6章―3
文字数 4,255文字
「久し振りだな」
薄暗いビル街から、黒いスーツ姿の男が足音を響かせながら現れた。
オールバックにした青い髪、吊り上がった細い目。その姿はどこか、『蛇』に似ていた。ラウロは恐怖で震えながらも、その男を睨んだ。
「フィード・アックス……!」
フィード、と呼ばれた男は、ラウロを睨んだまま一歩ずつ近寄る。ラウロは額に汗を滲ませながら、一歩ずつ後退する。
「ふん。よく俺に気づいたな」
「あんたの殺気なんて、嫌でも分かる」
「そうか」
フィードは一息置くと、鋭い眼光を向けた。
「逃げても無駄だ。お前は既に囲まれている」
その声を合図に、ビル街から十数人の男達が現れた。ラウロはハッと息を飲む。隙をついて逃げようとしていたが、怯んでいる間に取り囲まれてしまった。アースを落とした水路にも、飛びこむことは出来ない。
フィードは更に近寄る。ラウロは一歩後退したが、背中が壁に当たった。額の汗が顎を伝い、地面に滴り落ちる。
「……いつから、狙ってた?」
ラウロは声を震わせながら、目の前の『蛇』を見上げた。
「お前も気づいているだろう? 『道化師』と目が合った時だ」
ラウロは数日前の公演後のことを思い出した。風船配りを終え、アースとソラがいる方向を振り返ると、赤と黄色のテントの陰にフィードがいたのだ。
「一目見てお前だと分かった。いくら着飾ろうと、素顔を隠そうと。お前は何一つ変わらない」
フィードはラウロの顎を掴み、乱暴に引き寄せた。
恐怖が全身を走る。変装で騙せたと思いたかった。だがあの時から既に、道化師ではない『本来の』自分を見破られてしまったのだ。
顔色ひとつ変えずに見下ろすその表情は、怒りとも憎しみとも取れる。フィードはラウロの目線を捉え、一瞬口角を上げた。
「ところで、一緒にいた小僧は何処に消えた?」
「あ、あいつは関係ない!」
ラウロは焦り、フィードの手を振りほどいた。回りの男達が一斉に身構える。フィードは右手を下げ、彼らを牽制した。
「ふん、そんなにあの[家族]が大事か」
言葉の端々から怒りが滲み出る。フィードは更に一歩、にじり寄った。
「分かっていると思うが、我が社はお前を標的としている。無論、匿っていた[家族]も見逃しておけない」
目の前が一瞬眩む。ラウロは取り乱し、フィードに掴みかかった。
「頼む! [家族]には、俺の[家族]にだけは! 手を出さないでくれ‼」
「……いいだろう」
その直後、フィードはラウロの腕を素早く引き寄せ、背後に回った。まるで抱きしめるかのように、きつく拘束する。
「ただし。お前は一生、俺だけの道化師になる。それが条件だ」
睨み合ったまま数十秒が過ぎる。必死に逃げ続けたというのに、こうも簡単に捕まってしまうとは、なんと滑稽なことか。だが、大切な[家族]を守るためなら。ラウロは観念して目を閉じ、小さく頷いた。
フィードは表情を変えずに、ふん、と鼻を鳴らす。そしてラウロの顎にそっと手を添え、蛇が獲物を締め上げるように深く、口づけた。
ラウロは目を見開いた。自分だけでなく、取り囲む男達も皆動揺している。訳も分からぬまま弄ばれ、思考も感覚も蕩けてゆく。
一分ほど経過し、フィードはようやく口を離した。彼は手の甲で濡れた口元を拭い、ラウロの腹めがけて拳を突き上げた。ラウロは呻きながら気を失い、フィードの腕の中に顔を埋めた。
「今後は誰にも、この男は渡さない」
フィードは振り返らぬまま呟く。男達は騒めいたが、彼が振り返ると全員が沈黙する。その眼光は、殺気を放っていた。
「この男は、俺の獲物だ」
気絶したラウロを肩に担ぎ、青い『蛇』はビル街へと消えてゆく。男達は困惑したまま、次々と彼の後を追った。
――カツン、カツン……
無機質な足音は次第に遠ざかる。その場にずっと漂っていた緊張感は、消えた。
――――
「(そ、そんな……!)」
水路の底で一部始終を見たアースは、しばらく体を動かすことが出来なかった。水中にいるはずなのに、涙が止まらない。
あの『蛇』のような男を見た瞬間、背筋が一瞬で凍りつくのを感じた。ふと、先日の公演の時、ラウロが急に倒れたことを思い出す。今なら分かる。きっと、あの場に『蛇』がいたのだろう。
――そこに川がある。何とかして泳いで、[家族]のところに帰るんだ
「(そうだ、帰らなきゃ……!)」
ラウロの言葉が脳裏に響き、アースは目元を拭った。川底を蹴り、水路を歩くようにして泳ぎ出す。幸い、水路は枝分かれすることなく一本道のようだった。
コンクリートの壁面が直角に、右にそれている。這うように泳ぎ、水路に沿って右折する。その先の水面は太陽の光に当たり、銀色に揺らめいていた。アースは、覚悟を決めて水面に向かう。
地上に出た瞬間、ビル街の喧騒が響いてきた。目の前には、[家族]の待つ銀色のキャンピングカー。デラとドリが笑い合いながら、水飲み場の蛇口にホースをつけて洗車している。
彼らは地面に這い上がったアースに気づき笑顔で手を振るが、目が合った瞬間、揃って表情が凍りついた。
「いた! アース、ラウロは……ラウロはどこ⁉」
そこに、血相を変えたナタル、シャープと、見つかったらしいフラットが駆けこんできた。アースは立ち上がることが出来ず、拳を地面に叩きつけた。
「ラ、ラウロさんが……っ‼」
