プロローグ
文字数 4,598文字
俺の左手に取りついたパペットのカエルが、その小さな手で指差し、キメ顔で尋ねた。
午後のテラスでのティーパーティ。ここ最近、俺に振りかかった様々な出来事。その和解を込めて、そして引っ越していく委員長との送別会になるお茶会だったはずだ。だが、最初に入れられた紅茶を一口飲んだだけで、既に手打ちは失敗に終わったようだ。俺の意思とは無関係に、第二弾のバトルを宣戦布告するかのごとく、パペットのカエルが勝手に話し始めた。
「なっ、なっ、何を? だ、誰も殺してる訳ないでしょっ!」カエルに指を向けられた先。隣に座っている金髪の小柄な美少女が立ちあがり、怒りの表情で顔を近づけてくる。
「いや、俺が言ったんじゃなくて、これはカエルが勝手に……」と言う弁明も聞く耳持たず、怒りの目で睨みつける。
ちっ、近い、、、、
さらに、ずいずいと寄ってくる背の低い美少女の顔に、恐怖を覚えながらも
―― 委員長って怒っても可愛いな。などと不埒な事を考えてしまう。
「なら、何人の男と姦淫した?」また、カエルが尋ねた。年頃の美少女に対して、これでもかと言うほど失礼な質問だ。
「すぅ、するかぁぁあああ!!!」
バキッ!!! 返事と同時に俺の顔に右フックを喰らわせてくれた。グフッ、小さな体から繰り出すパンチは、思いの外、力がこもっていて脳髄に響きわたる。あぁ、きっと本気で怒っているんだ。
「ふっ ふぇっ?」思わず足にきた。グラリとバランスを崩したところへ
バコーーンッ!!! 瞬時に左のアッパーカットがさく裂した。
俺は真後ろに吹き飛ばされ、体が宙に舞う。世界がゆっくり後ろから流れて行き、やがて固い大理石の床に、ドサッと体が投げ出された。上から委員長が怒りの表情で見下ろしている。
いいパンチだ。本気で取り組めば世界を狙えるよ。そう思いながら、もう俺はこのままぐったりと転がっていたかったが、それすら甘い考えだったらしい。
「相手が女ならいいって訳じゃないぞっ」カエルは怯むことなく、さらに問う。
「誰とも、していません!!」
ボコ!! ボコボコ!!! ボコボコ!!! 仰向けに倒れた俺に、引き続き、委員長の蹴りが容赦なく降り注いだ。
「ふっぎゃぁーーーー」一瞬パンツらしきものが見えたようだが、それが何かを理解する前に、次々と委員長の足が顔面を押し潰した。
「むぎゅぅうううう」
グッタリとした俺を、委員長が踏むのを止めたのは、屋敷のメイドさんが後ろから抱きかかえて、引っ張り上げたからだ。「お嬢様、おみ足が汚れます」とメイドさんは両手で抱き上げると、小柄の委員長は足をバタバタさせながら、俺から引き離されていく。
「こっこのエロカエル、いっ、いっ、いったい何が言いたいのですか?」ゼエゼエと、息を切らしながら委員長が叫ぶ。
パペットのカエルは、ぐいっと俺の腕を突き出して、つぶらな瞳で委員長を見上げた。
「つまりだ、まだ人並みに悪事を働いていないなら、人並みに天へ戻れるんじゃないかと思ってだな」
「人並み?」
俺から数メートル引き離されたところに、ゆっくりと下ろされた委員長は、怪訝な顔をしてカエルを睨んでいる。
「人間は死後、天に戻れる。悪人以外はだな」
「どうせあたしは悪魔ですよ。大魔王の娘にして孫。プリンセス オブ ダークネス! 芭春アリスです。ふざけないでください!」
委員長はプイっと顔をそむけた。だが、カエルは続ける。
「神は、その生まれによって差別しない……と言ったらだな、どうする?」
「意味が分からないです! それに、もういいです。テレス、お開きです。もう戻ります。後はお願いします」
委員長は興味なさそうに答えた。そして、お茶会を切り上げ、部屋に帰ろうとメイドに声をかける。メイドは無言で頭を下げた。
「なら、お前のような馬鹿でもわかるようにだな、言ってやろう」
