#10
文字数 1,719文字
「各地の水神伝承には怒らせる例も多くみられます。水神が棲む滝壺や池に蛇の嫌いな食べ物や金物を投げ入れる、汚す行為によって急に雨が降り出したという言い伝えや、雨乞いの儀式として池や堀に動物の死体を投げ入れるというものなどです」
雨がなければ作物は育たず困るが、雨が降りすぎても困る。雨には恵みと災いの両面があり、そのため願いを聞き入れての降雨と、怒りの降雨という二つの雨乞いが成り立つと言っていい。
「かつてこの沼では水神の機嫌を取ってもあまり雨が降らなかったので、谷尾葵は怒らせることでなら大雨が降るかもしれないと考えた。天気予報を見れば降水確率はわかります。けれどどれくらいの雨が降るか、厳密にはわかりません。痕跡を洗い流すなら、なるべく大雨の方が都合がいい。だから願掛けの意味合いもあり、沼に死体を落とすことにした」
岩永はそう述べ、お椀に口をつけて豚汁を飲む。
「狙い通り、ヌシ様は怒られたようですね」
つい先ほど業腹だと言っていたヌシは、沈痛げに息をもらした。
「奇しくも翌日は雨が降っていましたな。偶然とはいえ、なんということか」
水神が偶然と言うなら偶然だろう。奇しくも雨が降ったから岩永はこの論を組み立てたのだが。
「ヌシ様が聞いた呟きもこれで説明できます。谷尾葵は死体をヌシ様に見つけてもらい、怒り狂ってもらいたかった。だから死体をヌシ様が『うまく見つけてくれるといいのだけれど』とついもらした。見つけてもらえねば怒ることもないでしょうし」
反論を落ち着いて考えられる前に、岩永は畳みかける。
「後は簡単です。谷尾葵は警察に捕まった後、沼に死体を捨てた噓の理由を語ればいいだけ。大蛇の実在を前提とした話をしたのは彼女が本当に実在を信じているからかもしれませんし、正気を疑われることを述べて裁判で責任能力について争い、刑を軽くしようと計算しているからかもしれません」
ヌシは高く上げていると血の巡りが悪くなって考えもまとまらないと思ってか、やや頭を下げて唸っていた。
岩永は仕上げに、真犯人になりそうな人物も示しておく。
「真犯人は町井さんの弟さんなんていいかもしれませんね。その人も被害者から連絡を受け、急な要望に戸惑っていたようです。それで兄のかつての恋人にも被害者が連絡を取っていると何かで知り、自分も谷尾葵に連絡してみた。そこで当日、自分も谷尾家に行って一緒に話を聞くことにし、兄の死の真相を知って衝動的に相手を殺した」
恋人の弟であり、殺す気持ちもわかるので、谷尾葵がかばうこともありえるだろう。
岩永はタッパーにおにぎりがあとひとつしか残っていないのを目にし、まだ長引くと困るな、とヌシをうかがった。
「さて、これでどうでしょう?」
ヌシはしばしの沈黙の後、いま一度頭を高く上げ、首を横に振る。
「否。その説明では不十分です。その場合で一番に願うのは大雨が降ること。なら『うまく大雨が降るといいのだけれど』と呟くのが適切です。百歩譲っても、『大蛇が怒るといいのだけれど』と呟くでしょう」
幾分苦しげな調子をしている。これでいいのでは、という感情もあるが、その引っ掛かりを無視しきれなかった、という様子だ。
岩永はペットボトルのお茶を飲んで肯いてみせた。
「もっともです。また警察も事件当夜、他に居合わせた人物はいなかったか、居合わせそうな人物の行動はどうだったかを調べているでしょう。余所から車ででも訪れた人がいれば、誰か目撃していそうなもの。そんな共犯者や真犯人はいないとすべきでしょう」
あっさりと自説を否定したせいか、ヌシは戸惑ったように瞬きする。岩永は最後のおにぎりに箸を突き刺し、持ち上げた。
「だから犯人は谷尾葵ひとりで、警察に自供した内容はほとんど真実なんです。違うのは死体をこの沼に捨てた理由だけじゃあないですか」
沼はかわらず冷たい水に満ちている。狐火を、月光を、木魂達の持つ提灯の火を水面に映している。
「おひいさま、ではその本当の理由は何なのです?」
