」
「それは生まれ変わる時のことですか?」
「そう。あたしはこの人みたいに」と、彼女は握った手に立てた親指でラフィアムを指す。「こっちにじっとしているなんてできない。生まれ変わりの瞬間はいいもんだよ。すべてが希望に満ちている」
「カデリに生まれて生きる。そのこと自体が冒険なのに、彼女はさらに危険やぞくぞくする緊張感を求めてしまうんだ。おかしな趣味だと僕はいつも思うよ」ラフィアムはあきれたようにシヴァリエルスを見る。
 聞き覚えのある歌声が聞こえた。高く澄んだ音色。風を切るような濃い空色の羽がラフィアムの肩におさまる。
頻伽鳥(びんがちょう)だ」ルシャデールが声をあげた。「向こうでは夜しか現れないって聞いたけど、ここは昼でも鳴いているんだ」
 するとクホーンが答えた。
「頻伽鳥がなぜ夜しか現れないか、それは頻伽鳥が親を亡くした子供のために歌うからだよ。昼の間は生きるため身を粉にして働き、夜は親を恋しがって泣く。そんな子たちに伝えようとするのだよ」
「何を伝えるの?」ルシャデールはたずねた。アビュー家の庭でアニスと頻伽鳥の歌を聞いた晩のことを思い出す。
「わが子を置いてきてしまった親たちの想いだよ。ずっとおまえを見守っているよ、とね。たとえ」クホーンはルシャデールの方を見て言った。「他の何かに囚われてしまっていたとしても、心のずっと奥深くではそう思っている」
 ラフィアムが頻伽鳥のメロディに合わせて歌いだす。

「夏に至る祝祭の日
 陽炎たつ道のむこう
 青野原に風は渡っていく
 野イチゴの実が色づく
 今年最初の牧草を刈ろう
 麦わら帽子を忘れないで
 蛙が沢でゲコゲコ鳴くよ
 ほら、一緒に歌おう
 花が一つ咲き、散っていく
 最上の夏の午後
 今この一瞬は永遠
 花はまた一つ咲こうとしている」

 今この一瞬は永遠。アニスは胸の中で繰り返す。大人になっても、きっと僕はこの時を忘れないだろうな。忘れられない時というのはいっぱいあるけど、これもきっとその一つだ。思い出しさえすれば、きっとこの時に立ち返る。
 頻伽鳥が『庭』を目指して飛び立った。
 元の世界へ戻る時が来ていた。


