八、

文字数 2,806文字

八、
 弟は塔屋の塀に身を預けて景色を眺めていた。後ろから近づく私の姿を認めると、なんだかばつの悪いような顔をして瞳を伏せた。
 我々が居るこの塔は女神の塔と呼ばれ、ある一つの言い伝えがあった。それはやはり先の舞踏会の夜の伝説であった。想いあう男女が恒久の愛を契るに、女神のお目通りの利くこの場所がふさわしいのだろう。例によって弟も、一人の女生徒から呼び出しを受けてこの塔へ入り、そこで愛の告白を受けたんだそうだ。
 ところがこの朴念仁は彼女の精一杯の勇気を無残に打ち砕いてしまったらしい。大方教師と生徒の関係がどうとか、責任ある立場として浮ついた関係は云々とお硬い言い訳を繕って振ったのだろう。何せ女と二人で食事へ行くことすら躊躇う男だ。女心の機微を感じ取って安穏に済ませるといった芸当ができるとは到底思えない。
 そう思って、私は「馬鹿な奴だ、せめて三年待ってくれなどとはぐらかすなりすれば穏便に済んだろうに」と茶化すと、弟は「確かにそうだ。彼女には悪いことをした」と本気で反省したような顔をする。真面目に受け取っているあたりやはり根の悪い人間ではないが、この様子では女の扱いを覚えるのは遠い話になるだろうなと呆れるばかりだ。いつまでも萎れている弟を励ますべく、私は明るい調子で言った。
「人が死んでもどうも思わないなんて、本当は嘘でしょう」
 弟は一寸驚いたような顔をしたが、すぐに元の平静な顔へ戻った。
「嘘じゃない。姉さんも知っているだろう、そんなこと気にかけていたら戦場では生き残れない」
 こういう時は話をはぐらかせるのだな、と私は少し不機嫌になった。
「あなたは自分が思っているよりずっと優しい子よ。人の死を悲しんで、そうならないように最善を尽くせる人」
「どうかな、自信がない」
 弟は夜空を見上げた。薄青い空に白い月がぽっかりと浮かんでいる。
「あの子が死ぬ様を想像しても、ちっとも哀しくならなかった。いつか村でお世話になった人の葬式があっただろう。あの時と同じような、哀しいとは思うが胸が締め付けられる程じゃない、ただ冷静なだけの自分が居たんだ」
「それはあの子に思い入れがないからでしょう。教え子ではあるけれど特に懇意にしてる訳じゃないから」
「それのみとは思えない。もっと親密な人が死んだとしてもきっと俺は泣けない。悲しめない。……父さんや姉さんが戦場で討ち死にしても、その時に泣けるか自信がない」
 彼の声はいつまでも平静で、ちっとも感情らしい抑揚を感じさせなかった。
「そんなやつはきっと、彼女の言う通り『人として最低』なんだろうな」
 私は腹が立った。どうしても自分の本性を認めない彼に、腸が煮えくり返るようだった。彼は彼自身の優しさを知らない。彼の人となりを自覚していない。私の愛する人間を卑下するのは、それが弟本人だとしても許すことは出来なかった。しかしそれを伝える手段を私は知らなかった。いかな言葉を並べても彼に届くとは思えなかった。どうすればこの思いを彼に伝えることができる? ……。私は黙って目を伏せることしかできなかった。
 そうして落とした目線の端にきらりと光るものがあった。塀の上に何やら金属が落ちている。摘まみ上げてみると、はたしてそれは可愛らしい猫の意匠を象った髪留めであった。私はこれに見覚えがあった。いつしか恋文を私に誤って差し出した女生徒のものである。私は背に氷柱が刺さったような心持ちがした。先ほどまで弟とやり取りしていた女生徒とはまさしく、彼女に他ならない。するとなると畢竟、あの恋文もただ遊びで書いたものでないだろうことが察せられた。教室や廊下で私に差し向けられた射る様な眼光が被害妄想でないことを知った。私はあの時、確かに存在した少女のいたいけな恋心を破壊していたことを今更になって自覚した。
 眩暈のするようだった。私は幾度抱いたか分からない罪悪感が、またも胸の中で膨らむのを感じた。思わず身を塀にもたれ掛からせた。そうして手を乗せた塀の冷たさを感じた時、私は彼女の覚悟へ報いるべきという一種の義務感を抱いた。あの女生徒がどんな気持ちで弟に相対していたのか知らねばならなかった。
 私は塔の頂上の縁に立った。眼下の遥か先には固い石敷きの道がある。今はどうにか体の均衡を筋力で支えているが、その気になればいともあっけなく落ちてそこへ叩きつけられるだろう。先ほどとは違う冷たさが背筋を伝った。確実に訪れるであろう結末に反射的に体が怯えるが、それも心に巣くう罪の意識が麻痺させていた。私はこの時死に対して特に鈍感になった。
 こちらを見た弟は目を見張った。月明かりで照らされた顔をより一層青くした。敵と刃を交える時でさえ、これ程切羽詰まった表情は拝めないだろう。「何してるんだ、戻れ」と私へ呼びかける声は、先ほど聞こえていた男の声とはまるで打って変わって緊張していた。
 その様子を見て、私は少しく当てが外れたと思った。先ほどの少女に対するものより、弟の声はずっと逼迫していた。それはただ親交のある肉親を慮る気持ちばかりではないように見えた。あるいはそう見えるのは私の願望かもしれなかった。ともかく弟にとって、私という存在が他の女性より重要な席を占めているように感じた私は心を躍らせた。蔓延っていた罪悪感が優越感に駆逐されていくのを感じた。胸の空く思いを抱いて弟の方を見やると、その表情がよりはっきりと分かった。弟の顔は真剣そのものであった。
 私はこれだ、と思った。私の言葉に彼が真剣に耳を傾けるのは今しかないと思った。彼自身に彼の人となりを自覚させるには今が最高の好機であった。鋭い風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ。ふとすると足元がぐらつきそうになるのを必死に堪えて、私は弟へ言葉を投げかけた。
 弟の聡明なこと、勇敢なこと、辣腕なこと、人情に篤いこと、器量の良いこと、……自分のような姉にはもったいないほどの、立派な人間であること。そうして弟を誉めそやす私の弁舌はそれに留まらなかった。私はこの時平生にないほど饒舌であった。次から次へと言葉が出てくる。頭で考えるより先に口がせっつく。叫ぶ声で喉が焼き付きそうなのに、もっと熱い何かに押されて私は言葉を止められなかった。
 やがて弟が私の口上に割り込んで、「ありがとう、良く分かった。分かったから、どうか降りてくれないか」と言った。私はどうにも足りないと思ったけれども、弟の蒼白い顔が不憫に思えて降りることとした。
 その時、握っていた髪留めがするりと手から滑り落ちた。奈落へ向かおうとするそれへ反射的に手を伸ばした私は、突如として吹いた風に煽られてバランスを崩した。舞踏のために履かされた高いヒールがずるりと音を立てて塀から離れる。目の前にあった白い顔が完全に凍り付く。重力に投げ出されるままになった私は、緩慢になって流れゆく世界を無感動に眺めていた。
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