身を乗り出したヌシの大きな双眼に向かい、岩永は断言した。
「谷尾葵の探し物を警察に見つけてもらうためです」
雨がなければ作物は育たず困るが、雨が降りすぎても困る。雨には恵みと災いの両面があり、そのため願いを聞き入れての降雨と、怒りの降雨という二つの雨乞いが成り立つと言っていい。
「かつてこの沼では水神の機嫌を取ってもあまり雨が降らなかったので、谷尾葵は怒らせることでなら大雨が降るかもしれないと考えた。天気予報を見れば降水確率はわかります。けれどどれくらいの雨が降るか、厳密にはわかりません。痕跡を洗い流すなら、なるべく大雨の方が都合がいい。だから願掛けの意味合いもあり、沼に死体を落とすことにした」
岩永はそう述べ、お椀に口をつけて豚汁を飲む。
「狙い通り、ヌシ様は怒られたようですね」
つい先ほど業腹だと言っていたヌシは、沈痛げに息をもらした。
「奇しくも翌日は雨が降っていましたな。偶然とはいえ、なんということか」
水神が偶然と言うなら偶然だろう。奇しくも雨が降ったから岩永はこの論を組み立てたのだが。
「ヌシ様が聞いた呟きもこれで説明できます。谷尾葵は死体をヌシ様に見つけてもらい、怒り狂ってもらいたかった。だから死体をヌシ様が『うまく見つけてくれるといいのだけれど』とついもらした。見つけてもらえねば怒ることもないでしょうし」
反論を落ち着いて考えられる前に、岩永は畳みかける。
「後は簡単です。谷尾葵は警察に捕まった後、沼に死体を捨てた噓の理由を語ればいいだけ。大蛇の実在を前提とした話をしたのは彼女が本当に実在を信じているからかもしれませんし、正気を疑われることを述べて裁判で責任能力について争い、刑を軽くしようと計算しているからかもしれません」
ヌシは高く上げていると血の巡りが悪くなって考えもまとまらないと思ってか、やや頭を下げて唸っていた。
岩永は仕上げに、真犯人になりそうな人物も示しておく。
「真犯人は町井さんの弟さんなんていいかもしれませんね。その人も被害者から連絡を受け、急な要望に戸惑っていたようです。それで兄のかつての恋人にも被害者が連絡を取っていると何かで知り、自分も谷尾葵に連絡してみた。そこで当日、自分も谷尾家に行って一緒に話を聞くことにし、兄の死の真相を知って衝動的に相手を殺した」
恋人の弟であり、殺す気持ちもわかるので、谷尾葵がかばうこともありえるだろう。
岩永はタッパーにおにぎりがあとひとつしか残っていないのを目にし、まだ長引くと困るな、とヌシをうかがった。
「さて、これでどうでしょう?」
ヌシはしばしの沈黙の後、いま一度頭を高く上げ、首を横に振る。
「否。その説明では不十分です。その場合で一番に願うのは大雨が降ること。なら『うまく大雨が降るといいのだけれど』と呟くのが適切です。百歩譲っても、『大蛇が怒るといいのだけれど』と呟くでしょう」
幾分苦しげな調子をしている。これでいいのでは、という感情もあるが、その引っ掛かりを無視しきれなかった、という様子だ。
岩永はペットボトルのお茶を飲んで肯いてみせた。
「もっともです。また警察も事件当夜、他に居合わせた人物はいなかったか、居合わせそうな人物の行動はどうだったかを調べているでしょう。余所から車ででも訪れた人がいれば、誰か目撃していそうなもの。そんな共犯者や真犯人はいないとすべきでしょう」
あっさりと自説を否定したせいか、ヌシは戸惑ったように瞬きする。岩永は最後のおにぎりに箸を突き刺し、持ち上げた。
「だから犯人は谷尾葵ひとりで、警察に自供した内容はほとんど真実なんです。違うのは死体をこの沼に捨てた理由だけじゃあないですか」
沼はかわらず冷たい水に満ちている。狐火を、月光を、木魂達の持つ提灯の火を水面に映している。
「おひいさま、ではその本当の理由は何なのです?」
身を乗り出したヌシの大きな双眼に向かい、岩永は断言した。
「谷尾葵の探し物を警察に見つけてもらうためです」