第9話

文字数 5,454文字

 ハプニングとはいえ、司会デビューの日が決まった。
 それが結果的にラッキーなのか、それとも悪夢に転じるかは……。
「私の努力次第ってことよね」
 一晩明けて、雨の月曜。なんとなく起きづらいのは、昨日のブライダルフェアで感情をたくさん揺さぶられたせいかもしれない。以前お世話になった五十風(いがらし)サオリ先生に、思いがけず……じゃなくて、思っていた以上に辛辣(しんらつ)な言葉を投げつけられ、いま美咲が所属しているMCスピカとの関係性をも目の当たりにして、美咲(みさき)自身にも大きな難題が降りかかってきて、体より心が疲れた模様。
「でも、決まったからには前に進まなきゃ」
 三毛猫のぬいぐるみ・マリアさんをギュッと抱きしめ、美咲は自分自身を励ますべく、「よし」と弾みをつけてベッドから上半身を起こした。だが次の瞬間には、「でも……」と弱音が漏れてしまう。
「あと二ヶ月しかないのに、本当に大丈夫かな」
 不安を、わざわざ声という「音」にして耳から取りこんでしまったら、なぜか体が重くなった。こうなるともう不安でたまらない。夕べは奮い立たせていたはずの勇気が、たちまち(しぼ)む。
 萎みついでにもう少しだけ零すなら、憧れの職業だからこそ失敗したくないのだ。長く続けていたいから。
 そのためにも、しっかりトレーニングする時間を確保したかった。これで万全と胸を張れるほど準備して、揺るぎない自信をつけてから、堂々と本番に望みたかった。それであれば、こんなふうに恐れることもなかっただろう。それどころか早く新郎新婦に会いたくて、本番を迎えたくて、うずうずしていたに違いない。
 なのにまさか、こんな形でデビューが決まってしまうとは。
 正直、プレッシャーでしかない。頑張りたいという気持ちは確実にあるのに、不安に押し潰されて動けない。
 ふと視線を落とせば、マリアさんを抱く自分の指先が小刻みに震えていて……美咲は慌てて視線を逸らした。
「怖い……よね」
 口にして、ギクリとした。マイナス発言は不安のループを招くだけから、こんなときは絶対に口にすべきじゃない。声に出すなら、「できる」「やれる」「楽しみ」……この三つ。在原先輩による講習を受ける中で学びとった、「幸せを呼びこむ三点セット」だ。
 そもそもウエディング業界では、忌み言葉やうしろ向きな発言はNG。プロの司会者であれば本番前のみならず、普段から心がけるべき姿勢であり、心構えだと思う。
 でも──────。
 それさえも、いまの美咲には荷が重い。
「はぁ……」
 美咲はベッドに座ったまま、膝に抱えたマリアさんの頭頂部に顔を埋めた。そのままズブズブと果てしなく沈みそうになり、真ん丸だったマリアさんが歪な楕円形になって潰れている。
「落ちこんでいるヒマがあったら、コメントを考えなきゃ。心が晴れるような……なにか」
 こんなとき在原(ありわら)泉先輩なら、きっとこう言う。『するかどうかもわからないミスに怯えて思考停止することほど、非生産的な時間はないわ。あきらかに無駄でしょ?』と。
 じつは昨夜のライン通話で、在原さんから「宿題」を出されたのだ。水曜のレッスンまでに、夏のコメントをいくつか考えておきなさい、と。
 夏といえば、暑い。……ダメだ、暑苦しい。滴り落ちる汗を連想してしまう。これでは気持ちが晴れるどころか、滅入る。
 よし! と美咲は背筋を伸ばした。そして思いつくかぎりの「夏の連想」を声にした。
 「夏、海、青空、入道雲、太陽、ひまわり……」
 うん、いい調子。少し心も浮上してきた……かも。
 「夏祭り、浴衣、金魚すくい、綿あめ、盆踊り、花火大会……七夕」
 七夕といえば、七月七日だ。美咲が司会者としてマイクを握る日。
 せっかくなら、七夕にちなんだコメントを入れたい。おそらく新郎新婦も、それを期待していると思うから。
 美咲は目を閉じ、新郎新婦の入場シーンを瞼の裏に描いてみた。
 閉じた入場扉の左右にスタッフがスタンバイし、会場内が真っ暗になる。パーティーのホールアルバイト経験のおかげで、このあたりは容易にイメージできる。入場曲もしくは司会者どちらかの「きっかけ」が、音楽もしくは声で会場内に響き渡り、入場扉のセンターにスポットライトがあたる。
 そのドアオープンの瞬間にふさわしい、七夕ならではのコメントといえば……。
「満点に輝く星空のもと、織り姫と彦星が、ご入場です!」
 笑顔で言って、ビシッと空中に片手を差し伸べた、次の瞬間。
「却下──ッ!」
 恥ずかしさのあまり、美咲はバフンッとマリアさんに顔を埋めた。
 なぜならあのカップルは、年に一度しか会えない運命。遠く分かれている織り姫と彦星は、ウエディング・シーンには、まったくもってふさわしくない!
 それに当日、もし雨でも降ろうものなら、翌年まで会えないという悲しい運命まで連想させる。
 単身赴任などで別居前提の新郎新婦なら、遠くにいても愛は永遠……とかなんとか、織り姫と彦星を登場させるのはアリかもしれない。でもそうじゃないなら、いくら七夕といえども、織り姫と彦星の手は借りられない。
「在原さんに、雷を落とされるところだった……」
 美咲はブルブルと横に首を振り、遠距離カップルに頭の中からご退場いただいた。
「あー、でも、だったらどうしよう。七夕の日を飾る素敵な言葉、なにか……」
 ひとりでは考えがまとまらない。こんなときは。
 美咲はチラリと、ベッド横の目覚まし時計に目をやった。時刻は十時。
 朝ご飯にしては遅めだし、お昼にしては早すぎる。こんなときは。
 「…………パン、買いに行こ」
 美咲はベッドから腰を上げた。マンションの隣のコンビニで済ませてもいいけれど、気分転換に駅前まで歩けば、なにかイメージが湧くかもしれない。
 ぺったんこになったマリアさんの脇腹をぽふぽふと叩いて元の形に戻し、枕元に置き、「ちょっと出かけてくるね」と声をかけ、美咲は薄手のショールをクルッと巻いて外へ出た。

