第1話

文字数 5,048文字

 朝起きたときに、ああまずいな、と思った。
 身体が熱くて、頭がぼうっとする。風邪の症状に似ているが、そうじゃない。もっと甘くて、もっと切実な衝動。
 仕事を休もうか、と一瞬考えて、すぐにそれを打ち消す。だめだ。今日は取引先との予定が入っている。以前から懇意にしている大口の契約相手で、こちらの都合で予定を変更するわけにはいかない。
 おれはため息をついて、シャワーを浴びるためにベッドから降りた。

 *****

 ふだんはめったに立ち入らないような夜の歓楽街。世のなかは不景気だというが、少なくとも、今この場所ではそんな言葉は微塵も感じられない。
 きらびやかなネオンの下をあてどなく歩いていると、ふっと傍らに人の気配がした。振り返るまもなく背中に腕が回されて、そのまま薄暗い路地裏に誘導される。
 背中に冷たい壁があたる。顔の横に手が伸びてきて、壁を押さえたその腕がおれの逃げ道を塞いだ。薄明かりの下、すぐ目のまえに立つ男の顔が見えた。細面の、整った顔立ち。短髪で、左耳にリング型のピアスをいくつも嵌めている。
 痛そうだ、と呑気なことを思っていると、男は目を細めてささやいた。
「お兄さん、すげえ好み。相手探してるんでしょ。おれじゃダメ?」
 直截なものいいに思わず顔が熱くなる。おそらくおれより年下だろう男は、慣れたようすでおれの髪に触れてくる。
「もしかしてはじめて?」
「いや」
「キスしてもいい?」
 声が、近い。うつむいたおれの前髪を男の顔が掠める。びくんと身を竦めた瞬間。
「だめです」
 おれじゃない声が答えた。
 驚いてそちらを見ると、路地の入口に細身の男が立っていた。その顔を見て、おれは息を呑む。
 知っている男だった。
 硬直するおれとその男を交互に見遣り、おれに触れていたピアスの男は動じるでもなく尋ねてくる。
「知り合い?」
 おれはぎこちなくうなずく。その微妙な空気を察したのか、男は小声でささやいた。
「助けてあげようか。それとも、退散したほうがいい?」
「ごめん」
 返事の代わりに謝るおれに苦笑すると、男はあっさりと身体を離した。
「残念。おれ、たいていこのへんにいるから、気が変わったらいつでも来てよ」
 そういってピアスの男は路地から出ていく。入口に立つ男とすれ違いざまに、ちらっと一瞥をくれたのが見えたが、その男のほうはおれを見据えたまま視線を動かさない。
 仕立てのいいスーツに身を包んだ男は、ゆっくりとおれに近付いてくる。
 なにをいわれるだろう。身がまえたおれに、彼は告げた。
「七瀬さん、飲みに行きましょう」

