文字数 1,844文字

 翌日、夜がしらみかけたころ、栄吾は城下はずれの七軒町についた。
 待っていた安兵衛は、犬の姿をしていた。軽く尾を振り、栄吾に寄り添った。
 あらためて近くで見ると、ほれぼれするほど美しく、力強い犬だ。頭をなでてやりたかったが、人間の安兵衛に悪いような気がして止めにした。
 栄吾は安兵衛を伴い、早足で大平山に向かった。
 老婆の家はすぐに見つかった。
 木陰からうかがうと、老婆は外でなにやら仕事をしており、黒犬ものっそりと側にひかえている。
 安兵衛はしばらく一人と一匹を眺めていた。
 やがて、鼻先に皺を寄せて栄吾を見上げた。
「種村さま。あれを人だとお思いか?」 
「なんだと」
「私と同じ、魔性の臭いがいたします。犬からも、老婆からも」
 栄吾は目を見ひらいた。どう見ても人間と犬なのだが、同類の安兵衛が言うなら間違いあるまい。
「ハクは化け物に殺されたのか」
「黒犬は私だけでなんとかなると思います」
 考え深げに安兵衛は言った。
「しかし、二匹相手は難しい。婆の方をお願いできますか」
 栄吾は腰の刀に手を伸ばした。
「斬るか」
「相手は人間ではありません。簡単には斬れないかと」
「どうすればいい」 
「喉笛を狙ってください。急所はそこしかありません。遅れを取っては反対に咬み殺されてしまいますから、ご注意を」
「わかった」 
 臆病者ではないつもりだ。栄吾は大きくうなずいた。
「では」
 安兵衛は念を押すように栄吾を見、すばやく木陰から飛び出した。
 脇差しを抜き、栄吾も後に続いた。
 安兵衛は一直線に黒犬に向かい、その首に嚙みついた。
 黒犬は大きく吠え、安兵衛を振り払らう。二匹はもつれながら激しい咬み合いをはじめた。
 驚いた老婆は、白髪を振り乱して、黒犬に加勢しようとした。
 栄吾は老婆の腕をつかんで押し倒した。安兵衛に言われた通り、ためらいなくその喉元に刃を突き刺した。
 老婆は獣のようなうめきを上げてのたうった。
 瀕死の年寄りとは思えぬほどの力で栄吾を押しのけようとする。栄吾は夢中で老婆を抱え込んだ。老婆の姿がみるみる毛深く、膨れあがっていった。
 大きく口が裂け、むき出しになった牙が空を噛む。栄吾はひるまず同じ場所を刺しつづけた。
 弾けたように痙攣が走り、それは動かなくなった。
 安兵衛も、黒犬の喉を喰いちぎっていた。
 栄吾と安兵衛は、肩で大きく息をして顔を見合わせた。

 倒れているのは子牛ほどもある巨大な猫二匹だった。
 血にそまった斑の毛は針金のように太く、尾が二つに割れている。何百年もの歳を経てきた猫又か。ハクの命さえととらなければ、まだしばらくはこの山奥でぬくぬくと生きていられたものを。
 栄吾は猫又の前にどっかりと座り、煙草をくゆらした。
 安兵衛に、さほどの怪我はないようだ。身体についた血糊をなめながら、毛繕いをはじめた。
 その目は満足げに細められていた。

 安兵衛の正体を、栄吾はむろん誰にも話さなかった。
 東町の家にも近づかず、そっとしておくつもりだった。
 しかし、どういうわけか町中に噂が広がり始めた。東町の安兵衛は犬であると。
 安兵衛の家に出入りする犬が、何度も人の目についたのだ。店にも奥にも犬などいないというのに不思議なことだ。
 犬安兵衛。
 そう人々は囁き交わした。 
 栄吾は後ろめたく思った。安兵衛は、これを怖れて自分に力を貸してくれたというのに。
 安兵衛の魔性をこらえきれなくしてしまったのはこの自分だ。たまに罪人の血を舐めるぐらいで抑えていたものが、猫又との戦いで大きく呼びさまされてしまったのだろう。長く人の姿を保てなくなったのかもしれない。
 栄吾とて、猫又の首に刀を突き刺した時の感触を忘れられないでいる。右手に伝わってきた断末魔の蠢きを、どこかでもう一度味わってみたいとすら思う。
 魔性の誘惑は、それ以上のものにちがいない。
 安兵衛に、むしょうに会いたくなった。人ではなく、犬の安兵衛に、だ。
 またあの美しい犬の姿を目にしたかった。ともに猫又と戦った時の夢をくりかえし見た。
 栄吾がついに東町に行こうとしたやさき、安兵衛は姿を消した。

 以来、栄吾は夜の城下を歩きまわっている。
 安兵衛が、どこかをさまよっているような気がして。
 処刑のあった日などは、かかさず河原までも足を伸ばす。
 安兵衛の家まで行くと、たいてい戸が細く開いている。
 さびしげに通りを見つめる安兵衛の女房を見かけることもある。
 城下には、たびたび辻斬りが現れるようになった。
 安兵衛の行方はついぞ知れない。
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