美味しいケーキの美味しい理由

文字数 4,711文字

 俺は、サンタっていると思うんだよ。
 別にトナカイが空を飛ぶなんていう空想を信じている訳ではないし、フィンランドのサンタ村の事を言っている訳でもない。
 じゃあ何なんだと、言いたくなるのもわかる。
 俺は子供の頃、サンタの姿を見たんだ。家の中で母さんと話している、赤い服の男を確かに見た。こっそりと布団を抜け出して寝室の扉から目だけを覗かせると、廊下の隅っこの方にその姿を見たんだ。
 まあ、実際にはサンタの格好をした父さんだったわけだが、あの頃の俺はサンタである事を疑わなかった。俺にとっては、サンタはそこにいたんだ。
 それは、俺にとってサンタが実在した事になるんじゃないかと思う。中学生の頃に二年生特有の病を患った俺は、哲学なんてものを半端に齧ったものだから、この事が真であるように思えてならない。
 シュレディンガーの猫だとか中国語の部屋だとか、もう内容はうろ覚えだけれど、なんかそんな感じの話だったような気がする。いや、やっぱり違っただろうか?
 ともかく、その実態がどうであれ、ある人物にとって変わらないのであれば本質的な差はないのではないかという事だ。あの時廊下で話していたのが父さんだろうとサンタだろうと、俺にとってはサンタがそこにいたのだ。
 だからどうっていう事でもないのだが。

 俺はなぜこんな取り留めのない事を考えているのか。それは、俺がクリスマスに仕事をしているような寂しい人間だからだ。
 友達と遊びに行くような予定は一切なく、聖夜を共にする恋人もいない。普段からバイト三昧のつまらない生活なのだが、この時期はお客が多くなるに対して人手は少なくなるので忙しさは乗倍といったところだ。
 山積みになったケーキの箱を見て、ため息を堪える。店の前で通行人に対してケーキを売る事が、今日の仕事だ。昨日降った水たまりが凍り付いてしまうような寒空の下で、このケーキの山を売らなくてはならない。
 目の前でいちゃつくカップルに心の底から呪詛を吐き出し、顔には満面の笑みを貼り付けて「ありがとうございます」と言う。つい今しがたの話ではないが、どうせ俺がどんな心根で接客したところで相手に伝わる印象は変わったりしない。
 悲しいだろうか?
 寂しいだろうか?
 喜ばしいと、俺は思うね。
 人の心が相手に伝わらない理由は、伝わってはならないからだと思う。伝わってしまっては、良好な人間関係など築けるはずもない。どんな善人でもイライラしているときはあるだろうから、そのイライラが相手に露呈してしまわないようにできているのだ。
 よくできた世界だ。そうやって、誰もが何かを我慢して生きている。
 カップルは、特に礼を言う事もなく帰っていった。俺なんかそこに立っているだけに物体なのだろう。それはもはや人間でなく、ここにいるのは機械であっても構わないのだ。
 いや、近頃は従業員を全て機械にしたホテルがあると聞く。そんなものが話題になる以上、“機械でもいい”どころか、むしろ機会の方がいいとすら言えるのではないか?
 卑屈だ。俺は、どこまでも卑屈だ。
 誰だって苦しくなる時はあるというのに、まるで世の中自分だけが恵まれていないかのように思う。理解していながら、それでも勝手に落ち込んでいる。そして、そんな下らない自分が嫌になって、さらに落ち込んでしまうのだから手に負えない。ネガティブの悪循環。
 先ほどのカップルだって、泣く事もあれば喧嘩する事もあるはずだ。あのカップルのどちらかが涙を流している時、俺は家でゲームでもして笑っているかもしれない。
 決して、ただ幸せなだけであるわけでないとわかっていながら、それでも他人を羨んでいる。
 しかし、正す気はない。
 やはり、何も変わらないのだから。俺がどう思って行動しようと、相手にとっては何も変わらない。電車を降りるために席を立ったとしても、譲るためだったとしても、次にそこに座る人間にすれば座る事のできる事実は何も変わらない。