 連れていかれたのは、人目を忍ぶようにひっそりと地下にある洒落たバーで。さほど広くはない店内は、店の佇まいからは意外なほど客が入っている。
 ふと、なにか違和感を覚えたが、おれはうながされるまま、奥のカウンター席に腰掛けた。
 隣に座った男はなにも聞かずに、おれの好きなカクテルをマスターに注文して、こちらを向いた。なにかをいいかけて唇が動いたが、結局それは言葉にならず、ため息となって吐き出される。無言で責められている気がして、おれはただうなだれるしかない。
 なんでこんなことに。
 よりによって、仕事関係の相手とあんな場面で出くわすなんて、夢にも思わなかった。
 そう、隣に座るこの男は取引先の担当者、つまり今日の昼に会ったばかりの人物なのだ。
 それぞれのまえにカクテルが置かれると、うちの社内でも切れ者と有名なこの男は、グラスを手にしてこちらに差し出した。
 複雑な心境でおれもそれに従う。
「乾杯」
 いったいなにに乾杯なんだ。
 なかば自棄になりながらグラスに口をつける。うまい。ふう、と息をつくおれに、彼は世間話でもするような口調で尋ねた。
「いつもあんなことをしているんですか」
 危うくグラスを倒すところだった。指先に力を込めてグラスを握りしめ、おれは答える。
「し、してません!」
「でも、はじめてじゃないでしょう?」
 見透かされたようで、耳まで赤くなるのがわかった。彼の声音から嫌悪感は感じられない。でも。
 おれはスツールに腰掛けたまま、彼に向き直る。
「あの、鷹取さん」
「はい」
「おれはそういう性癖の人間です。でも、あの、ものすごく都合のいいお願いだと承知しています。けど、どうか、今後も変わりなく、弊社とのお付き合いを、していただけませんか」
 ずっと周囲に隠してきた自分の性癖を、まさか上得意相手に暴露することになるとは。だが、自分が原因で会社に大損害を与えるわけにはいかない。死刑宣告を受ける受刑者のような気分で、おれは返事を待つ。
「七瀬さん、顔をあげてください」
 おそるおそるそれに従う。男――鷹取は、なにを考えているのかわからない、いつもの冴えた表情でじっとおれを見ている。
「あなたは、そんな理由でぼくが契約を破棄すると思っているんですか」
 不機嫌そうな声におれは青くなる。
「そ、そういうわけでは」
 鷹取はゆっくりと息を吐くと、おれから視線を外した。
「案外、信用されていなかったんですね。ぼくは少しうぬぼれていたみたいだ」
「え、いや、信用はしています、もちろん。そうじゃなければ一緒に仕事なんかできません。そうではなくて、あの、気持ち悪くないですか、おれのこと」
「だれかにそういわれたことが?」
 聞き返されて、おれは返事に詰まる。だが、鷹取はそれ以上追求することはなく、いくぶん和らいだ声で告げた。
「仕事の件についてはご心配なく。あなたには、今後とも親しくお付き合いいただきたいと思っています」
「あ、ありがとうございます」
 なにか引っかかるいいかただったが、恐れていた契約破棄という最悪の事態が回避できたことにほっとして、おれは深く考えなかった。
「仕事の話は終わりにしましょう。少し立ち入ったことをお聞きしても?」
 鷹取の言葉におれはうなずく。
「どうぞ」
「七瀬さん、恋人は?」
 予想よりもはるかに鋭い直球が飛んできた。噎せながら、おれは首を横に振る。
「い、ません。いたら、あんなところをうろついたりしませんよ」
「つまり、特定の相手はいない、と」
「そう、です」
 カウンターに片肘をついておれを覗き込みながら、鷹取はふっと笑みを浮かべた。そうすると、とっつきにくい怜悧な印象が薄らいで、ものすごく魅力的な表情になる。ひきこまれそうになって、思わずたじろぐ。
 待て、おれ。いま一瞬見惚れてたぞ。いくらふつうの状態じゃないからって、仕事相手にそれはありえんだろ。
 動揺しながらあわてて目を逸らす。今さらながら、鷹取がとても端正な容姿をしていることに気付いた。まずい。今までは、無意識のうちに、そういう目で見ないようフィルターをかけていたのだろう。今のおれは欲望が剥き出しの状態だ。なにもかもがダイレクトに響いてくる。
 そっと身を退こうとした、けど。カウンターのうえにのせていたおれの手に、鷹取のてのひらが重ねられる。
 この手はなんだ。
 とっさに逃げようとする手を、あきらかな意思を持って強く握りしめられる。
 ちょっと鷹取さん。ほかの人が見てます。
 狼狽するあまり視線をさまよわせるおれの目に、カウンターの端にいる若いふたり連れの男たちがこちらを見ているようすが映る。カウンター内にいるマスターは、おれと目が合うと、上品ににっこりと笑った。
 いや、マスター。なんでそんなに落ち着き払ってるんですか。男女のカップルならともかく、男同士で手なんか握ってたら普通おかしく思いませんか?
 酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせるおれに、さらに身を寄せながら鷹取がとんでもない台詞をささやく。
「今日は、男が欲しい気分なんですか」
 これはもはやセクハラじゃないのか。手を握られて、耳許でそんなことをいわれて。
 それでも振り払えないのは、鷹取の言葉が事実だからだ。
 おれはもともと性欲が強いほうじゃない。かなり淡泊だと思う。だけど、周期的にものすごく身体が疼いてたまらない、という時期がやってくる。動物でいう、発情期のようなものだろう。
 それは今朝みたいに突然訪れたり、数日まえからなんとなく予感があったり、まちまちだ。その衝動が去るときも決まった法則はなく、一日で治まることもあれば、一週間以上つづくこともある。
 はっきりしているのは、自分ひとりでその熱を冷ますことはできない、ということ。つまり、だれかに抱かれなくては、絶対に治まることはない。
 恋人などという相手がいないおれは、後腐れなく一時期に関係を持ってくれる男を探すしかなくて。
 それを鷹取に見付かったわけで。
 もちろん他人に、いや家族にさえ、この衝動について話したことはない。話せるはずがない。ただでさえマイノリティに属するおれが、他人に性的な悩みを打ち明けるわけにはいかない。
 だから、このことを話したのは、鷹取がはじめてだった。
 鷹取は相変わらずおれの手を握ったまま、黙って話を聞いていた。すべてを聞き終えると、それで納得したというふうにうなずいた。
「なるほど。それで七瀬さん、そんな状態なんですね」
「え?」
「今日、うちの社に来られたときは驚きましたよ。いつも冷静でストイックなあなたが、潤んだ目をしてフェロモン垂れ流しで。昨夜の名残かと思って頭に血がのぼりました」
「……っ、フェロモンって」
「自覚がないならなおさら悪い。百パーセントノンケのうちの室井ですら、あなたのフェロモンにやられていましたよ。相手が同類ならどれだけの威力があるか。七瀬さん、この店にいる人間がどんな目であなたを見ているか、気付いていますか」
「え」
 意味がわからず、おれは店内を見回す。カウンターの例のふたり連れや、テーブル席にいる男たち。なぜか全員と目が合う。
 しかも、その眼差しに嫌悪はなく、むしろ熱い。
 え、どういうことだ?
 おれはそのときようやく、店に入ったときに感じた違和感の正体を察した。店内には男しかいない。そして、おそらく彼らはみんな、おれと同じ性癖を持つ人間に違いない。つまり、ここはそういう場所なのだ。
「やっと気付いてくれましたか」
 意地の悪い目をして鷹取が笑う。
「え?」
 おれは混乱して呆然と彼を見つめる。握った手に指を絡めながら、鷹取はおれを見つめ返す。
「あなたはたぶん、こちら側のひとだと思っていました。でも、ふだんからあまりにもストイックでまったく隙がなくて、ずっと機会を窺っていたんです。今日のあなたはふつうではなかったから、放っておけなくて。早めに仕事を切りあげて、あとを尾けていたんです」
 思いもよらない言葉に、おれはただ目を見開くしかない。
「尾けてきて正解でした。ぼくが邪魔しなかったら、七瀬さん、あの男に抱かれるつもりだったんでしょう?」
「う、」
「許しませんよ。ずっとあなたを見ていたのに、あんなよく知りもしない男に横から掻っ攫われるなんて。絶対に許せません」
 そういう鷹取の目は本気で。
 その豹変ぶりにたじろぎながら、おれはぽつりとつぶやく。
「なんか、口説かれてるみたいだ」
「口説いていますよ、全力で」
「え」
「ぼくは最初からそのつもりです。七瀬さん、そんなにフェロモン垂れ流しているくせに、こういうことには鈍いんですね。まあ、そういうところも好きですが」
「えっ」
 好きって、鷹取がおれを?
 まさかそんな。
 完全に鷹取のペースに巻き込まれていて、おれはまだ状況についていけない。
 おれを好きってことは、鷹取もゲイなのか?え?ほんとうに?
「行きましょう」
「どこ、に?」
「ぼくの部屋です」
「た、鷹取さん」
「ぼくが今までどんなに我慢してきたか、どれほどあなたを好きか、その身体に教えてあげます」
 ものすごい殺し文句を吐いて立ち上がった鷹取は、おれの手を掴んでいたてのひらを腰に回して引き寄せると、そのまま自分の身体にもたれかけるようにして歩き出す。
 近い。というか密着している。
 悔しいことに、いやじゃない。
 身体が、熱い。
 会計を済ませて、鷹取はおれを抱いたままドアへと向かう。ほかの客たちの視線が全身に絡みつく。
「いい夜を」
 マスターの渋い声がおれの背中を撫でた。 
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