 駅ビル一階のベーカリーで総菜パンをふたつ買い、すぐにマンションへ戻る予定だった足を、北口ビルへと延ばした理由は、三階の雑貨店を訪ねるため。
 ショップスタッフ・川島さんに会いたくて。
 あれは、彼と別れて三日目の夜だった。ひとりでいることに耐えられなくなった美咲は、閉店間際の雑貨店を訪ねたのだ。
 ぬいぐるみ猫・マリアさんと目が合って、抱っこしたら離れがたくて、涙が流れて……マリアさんにポタリと落ちて。汚しちゃったから……と理由をつけて買おうとして、でも所持資金が足りなくて、大人げなく途方に暮れて。
 取り置きをお願いしたら、「いますぐにマリアさんが必要なんですよね」と、見ず知らずの客のために……美咲のために自分のおサイフを取りだして、立て替えてくれたのだった。
 その川島さんに、きちんと報告したかった。
 ついに司会デビューが決まりましたと笑顔で報告できれば、二ヶ月後への不安も、期待に変えられるかもしれない。
 平日の午前中のせいか、どこか閑散としている北口ビルのエスカレーターに乗り、三階へ到着したとき。
「……あれ?」
 なにか、様子が違う。
 エスカレーターを降りて、すぐ左手。いつもなら和小物や洒落たステーショナリーが美しく陳列されているはずの棚には、なにも並んでいなかった。
 川島さんは、いた。いつものように紺色のエプロンをつけ、ショートのボブをカチューシャでまとめ、テキパキと働いていた。黙々と続けているのは……商品を段ボールに詰める作業。
「川島さんっ!」
 思わず声を上げてしまった。川島さんがパッと顔を起こし、美咲と知ってにっこり笑う。
 せっかく川島さんが、店内のあちこちに置かれた段ボール箱を回避して美咲の前まで来てくれて、「こんにちは」と挨拶してくれたのに。
「お久しぶりです、松乃さん。マリアさんは元気ですか?」
「……っ」
 美咲は、返事ができなかった。どうしても笑顔になれなかった。
 見ただけでわかってしまった店内の状況に、いまにも涙が零れそうで、口を開くことが出来なかった。開いたら、「どうして?」とか「なぜ?」とか、「いかないで」とか……マイナス発言ばかりが次から次へと溢れるに違いないから。
 泣くのを我慢している美咲の肩に、川島さんがそっと手を載せ、優しく揺らしてくれる。
「上からのお達しで、他言厳禁だったんです。閉店の噂が流れると、本店の売り上げにも影響がでるからって」
「……はい」
「営業は昨日まででした。日曜で、切りがいいから。今日をもって撤退ですが、商品は全部本店へ移動させるから、閉店セールも出来ませんでした」
「……はい」
「私、これを機に退職するんです。だから……今日お会いできて、よかったです」
 はい、と返したけれど、届いたかどうか。
 パタパタッと涙が落ちた。慌てて川島さんがエプロンの前ポケットに手を差し込み、「あ、ハンカチがない」と言ったかと思うとレジに走り、スタッフと二言三言話をして、なにかを手にして戻ってきた。
 どうぞ、と渡されたのは、小さな招き猫のワッペンが縫いつけられた、ガーゼのハンカチ。「おめでとう」と印刷された熨斗(のし)が巻かれているけれど……。
「これ、梱包作業中にパッケージを破損しちゃったんです。熨斗のところを破いちゃって。買い取ったばかりで未使用ですから、よかったら……」
 使って、と言われたときにはもう、ハンカチは美咲の頬に押し当てられていた。
「これでもう、松乃さんちの招き猫になりました」
「川島さん……っ」
 感情が、こみあげる。なにか言いたいのに、涙で声が詰まってしまう。
 でも、どうしてもいま、彼女に伝えたいことがある。美咲は声を振り絞った。
「私、司会デビューが決まりました……!」
 ええっ! と驚いた川島さんの表情が、ぱあっと華やぐ。「ほんとですか? いつ?」と飛び跳ねるように訊かれて、「七月七日、七夕です」と返した。