帰りかけた委員長の背中に、カエルは挑発する。委員長はダテに委員長じゃない。噂によると、体育を除けば、5以外を取った事がないと聞く。こんな挑発に乗るほどに、ただ真面目で純粋ではあるが。
「ええぇ、是非、教えてほしいですね」ギリギリと歯ぎしりをしながら、委員長は振りかえった。ヒクヒクと頬がひきつり、怒りを噛み殺している。
「神は貧しい者をみくびったり、王や貴族だからと言って、ひいきしたりしない。善なる人間は天に昇り、悪しき人間は地獄に落ちる。また、善なる天使は天に残るが、悪しき天使は追放される」カエルは神父の様に、声高らかに語る。
「そんなの当たり前じゃないですか」
やれやれと言った顔で委員長は、小さくため息をついた。
「……ならば、もし善なる悪魔がいればだな、どうなる?」
「っ!! えっ、え、意味が分からないです」
委員長はきょとんとして、質問の意味も理解しかねていた。
「たとえ悪魔に生まれた者でも、罪なく、善なる者は救われるのか?」
「……まさか? あなたは何を言っているのですか?」
「言ったであろう、神はその生まれによって差別などしない。それは完善たる神ゆえにだ。たとえ天使であろうと、堕落した天使は地獄に落とされ、人間でさえ善行を積めば、聖人になり、天使にすらなれるのだ。なら悪事を働かず、善を行った悪魔はどうなる?」
「そんなこと、あっ、ありえるの?」
「前例はない。だが天に決められた法がある訳ではない、すべては神のご意思だ。しかし天使が堕天するなら、悪魔が昇天してもおかしくはあるまい」
「昇天っていやな言葉だな」ぼそっと俺は言ったが、誰一人、気にもかけずスル―した。
「だから貴様の罪悪について問うたのだ。既に大罪を犯していれば、さすがに無理だからだな」
再びカエルのパペットが、仰々しくその小さな手で指差し、キメ顔で尋ねた。
「むっ、大罪はないわ。ママの言いつけに従って、清く、正しく、慎ましく、生きてきたつもりだもん。あっ、あなたの言いたい事も分かってきたのですが。……しかし、でも、そんな事?」
「言ったはずだな、そんな前例はない。だがそもそも罪もなく。悪事もしない悪魔など、聞いたことはないからな。ましてや、聖人のように善をなした悪魔など、それこそ前例がない」
「むっ。む、む、む、む。罪もなく、悪事もせず、善を積めば天に戻れると言うのですか?」
「さあな、だが大天使メタトロンや、大天使サンダルフォンは、元は人間だった。すべては神の御心次第だ。だが神の計画を知ることはできない。ゆえに、結局は分からない。神の御心を知る事が出来ない以上、つまりはどんな行いをするか。結果とは、その行いの結果にすぎない。もっとも、なによりも、何をするにも本人にその気があるかだな?」
「ぐっっ、うぐぐぐぐぐ……ううぅーー」
委員長は返す言葉がなくなったようで少し唸って、なんだかオーバーフローしたように俯いた。
「お前は魔王ベルゼバブの娘と呼ばれるのがいいのか? それとも大天使バールの孫と呼ばれたいのか?」
「お爺ちゃんは、ルシファーに騙されたのよっ!!!」
「騙されたと言うなら、その汚名を返上するのは誰だ? 親切などこかの誰がしてくれるのかな?」パペットのカエルは、大げさに両手を動かしながら、語り終えると、最後に委員長に向って、また腕を突き出した。
「ぐっっぎっぎぎぎぎぎ」
俺が、やっと上半身を起きあがると、顔を合わせたくなかったのだろうか? 委員長は、両肩を震わせながら、後ろを向いてしまった。その委員長の背中が、随分と寂しく見えたのは、気のせいだろうか。そのまましばらく、じっとその場に立ち止っていたが、やがて委員長は、とぼとぼと背中を向けたまま歩きだした。
それはそうだろう。「天国の門は全てに開かれている」とか、「神の前では平等だ」なんて聞くが、そこに悪魔も含まれるのだろうか?