 ドルメテ祭が終わって二週間ほどが過ぎた。二人とも以前と同じ生活が続いている。
 ルシャデールとトリスタンとの関係は前とあまり変わっていない。出て行く理由もなかった。
「午後から木を植えよう」
 昼食の時にトリスタンが言いだした。
「木?」
「ザムルーズ、って言ったかな。誕生の木だよ」
 思いがけないことで、ルシャデールは何と言っていいやらわからず黙ったままだった。
「白状すると、アニサードに迫られたんだ。植えてあげてください、とね」
「アニスが……」
 別にザムルーズなど植えてくれなくても気にはしない。だが、アニスにザムルーズのことを聞いた時、ねたましかったのも事実だ。生まれてきたことを喜んでくれる親がいることに。
 だが、口をついて出るのは、例によって憎まれ口だ。
「そんなものいらない。でも、あなたがどうしても植えたいと言うなら好きにすればいい」
「うん、そうするよ」トリスタンは微笑んだ。
 たとえ御寮様がいらないと言っても、植えてあげてください。迷惑そうな顔をしても、絶対に喜んでいますから。
 そうアニスが念押ししたことを彼女は知らない。養父が笑ったのは、彼の言ったとおりだったからだということも。
 昼食の後でザムルーズは植えられた。場所は薬草園の西側。塀の近くだ。ルシャデールがそこがいいと言ったのだ。アニスの柳の木の近くにしたかった。
 バシル親方が掘った穴に、トリスタンが糸杉の苗木を入れて土をかける。
「なんで糸杉なの? 墓場の木でしょ?」
 確かに糸杉は墓地によく植えられる木だった。
 トリスタンは意外そうな顔をして、
「君がそれを言うとはね」と言った。「来たりて還る。それだけのこと。天に向かって燃える炎のようで、きれいな姿をしているじゃないか。私は大好きだよ」
 うーん、確かにそうだけど。ルシャデールは考え込む。やっぱりユフェレンは変人だな。
 シャムが持って来た木桶を受け取った親方がおや、と不審そうに塀のそばに視線をやる。アニスの柳の木に気がついたのだ。
「だめ、抜かないで!」ルシャデールは声を上げる。
「御寮様……?」
 それはアニスのザムルーズだから。と、言っていいのかどうか、ルシャデールは迷った。後で彼が叱られるのは嫌だ。
「それは抜かないで。つまり……柳というのは癒しと再生を意味するって聞いた。アビュー家にはふさわしい木だから……」
 突然、気がついた。死、そして癒しと再生。まぶしい光の輪の中で繰り返されていくもの。彼女の胸に流れ込む、きらきらした輝くもの。
 トリスタンが柳は抜かないように指示していた。親方はうなずき、植えたばかりの糸杉に水をたっぷりやると、一礼してその場を辞した。しばし二人でその木を見ていた。
「本当の親子みたいにはなれないよ。」
 ルシャデールは養父を振り仰ぐ。本当の親子でも苦いことはある。それは二人ともわかっている。
「私は可愛くない娘の役しかできないだろうし」
「私も軟弱な父親の役しかできそうにないよ」
「それでいいなら」
「いいよ」
 ルシャデールは自然と微笑んでいた。養父からも同じものが返ってくる
「素敵な人だね、薔薇園の女の人」
 嫌味も皮肉もない口調に、トリスタンははっとしたようにまなざしを向け、それから照れたように一瞬目を伏せた。
「ああ」
「美人だった」
「ああ、それに優しいよ。彼女は斎宮院の御神子(みかんこ)、つまり斎姫様の身のまわりをお世話する係だったんだ」
「そのうちゆっくり聞いてあげるよ。膝枕で愚痴を聞いてもらっていることとか」
「……!」
「あの人なら許してあげる」
 時の灯台で見た彼女なら、きっと好きになれると思った。
 彼女はどこ行くあてもないが、薬草園の南へと歩き出す。その背中に向かって、トリスタンが声をかけた。
「今度、連れて行くよ。それから」
 ルシャデールは振り返りもせずに、手を振った。
「アニサードを侍従見習いにしようと思っている」
 彼女は足を止めた。それからゆっくりと養父の方を向いた。
「そう、君の侍従だ。ただ、彼は今一つ乗り気ではないんだが」
 彼には適性がある、トリスタンはそう言った。
「適性?」
「ひねくれ者で時には暴力を振るう御寮様を平気で受け入れることができる、という適性さ」
「なるほど」減らず口ならルシャデールは負けていない。「軟弱者で泣き言ばかり言う主人を平然と、さりげなく補助する適性をデナンが備えているようにね」
 トリスタンは苦笑いする。
「侍従とは四十年の付き合いになる。大切にしなさい。もっとも、その前に彼を説得しなくてはならないが」
「……ありがとう」うれしい気持ちを抑えつつ、素っ気なく、ルシャデールは謝意を口にする。

 それから数日後、アニスはドルメンでルシャデールを待っていた。
 朝、水を汲んでいた時にカズックが、昼過ぎドルメンで待っていると、ルシャデールからの伝言を持って来たのだ。かつて祭壇に鎮座していた身が、今では使い走りの小僧も同然だと、彼は嘆いてみせるが、餌をくれる下女の声にはしっぽを振っていく。『キツネちゃん』の生活もそれほど嫌がっているわけではなさそうだった。
待ちながらため息をつく。
 パストーレンを盗んだ疑いは晴れていた。ユフェリへ行った翌日、ドレフィルに訴えたのだ。すると彼は
『悪かった。俺、犬が好きなもんで、キツネちゃんにっておまえから言われて、つい三枚もやったけど、料理長にあとでえらいどやされると思って、知らないって言ってしまったんだ。おまえに疑いがかかるとは思わなかったもんで。すまなかった』と言って、詫びにと装飾の入ったナイフをアニスにくれたのだった。
 だが、彼の気を重くしているのはそのことではない。
 トリスタンが暇そうな時をねらって、アニスは薬草を盗ったことを話した。
「僕……施療所から薬草を盗みました。だから、お屋敷を追い出されても構いません。ただ、お願いがあります」
「薬草泥棒が自首してきたと思ったら、お願いか。ずいぶんと厚かましい泥棒だねえ」
 トリスタンの言葉にアニスは赤くなってうつむいた。
 確かに、厚かましいかもしれない。でも、言わなきゃ。
「で、そのお願いっていうのは?」
 ルシャデールにザムルーズを植えてあげて欲しいと、アニスは頼んだ。
「わかった。……で、薬草を盗んだと言ったね」
「はい、ヌマアサガオとマルメキノコを」
「それでは、重い罰を与えないといけないな。」
「はい……」
「来年から、君は侍従としてルシャデールに仕えることを命じる。いいね?」
「え? それは……」罰なのですか?と聞き返そうとしたが、主の言葉を待った。
「いずれ、私は神和師の職を彼女に譲るだろう。そして彼女も同様に職を辞する時が来る。君はそれまで彼女に仕え、五十三代目当主となる者の侍従を育てなければならない」
「僕は……デナンさんのようにはできません」
「イェニソールと同じでなくていい。君は君だ。大丈夫、彼が教えてくれる」
 デナンの方を見れば、彼はいつもと同じ涼しい顔でアニスを見ていた。手加減はしてくれなさそうだ。やはり罰かもしれない。それに、主人がルシャデールだ。
「まあ、四十年仕えるのは、終身刑みたいなものだからな。選ばせてあげよう。死ぬまで僕童をするのと、どちらがいい? もちろん、その場合は今と同じだから、給金はなしだ。」
 トリスタンは楽しそうにいたずらな目をアニスに向けた。