アースは堪えきれず、声を上げて泣き叫んだ。
上空をヘリコプターが横切る。機体の爆音は、叫びすら容赦なくかき消していった。
「アース、な、何があったか、説明してくれッ!」
車内のリビングに移り、数分後。ノレインは何とか聞き出そうとするが、アースはタオルを体に巻いたまま震え、口を開くことも出来ない。
誰もが不安になる中、ナタルが恐る恐る訊ねた。
「もしかして、ラウロがさらわれた、とか?」
全員が一斉にナタルを注目する。アースは反射的に涙を零し、声を絞り出した。
「ぁ……あお、い……かみの、ひと、が……!」
「やっぱり……」
ナタルはがっくりとうなだれる。
「やっぱりって……ナタル、どういうこと? 何でラウロがさらわれなきゃならないのよ!」
メイラはナタルを激しく揺さぶる。ナタルは目を伏せると、悔しげに拳を握りしめた。
「きっと、ラウロはRCに連れて行かれたはずです」
「ちょ、ちょっと待て。ナタルはともかく、ラウロとRCに何か関係があるっていうのか⁉」
ノレインの言葉に、アースはあることを思い出す。
ラウロはナタルと彼女の母、シーラと知り合いだった。だが、彼女らは長年に渡って軟禁され、更にシーラはRC本社で殺害されたのだ。そうなると、彼らが出会った場所は。
「みんな、ごめん」
突然、双子が震え声で謝罪した。
「あんた達、ラウロの過去を見たはずよね? 何でこんな大事なこと言わないの!」
「みんなを巻きこみたくないから黙ってて、って言われてたの。ごめんなさい……」
理由を聞き、メイラはこれ以上叱ることなく口を閉ざす。双子は同時に目元を拭った。
「ラウロさんは、『自分に何かあったら、みんなに過去のことを話してくれ』って言ってたんだ。でも……」
双子は一瞬身震いすると、涙声になる。
「この話を聞いたら、みんな……ラウロさんのこと、嫌いになっちゃうかもしれない!」
「そんなことはないッ! 過去に何があろうと関係ない、ラウロは私達の大切な[家族]だッ‼」
間髪入れずに、ノレインが叫ぶ。その力強い言葉に、[家族]全員が頷いた。アースの体の震えも、いつの間にか止まっていた。
「……わかった。長くなるけど、最初から話すね」
双子は互いに顔を見合わせ、緊張した様子で口を開いた。
「ラウロさんは、元々ミルド島の孤児だった」
「小さい頃から、ひとりで路地裏に住んでたみたい」
デラとドリは交互に、淡々と語る。きっと、一呼吸置くと涙が溢れてくるのだろう。出来るだけ間を空けずに、一人の人間が言葉を発するように振舞っている。
「その頃の記憶があいまいだったから、過去はちょっとしか見えなかったけど」
「物心つく前にはもう、生きるために何でもやってたんだと思う」
「ゴミを漁って食べ物を探したり、市場の売り物を盗んだり」
「でも、どうしてもお金が必要な時は……自分の身体を、売り物にしていた」
アースは、顔から血の気が引くのを感じた。
まるで女性のような風貌、時折見せた哀しそうな顔、それを隠すような極端に明るい笑顔。一つひとつの仕草や行動が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、時々感じた小さな違和感が全て繋がってゆく。
「もちろんとても嫌がってたけど、この方法が一番簡単だった」
「だから嫌がりながら続けてきたんだと思う」
「女の人に間違われたくないって言いながら髪を切らなかったのは、たぶん、長い髪が『商売道具』になるから」
――あのな、俺、男なんだ。おねえちゃんじゃなくて、『おにいちゃん』、な?
――嘘じゃありません本当です俺は女じゃありません
ラウロは女性扱いされることを極端に嫌っていた。心の片隅では、『娼夫』である自分を否定したかったのだろうか。
「それから何年も過ぎて大人になって、それでも生活は変わらなかった」
「ミルド島の治安は昔より良くなってきたから、仕事が難しくなってきた」
「だから五年前、貯めたお金でカルク島にやって来たんだ」
[島]の往来は、通行料さえ払えば自由である。団体の場合は[世界政府]の承認が必要だが、個人に関しては何も制限はない。
「カルク島の治安は良くなくて、仕事はやりやすかった」
「街から街に渡り歩いて、商売相手を探し続けた」
「お客さんからは、『路地裏の蝶』って名前で呼ばれてたみたい」
アースは先日の公演直前、ラウロがその通り名で呼ばれたことを思い出した。その時の会話から考えると、話相手の男は彼の知り合いではなく、恐らく商売相手だろう。
「ラウロさんの夢は、いつかこの生活から抜け出すこと」
「そのために必死になって身体を売り続けて、お金を貯めてきた」
「でも三年前……青い『蛇』に出会った」
アースの脳裏に、『蛇』の姿がちらついた。殺気に満ちた眼光を思い出し、無意識のうちに体が震える。
「街の廃墟で、ラウロさんは『蛇』に似た人を相手にした」
「『蛇』はその後、ラウロさんを捕まえて、無理やり自分の居場所に連れて行った。そこが……」
「リバースカンパニー本社」
ナタルと双子の言葉が被る。彼女は一瞬間を置き、静かに補足した。
「その男の名前は、フィード・アックス。RCの社長代理で、昔、私の世話をしてくれた人」
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