「すみません!」
「……?」

 声が、する。
 俺がケーキを売っている事を思えば、間違いなくお客なのだろうと思うのだが、しかしその姿はどこにも見当たらなかった。
 随分と舌足らずな声。何をそんなに力んでいるのかわからないが、喉の奥から張り上げるように叫んでいた。

「……あ、いらっしゃい」

 もしやと思い視線を落とすと、そこには愛らしい男の子が千円札を握りしめて立っていた。長机の影になっていたので、身を乗り出すようにしなければ見えなかった。雪だるまよりもずんぐりとするほどに防寒着を着込み、しかし顔だけは外の冷気に当てられて真っ赤だ。
 初めてのお使いというやつだろうか。周りに保護者の姿は見えない。

「サンタさん! ケーキください!」

 くしゃくしゃになって人相の悪くなった野口秀雄が突き出される。あと何年かのうちに交代だというのに、もう少しのところで握りつぶされてしまった。
 不憫だが、子供の手に渡った不幸を呪ってもらうしかない。

「はい、お釣り」
「わぁい!」

 小銭を見て喜ぶあたり、やはり子供だ。俺も子供の頃は、お札よりもたくさんの小銭の方に心動かされていたものだ。

「大きいから気をつけてね」
「うん! あ!?」

 フラグの回収が鬼のように早い!?
 ケーキの入った箱は地面に叩きつけられ、随分と派手な音を立てた。中身は見えないが、まず間違いなく悲惨な事になっているだろう。

「…………ぅ」
「!?」

 目に涙が浮かんだ。俺は、その様を、まじまじと見た。
 次の瞬間どうなるのか、目に浮かぶようだった。みるみるうちに顔が歪み、今にもその大きく開かれた小さな口から、およそ言葉とは呼べない大音量が発せられようとしていた。

「坊や! 坊や! 新しいのあげよう!! 特別だ、次は気をつけるんだよ!!」
「…………」

 辛うじて、泣き出す直前に止まった。俺は安心して胸をなでおろす。
 俺は、グシャグシャのケーキを長机の下に放り込み、代わりのケーキを渡した。今度こそしっかりと手に握らせて、坊やは軽い足取りで帰っていた。

「ありがとう!」

 子供らしく、元気一杯に、そんな言葉が投げかけられた。

 俺はというと、あのあと店長にしこたま怒られた。勝手な事をするなと。そのケーキはどうするんだと。
 ならばあの場で泣かせていればよかったのかという言葉を飲み込み、俺はケーキは自分が支払いますと言った。店長は当たり前だと怒鳴りつけてきたが、初めから俺に弁償させる気ならどうするんだなんて聞く必要はないだろう。
 腹を立てている様子などほんの少しも見せずに、一見して反省しているような顔で頭を下げた。腹の中ではふざけやがってと悪態をついているが、相手に伝わらないのなら大した意味はない。店長にとっては、本当に反省している事となんの違いもない。

