第3話樋口教授

文字数 1,489文字

今日の客は、女性ではない。
午後の4時過ぎ、少し疲れたような顔をした、初老の男性が入って来た。

飛鳥が、いつものふんわりとした声。
「樋口教授、お久しぶりです」
その飛鳥の声が聞こえたのか、キッチンから飛鳥によく似た、若い女性が出て来た。
「本当にお久しぶりです、香苗です、いろいろとお世話になりまして」
ウェイトレスの美鈴がカウンター席に誘う。
「先生、こちらに」

樋口教授と呼ばれた初老の男性は、「懐かしいなあ、飛鳥君も香苗ちゃんも、美鈴ちゃんも、大きくなって・・・うん、ありがとうね」と、カウンター席に座る。

飛鳥は、いつもよりやさしい声。
「もう少しお待ちください」
「今、蒸らしております」

樋口は、相好を崩す。
「ありがたいねえ、この香りは・・・川根かな」
「飛鳥君に入れてもらえるなんて・・・いいなあ・・・絵になるよ、その姿」
「うん、いいねえ・・・ここまで、素晴らしい香りが漂って来る」

飛鳥は、香苗がキッチンに戻ったのを見て、また話しかける。
「お任せで?」

樋口が頷くと、川根茶を置く。
「うわ・・・玉露の旨味が・・・甘味も・・・」
「完璧で・・・しかも、やさしい・・・これは絶品」
「生き返るよ、背筋が伸びる」

飛鳥は、そんな樋口を見て話題を変えた。
「親父は、今はイタリアかな」
「ミラノのヴィスコンティ家の研究とか」
樋口は、面白そうな顔。
「俺も行きたいよ、親父さんは、相変わらず、いい趣味しているな」
飛鳥
「追いかけたいです?」
樋口は、苦笑い。
「罪なことを言うねえ、親父そっくりだよ」
「いつでも、俺が行きたいと思う前に、玄信君は行ってしまうのさ」
「それで、ここの店に来ると、まあ自慢の何のって」
飛鳥も苦笑い。
「本当は、一緒に行きたいって言っていましたよ、親父が」
樋口は、また笑う。
「そういう・・・人の乗せ方も・・・血筋かなあ」
「この店も飛鳥君で安泰だよ」
「実に助かる、オアシスさ、我々の」

キッチンから、香苗がお盆を持って出て来た。
「はい、教授、ますはこれ」と言いながら、冷酒と少し茶色の四角い固まりを置く。

すると、樋口の顔が、また輝いた。
「もしかして・・・?」

飛鳥はにっこり。
「はい、酒はわかりますよね、奈良の」

樋口は、「あーーー!」と言いながら、冷酒を口にを含み、茶色の四角い固まりを少し箸で切って口に入れる」
「酒は・・・奈良の風の森・・・」
「そしてこれは・・・豆酪(とうべい)・・・豆腐の味噌漬け」
「泣かせるねえ、私の好きなものを、故郷のものを・・・全く、親父より悪だよ」

飛鳥は、風の森を、樋口の空いたグラスに注ぐ。
「それでは、しっかり私の悪に染まって、帰ってください」
「でも、飲み過ぎないように、制限させていただきますよ」

樋口が「え?」という顔をすると、飛鳥は含みのある顔。
「全部飲んで駅でひっくり返っても困るでしょ?」
「私も、奥様に叱られます」

樋口が笑いだしたので、飛鳥は続けた。
「残っていると思えば、また来てくれるでしょ?」
樋口が手を叩いて笑うと、香苗が、湯気の立つ料理を持って来た。
「この寒い季節には・・・でしょ?」

樋口は、その料理を見るなり、涙をぬぐう。
「関西名物肉豆腐・・・これは食べる前から美味しいってわかるよ」
「もうね、学長と揉めたとか、嫌なこと、みんな忘れちゃったよ、ありがとう」

飛鳥は、肉豆腐に夢中になる樋口から離れて、「奥様」に電話をかけた。
「教授が元気になりました、つきましては快気祝いを」
「はい、飲ませ過ぎない程度に、奥様の分も作ってありますので」
「え?お出でになる?では、お急ぎを、お待ちしております」

樋口は、結局聞き取っていたらしい。
飛鳥にクイールサインを送っている。
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