「シャムには伝えた?お母さんのこと」やってきたルシャデールがたずねた。
「はい」
 ドルメテが終わった翌日に、シャムに話した。信じてもらえないのでは、と心配したが、彼はアニスの話を黙って聞いてくれた。そして、固い表情で「わかった、ありがとな」とだけつぶやいた。
 その後、彼がどう考えたかはわからない。しかし、一週間ほど前の夕方、薬草園で見かけたシャムは花を摘んでいた。花はもう『庭』へ届いただろうか。
「……なんだか期待してしまったんだよね」ルシャデールが言った。
 え? アニスは聞き返す。
「私の母さんも、もしかしてシャムのお母さんみたいに、思ってくれるようになってないかと」
 その後でアニスの両親を見て、さらに奇跡を夢見たのだという。
「ふふ、同じだったけど」
 ルシャデールは自嘲的に笑う。
 アニスは頻伽鳥の歌を聞いた夜に、彼女が「人は死なない」とはっきり言ったことを思い出した。『庭』へ昇ることなく、自らの想いに呪縛されたまま生き続けるというのであれば、死ぬことよりも辛いかもしれない。それを見てきた彼女にとっても。
「いいえ」アニスは言った。「時間はかかるかもしれないけど、必ずお母さんは御寮様のことを思い出します」
『庭』の本質は愛。すべての魂は庭を目指し、最終的には、遥かな始源の地へ還っていく。そう、サラユルが言ってた。
「信じているんだ、おまえは。一点の曇りもなく。単純だね。でも」ルシャデールは小さく息をついた。「そういうところがまぶしい」
 ややあって、ルシャデールは羊皮紙を折りたたんだものをアニスに差し出した。
「これをやるよ。誕生日の嫌がらせだ」
 彼は目を見開いてそれを受け取る。誕生日の嫌がらせ? 確かに今日は僕の誕生日だけど。何だろう?
 羊皮紙を開き、彼は、あっ、と小さく声を上げた。
「これ、あの地図ですね?」
 橋の地図屋で手に入れたユフェリの地図だ。こちらに戻るとともに失われたが、あれをそのまま羊皮紙に書き写したものだった。父の筆跡もそのままだ。
「二回ほど降りてきてもらった」
「えっ?」
「だから、おまえの父さんにこっちへ降りてきてもらって、最初は教えてもらいながら私が描いてたけど、だめだった。で、私の体を明け渡して、描いてもらった。だから、描いたのは私じゃなく、おまえの父さんだ」
 えええー! と遠慮なく不満の声を上げるアニス。
「それなら僕も会いたかったです。どうして呼んでくれなかったんですか?」
「誕生日の嫌がらせだと、言ったろう!」
「えー……」一瞬絶句し、その後でアニスは思い出す。家族を亡くしてから誕生日を祝ってもらったことはなかった。ルシャデールは面白くなさそうな顔でそっぽ向いている。
(きっと、これは祝ってくれてるんだ。『嫌がらせ』は照れ隠しだ)アニスはぽっと微笑む。
「ありがとうございます」
 すると、ルシャデールが手の平を上に向けて差し出す。
「私には?」
 自分にも誕生日の祝いをくれ、ということらしい。
「いつですか?」
「知らない。三月の末頃から四月の初めくらい」
正確な日はわからないのだろう。彼女こそ一度も祝ってもらったことないに違いない。
「じゃあ、三月二十一日。春分の日」
「なんで?」
「ハトゥラプルでは、その頃になると白鳥や雁が北への渡りを始めるんです。雪が縮むように溶け始め、畑には雪融けを促すために灰をまいて。冬に眠っていたものが動き出す。そんな頃です」ルシャデールにはふさわしいように思えた。
「うん、いいね。で、今年の分は何をくれるの?」
 それを言われるとアニスは困る。今のところ、ジュース五杯分くらいのこずかいを月に一度もらっているだけだ。すると、ルシャデールが抜け目ないまなざしを向けて言う。
「欲しいものがある」
「何ですか?」
 嫌な予感がした。
「聞いたと思うけど、侍従見習いとか何とか……」
「……御前様に言われました」
 大変なのは目に見えている。どちらかと言えばやりたくない。そうなると、やはりクランあたりが候補だろう。
 その話は少し前から使用人の間にも広まっていたようで、クランは以前よりはっきりと正真正銘の嫌がらせをしてくるようになった。洗濯に出したアニスの服が燃やされていたり、偶然ぶつかったように突き飛ばされたり。常時顔を合わせるわけではないから、あまり気にはしないようにしているが。
(あんなやつが御寮様にちゃんと仕えてくれるんだろうか?)
はなはだ疑問だ。
「やってよ。四十年分の誕生祝でいいから」
 四十年。十歳のアニスにとっては一生と言われているのと同じだ。まるで御馳走でもてなされた後に剣を突き付けられたような気分だった。答えかねているアニスに、ルシャデールは癇癪(かんしゃく)を起さず説得しようとしていた。
「別にデナンと同じにならなくてもいい。私だってトリスタンと同じにはできないと思う。夜中に病人なんか来たら、思い切り嫌な顔をしそうだ。ある日突然、何もかも放り出したくなるかもしれないし。でも、おまえが侍従でいてくれるなら、何とか持ちこたえるかな、とも思うんだ」
 僕は持ちこたえられるんだろうか?アニスは自問する。やってみないと、たぶんわからない。彼の思いは何年か前のハトゥラプルに飛ぶ。