「お疲れ様でした……」

 申し訳なさそうに。
 肩を落としているかのように。
 俺はトボトボ帰路に着いた。
 いつも通りの、つまらない一日だ。少しトラブルはあったものの、揉め事なんて日常茶飯事だし、なんならお客に土下座をさせられた事も一度や二度ではない。店長に怒鳴られるくらい、むしろ大したものではないと言える。
 寒い寒いと身を震わせて、今日も寂しい我が家に戻る。
 誰が待っているわけでもない自宅。隙間風も多いので、帰ったからといってそう温もりがあるわけではない。布団をかぶれるだけマシ程度の差しかない。
 暖房をつけようかと思って、やっぱりやめる。どうせ俺一人なのだ。暖房代すら勿体無い。
 ヒュゥ〜っという音がする。窓がガタガタ音を立てる。小汚いアパートの一室。こんな場所が、俺の空間だ。
 とてもではないが、こんな場所で寝泊まりをしても疲れは取れない。寒い部屋の中で、薄い布団を体に巻きつけて、それだけでは寒さを凌げないのでありったけの防寒具を着込んでの生活だ。
 それでも、外よりずっといい。外はただ立っているだけで疲れてしまうし、何より疲れても寝転がる事ができない。好きな時に横になれるというだけで、外なんかよりはるかにいいのだ。
 何をするでもなく、何をしたくもなく、ただそのあたりに転がっていた。
 腕も脚も投げ出さず、猫のように丸くなって寝る。少しでも体を小さくしたくて、少しでも寒さから逃れたくて。
 しばらくの間そうして、渋々手洗いに立つ。こうも寒いと、トイレが近くてかなわない。凍えそうな室内を肘のあたりを抱いて歩いた。猫背で、急ぎ足で。布団から出るのは、億劫なんてものじゃない。たかだか数分の行動でも、指先から凍りついてしまうのではないかと思うほどだ。

「……あ」

 トイレから戻り、布団に入ろうとした時、部屋の隅に放置されたケーキの箱が目に入った。仕事場から買ってきた物だ。子供が、落としてしまった物だ。

「…………」

 何を思ったのか、自分でもよく分からない。俺は甘いものが好きではないので、別に捨ててもよかったのだが、なんとなくその箱を開いた。そういえば夕食を食べていないし、多少腹の足しにするのも悪くないかもしれない。
 箱を開けると、ボロボロになったケーキの残骸が顔をのぞかせる。案の定というべきだが、正直思っていたよりもはるかに悲惨だった。幼稚園の頃に作った泥のケーキを真っ白にすれば、ちょうどこんな見た目になるだろうという有様だった。子供の拙い手先で行われた整形は見るに耐えず、言われなければそれがケーキであるなどとは誰も思うまい。今まさに、そんなものが目の前にあった。
 箱の内側にはベッタリとクリームが付いているので、取り出すだけでも一苦労だ。手洗いは済ませたばかりだというのに、もう一度洗面台まで行かなくてはならなくなった。寒い上に冷たい。なぜ凍っていないのか不思議なくらい冷たい水道水が、俺の手を串刺しにした。骨まで響くほどの痛みをジンジンと滲ませて、手を拭くタオルすらも暖かく感じた。
 ようやくケーキの前に座る。
 食器を洗うのが面倒なので、皿には移さずそのままだ。フォークも使い捨ての物を使い、切り分けもしない。
 俺は、甘いものが好きじゃない。
 口の中に広がるベタベタとした味が苦手だ。しかし、不思議とこれは美味しい気がした。
 一口噛んで、二口噛んで、苦手なはずの味が口の中に広がる。そのたびに、昼間に見た子供の顔を思い出した。
 いや、実のところほとんど顔なんて覚えていない。俺は、昔から人の顔を覚えるのが苦手な人間だった。ただそれでも、俺がケーキを渡した時の顔を見て、ずいぶん嬉しそうだと感じた。自分の感想の方は覚えている。あの子供はたしかに泣き出す直前であり、俺が新しいケーキをあげると嬉しそうな顔をした。俺がそう思ったのだから、きっとそうだったはずだ。

「…………」

 終始、無言。何をするでもなく、黙々とケーキを食べた。そしてその間、俺の脳裏には昼間の子供の姿があった。
 見た目最悪のケーキを前にして、もう少しで大騒ぎするところだった子供の事を思い出している。ただまぁ、なんとなく気分は悪くなかった。
 どうやら、今日は幾分か気分良く眠れそうだ。明日の仕事も、俺は頑張る事ができる。
 見た目の悪いケーキで腹を満たし、ワタの抜けた布団に身を包み、防寒着をしこたま使って眠りにつく。
 ひどい環境。しかし、俺はその日、いつもよりはるかに穏やかな眠りにつくのだった。
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