4-1

文字数 1,692文字

世界の果てから波が押し寄せ、岸壁にぶつかります。

テスは歩きます。

風雨とさまざまな人の足にさらされてできた、岸壁の石畳の様々な凹凸を足の裏に感じます。

岸壁にこびりつくフジツボと、赤紫の海藻と、濃緑の苔を目に焼き付けます。

水面を泳ぐ黒い魚の、ほっそりした体つきを覚えます。

風を受けます。

海のにおい、海につきもののあらゆる死のにおいに紛れて故郷の香りが紛れていないものかと、その悪臭を吸い、探します。

潮と腐臭で胸を満たします。


いつかまた言葉つかいとの戦いが行われるとき、これらすべてを頭の中から鮮明なまま取り出して再現できるように。

いつでも、今その場にあるように、世界に投射できるように。

……。

(記憶をなくしていくように、キシャは俺に言った。偶有の性質を失えば、本性が現れると)

歩き続けます。

海に背を向けます。

港の階段を上がります。

街。

テスは全てに目を凝らします。

(偶有の性質……そして後天的に身につけた性質)

鍛冶屋の黒い看板が風に煽られ、ぶらんこのように揺れています。

ナッツと香辛料を売る店先の商品には、今は麻布の覆いがかかっています。

麻布の目地に砂が詰まっています。

テスは歩きながら手を伸ばし、そのざらつきを覚えます。

麻布から離れまいとする砂粒の意志を覚えます。

あらゆるものが安定と固着を望んでいます。

永遠に傾いたままの太陽が、世界のあらゆる影を同じ角度で大地に焼きつけたように。

(船で出会ったあの女……。ひどく心を病んでいた。俺に話した、家族との確執のせいだろうか。生まれたときから病んでたわけじゃないはずだ。経験によってああなったんだ)

(本当はああいう人じゃない……。

でも本当の人ってなんだ?

本当の彼女ってなんだ?

本当の俺ってなんだ?

そんなものがあるのか?

だとしたら今の彼女はなんだ?

今の俺はなんだって言うんだ?)

………………。
(わからない…………)

海の男たちの教会堂を見つけ、その鐘楼(しょうろう)に上りました。

異様な光景が目に映ります。

街の全ての建物が一様に同じ高さで潰れていました。

四階建てより高い建物はないみたいです。

かつてそれより高かったであろう建物は、屋上に大量の瓦礫を乗せ、かつて不可思議な力がその建物を圧縮し、本来の高さを奪ったことを無言で証明しています。
テスは首をかしげ……。

海を向きました。

押し潰された建物たちに背を向けて、夕空を仰ぎます。

心なしか、夕闇が赤く濃くなっているように思えました。

テスは記憶から青空を(さら)います。

彩喰(あやく)いが食った青空の記憶を、己のものとして思い出します。

そのイメージを林檎ほどの大きさの球体にまとめ、視線の力で夕空に投げ放ちました。

水色の色彩が、黄昏の色を映して空を覆う雲にぶつかり、弾けました。

テスは弾けた青空を四角く拡張します。

心の鍵を開きます。

誰にも見られず、誰にも踏みこまれることなく(かんぬき)を外し、守護と拘束の扉を開いて鳥たちを解き放ちます。

鳥たちはテスの瞳を通り抜け、テスの視線の力に乗って青空へ羽ばたいていきます。

――――――

すべての鳥がテスから遠ざかり、風を喜んで海の上で輪を描き、以降無駄な動きは一切せずに狭い青空を目指します。

その先により良い場所があるとの確信を、群れ全体で表現しています。

――、
テスには何も残りません。

彼には透き通る鳥の亡霊たちを見守る以外、何もできません。

手を伸ばします。

気付けばテスは、鐘楼の柱に左手をつけ、右腕を目いっぱい空に伸ばしています。

………………。
口を開くも言葉はなく――。

ぴんと伸びた指先は力を失くしていきます。

テスの目は失意に(かげ)ります。

青空は全ての鳥を吸いこみ蒸発します。

港の様子に変化はありません。

テスはうなだれそうになりながら、(こら)えて夕空を見上げ続け、一つの決意を固めます。

――いつかああして空を飛ぼう。

――過去を失い、悲しむための心、失望するための心も失くして、己の本性を這いつくばって探そう。
――干潮のタールの海に光る真珠を拾い歩くように、真の自己と見なせるものをかき集めよう。
――そして、いつの日か、その力で空を目指そう。
―つづく―
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色