否。
そんなはずはない。誰でもそう思う。
「まぁ良い。騙された。運がなかった。時代が悪かった。そう言うのは、人の常なる弁明だな。そうやって自らが納得するなら、それも」
「だまれっ」俺はカエルの口を抑えつけて叫んだ。
もしかして、ここは委員長の人生の別れ目なんじゃないだろうか? 真面目で努力家の委員長だ。地獄だか魔界だか外国だか分からないが、何処に引っ越したとしても、それなりに何かできるだろう。何者かにもなれるだろう。けど、今、このまま行かせてはいけない。ここでの暮らしが、こんな終わり方であってはいけない。
俺はゆっくり立ち上がった。全身がズキズキする。まったくやってくれるぜ委員長。
「委員長!! 待ってくれ委員長。悪魔の契約を忘れていないだろうな。三つの願いがまだ二つ残っているよな」
俺がそう叫ぶと、委員長の足がピタリと止まった。
「そう言えば、そうですね」後ろを向いたまま、小さく答えた。
「二つ目の願いが決まった」
「いったい何を?」委員長が振りかえると同時に俺は叫んだ。
「委員長が、この世で人助けするのを手伝わせろ!!」
「はっ?」
委員長は、ポカンと俺の顔を見つめている。
「芭春アリスが、この世で人助けするのを、俺に手伝わせろ!って、言ったんだ!」大声で、もう一度繰り返した。
「なっ、なんで、なんでそうなるの?」
「テレスさん、この願いは有効か?」
「まぁお嬢様が、三つの願いを約束したのですし、悪魔はその力の及ぶ範囲で、可能な願いは履行しなければなりませんし」メイドはしぶしぶ答える。
「ばっ、バカなのですか? それって、私が人助けをするのが、そもそも前提で、さもなければ叶えられないじゃないですか!」
「そう、だから、そう言う事だ!! 委員長の力になりたい! だから願いを叶えろ!」
「あらあら……」メイドは小さく呟いた。
「うぅぅぅ」委員長は俯いて、両手で顔を隠すと、なんだか唸りだした。
ズキズキする体を引きずるように、二歩、三歩と歩く、そうして委員長の前にくると、顔を隠している手を掴んだ。委員長は、恐る恐る、そっと俺を見上げる。
「君の力になりたい」俺は叫んだ。
その瞬間、委員長の頭から、なんだか、ボッと湯気が出たような気がした。
「わっわっ、わっわたし……」委員長は慌てて俯くと、何やら小さく呟く。
「うん?」カエルは委員長を見上げる。
「わた、わた、わたしは……、いっぃぅ……、わ……。その、えと」
そして大きく息を吸い、一呼吸して委員長は言った。
「言うわ。神に会って、直接言います」
「ほぉ何をだな?」
「今、あなたには言いません。でも神に言いたい事があります」
委員長は顔を上げた。いつもの強い意志を持った、真面目で誠実な委員長の顔だった。
「だが、その前に」そうして委員長は再び大きく息を吸った。
「その前に私は、善行を積んで聖人になります。そして天使にもなります。そして天に昇るのです」
そう言って、二コリと笑った。
こうして純情な美少女は、狡猾なカエルに騙された。
そう、これは、大魔王バールの孫にして、大魔王ベルゼバブの娘。真面目で努力家で、小さくて可愛い。そして我がクラスの委員長である、芭春アリスが、悪魔でありながらも善行を積み天使となり、天に戻ろうと、努力する話しである。