「わぁ、素敵! じゃあ結婚するカップルは、さながら織り姫と彦星ですね」
「それが……織り姫と彦星は、年に一度しか会えない運命なので、ウェディングにはふさわしくないんです」
 あら、と目を丸くした川島さんに、「さすがプロですね」と感心され、少しだけ心の芯が和らいだ。
 美咲は手の中でハンカチを握りしめ、川島さんの暖かい気持ちにも背を押されて、少し不安を吐きださせてもらった。マネージャーの許可も出ていないのに、急に決まってしまったこと。本番まであまり時間がないこと。明後日には先輩司会者のレッスンがあるのに、いいコメントが用意できないこと……などなど。
 すると、川島さんが言った。「でも七夕は外せませんよね。だとしたら、天の川?」と。
 そう言って足元の段ボールから取りだしたのは、片手で持てるサイズの天球儀。群青色のそこには、学校で習った星や星座とともに、天の川も描かれている。それを指さし、アー……と川島さんが眉をハの字にする。
「みごとに空を二分してる。だったら、天の川も使えませんね」
 苦笑する川島さんに、だが美咲は、気がつけばプラスの言葉を返していた。
「天の川さえものともしない、強い愛情で結ばれたふたり……」
 口にして、ハッとした。川島さんも、「あ!」と賛同の驚きをくれる。
「天の川を逆手にとって、ふたりの愛の強さを表現するの、アリですね」
「ですよね、川島さん! この方向性、アリですよね!」
 きゃー! と、思わずハイタッチ。作業中のスタッフたちの視線を浴びてしまい、慌てて口を噤んだものの、突破口を発見したかのようで、嬉しくてたまらない。
「七月七日は、愛の強さを表す日。不変の愛の日……ですよね、川島さん」
 はい、と大きく頷いてくれた川島さんの背後で、「バックヤード行ってきまーす」と、スタッフが川島さんに声をかける。
 長居しすぎたことを反省し、美咲は姿勢を正し、両手をおへその下で揃え、言った。
「いつも心の支えでいてくださったこと、励ましてくださったこと、応援してくださったこと……川島さんのおかげで、がんばれそうです。本当に……ありがとうございました。どうか川島さんも、新天地で頑張ってください」
 最後は涙声になってしまったけれど。
 それでも笑顔は、心からの感謝で輝いていたと思いたい。
「ひとつお願いがあります、松乃さん」
「……はい、なんでしょう」
「私が結婚するときは、司会、お願いできますか?」
 え? と目を見開く美咲に、川島さんが恥ずかしそうに首を竦める。
「たぶん、今年のクリスマスごろになると思います。夏までには、どこかの会場に決めようねって、彼と相談中です。だから……────」
 そのときは、指名してもいいですか?
 
 せっかく我慢していた涙が、一気にあふれた。
 喜んでお引き受けしますと返したいのに、感激が大きすぎて声が出ない。それまでにもっと勉強しますと言いたいのに、ありがたくて涙しか出ない。
 本番では絶対泣かないようにします、約束しますと、泣きながら誓ったら。
 右の小指を差しだされ、「約束ですよ」と笑われた。

                           →→→第十話へ続く
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

松乃美咲です。プロ司会目指して、頑張ります!

ライバル会社の存在が脅威ですけど……

どうか、応援してください!

司会歴十五年。在原泉です。テレビ番組のナレーターも、ときどき。

見た目が怖い? 失礼ね。お姉様ってお呼び!  ……冗談よ。

司会派遣会社『MCスピカ』のマネージャー、七実チカどぇーっす☆

もっか禁煙中!!!  メンバーたちには 大酒飲みで大雑把とか言われるけど、

仕事はめちゃくちゃ、しっかりやるっす!

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み