第3話

文字数 1,984文字

前夜 3

名刺を差し出したその男は保護観察官の武田と名乗り、面談に弟が現れない為に訪ねて来たのだと告げた。よれた地味なグレーのスーツを着た特に印象のない男であった。
優月はもう既に人と接するのに必要な生命レベルが尽きており、
「母親が亡くなり弟はショックで寝込んでいるので、今日のところは引き取ってもえないでしょうか」
咄嗟の嘘にこの男はニコッと笑い、弟を擁護する話をし始めた。
「感じやすく、対処の仕方に問題があるだけなんですよ。まわりの大人はそこが分からないんですね」
私はあなたの側ですよと言わんばかりのそぶりにうんざりしつつも、優月は自分と同じ匂いを嗅ぎつけていた。彼女も大人の側で自分を守って生きて来た人間なのだから。小さな頃からずっと。
お前も私と同じように彼を守れない大人なのにまだ与太話を続けるのかと、ため息が出てしまった。
「そうですよね、お気持ち察します。深呼吸していいですよ。彼の様な性格の子には芸術などに触れさせることが更生には役立つから。その為に僕は詩を書かせてみたんですよ。読まれましたか。胸打たれるような何かを予感させるように思えて、それが才能なのか、悪が隠れているのか」
優月が見た武田の表情に俗さは微塵もなく言葉をしっかり伝えようとしているのが感じられた。
素直に聞き入れた途端に鈍い圧迫感が胃に集まって胃液が上がってきて、ゲップが止まらない。
「隠れていない。あいつは隠す事が出来ない。良くも悪くも、『其レソノ物』なのだ。そもそも、あなたがどうのという前にあいつは言葉をぶちまけていじっていたんだよ」
彼女はそんな思いは語らず、口角を何とか上げてお愛想の微笑みを返した。
武田が帰ると、不思議と胃の辺りはすっとしたのだが、右の脳に胃液が押し入って焼け焦げた匂いが満ちて奇妙な踊りをしたくなった。
頭の何処かでアイツが、「闇の中、早く腰を動かせ、踊れないのに歌うのか、踊りを俺に早く乞えよ」そう挑発する姿が見え、衝動的に母の部屋へと走り戻った。
弟のファイルを正座した膝の上に全て乗せてみた。ずしりとした重さに二つの足首は離れてお尻がぺたりと畳にくっ付いた。
開くのがためらわれたままに、暫く天地をぐるぐる回したりしている。
「キャっ」
パチンという音と共にファイルの留め具が外れてはじけ散らかった。
優月は惨状を眺め、弟がここまでたくさん書き続けていた事に改めて驚いた。
「アノ人に厳しく止められて、彼もある時期から受け入れていく中で軽蔑していたのではなかったのか」
あらゆる時期のものがあったが、すぐに目についたのは少年院の検印が押された紙片たちであった。
優月の脳裏で、弟の綺麗な優しい左目と悪意溜まる鈍い重さの右目が動いた。下腹部に抑圧的な産声が這ってくる。
「嫌、来ないで」
急に立ち上がって走った為に足が絡まって、いびつな踊りの様で弟の部屋に転がり入ってしまった。
「痛い。馬鹿みたい」
息を吐いてゆっくり全体を眺める。部屋自体に気配は未だあって、直ぐにでも彼は戻るようにも思えて落ち着かなかった。
「えっ」
いつかの何気ない弟のハミングが優月の脳裏をかすめ、鳥肌がバッと浮き出たのが分かった。
「アイツは、やっぱりただの弟ではないのでは・・・・否、ただの犯罪者でしょ。
そういう態度をとるように私は決めたんじゃないか。悪魔なんだと。
そうではなかったの? 
違うって言うの? 
幼稚園の頃の泣き虫で可愛かった才を思い浮かべて、抱きしめることが正解であったの?
そんなのすべてが、つまらない幼き強欲と未熟さによる嫉妬でしかなかったというの?
今となってはどうにもならないわ。
謝ればいいの? 
どうなのよ。
でも、そう・・・・かもしれない。闇の光りのような何も感じない目。悪魔の目だと思って手放した次の瞬間には、優しい無条件の愛を与えたくなる目。
だってだって、違う温度の二つの目でいつもやって来るんだもの」
実体がないからこそ、敵わないと怯えさせる気配が今でも部屋に充満していた。散らばったファイルやメモなどの紙片に何かしらの存在が放つ温度を秘めて。
「狂気と愛をあまりに自由に無軌道にまき散らすんだよ、アイツは。
才そのものが芸術とでも言いたいの? 
どうなのよ、パパ!! 」
優月はあの日、握っていた才の手を棄てるように離した。その時の逆光に曝された弟の顔がようやく、今ここにやっと届いて現れて。
「聞こえる」
全てが、道理に合わない笑顔で、悪魔でもあり全能なる神は【ゼロ】の【ハミング】を奏でていた。
姉は焦るように弟のノートやメモ、ファイルを無様な様態で整え始めた。
「許してとも言わない。
血のつながりの無いただの他人としてあなたと出会うことから始めるから、ハミングを旋律にしてあげる。
否、ごめんなさい、そうさせてよ。お姉ちゃんに・・・・
グヤァあああああ否嗚呼ああああ
死ね死ねクソクソいやぁ嗚呼あ・・・・」
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