『ためらう時は止まれ。わからない時は……やってみないとわからないと思った時は進んでしまえ、そして自分を信じるんだ』
 あれは僕が木に登って落ちたときだったか。
『父さんもそんなことあったの?』
『そりゃ、あったさ。一番大きいのは母さんと駆け落ちした時かな。それまで畑の仕事なんてやったことなかった。でも、やってみないとわからないって思った。で、おまえたちとここにいるのさ』

「あまり気は進まないけど」
「やってくれる?」
「うん」
「だめだと思ったら、いつでも辞めていいよ」
 そう言われるとアニスはあまり面白くない。ひ弱で頼りないと思われているようで。
「でも、条件がある」
「条件?」
「うん。『庭』を作ろうよ。あの『天空の庭』をこっちにも作ろう」
 アニスはルシャデールの手を掴み、ドルメンを出た。さらにギントドマツの林を抜ける。ずっと左手に屋敷が、正面から右方に庭と薬草園が広がる。
 いつも以上によく晴れた空の下、緑濃く、夏の盛りはあちこちに生命力のきらめきを見せていた。
「地上にも『庭』はあるよ。でも、もっと素晴らしい庭」
 穏やかで陽気で、暖かで涼やか、優しくて揺るぎない。心を癒す清気に満ちた、あの『庭』を地上に持って来たい。
 ルシャデールは彼が言いたいことがわかったようだった。だが、今度は彼女の方が弱気になる。考え深げに、難しいよ、とつぶやいた。
「大人ってさ、目先の下らないことばからに囚われて、きれいなものとか、大事な物をどんどん捨ててってしまう。せっかく作り上げたものを簡単に壊してしまったり」
「壊したらまた作ればいい」
「四十年じゃ無理かもしれない」
「そしたら、僕たちの後の人がやってくれるよ。もし、やってくれなかったら、僕らがまた生まれ変わってきて、一から始めればいい」
 ルシャデールは笑った。
「壮大な計画だね」
「うん」アニスもくすくす笑う。

 どこかで雲雀(ひばり)が鳴いていた。
「ほら、あそこだ」ルシャデールが指差した。
 アニスも見上げる。
 雲一つない空は『庭』と同じ色だ。あの空はいつも晴れているのだろう。こっちの世界が大嵐でも、雲の上から雨風に翻弄(ほんろう)される人々を見守っているに違いない。
 夏の風が二人のそばを吹き過ぎていった。

                                 〈終わり〉

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