雨と泥

文字数 2,001文字

 微睡みの中で姉の声を聞いた気がした。
 目が覚めて、それが自分の寝言だったことに気が付いて、切なくなった。
「もう大丈夫だよ」
 そう聞こえた気がしたのだけれど。
 葬式を終え、肩を押さえ付けて動けなくなるような重い疲れに負けて、私は薄暗いリビングの机に突っ伏している。もうしばらくは立てない。立たなくてもいいだろう。色々ありすぎた。休みたい。
 こうなることを、双子の姉はいつから考えていたのだろう。ずっと前から考えていたのだろうか?双子だからなんでも分かり合えると思っていたのに、一週間前を境に何も分からなくなってしまった。
 しとしとと、雨の落ちる音が窓の向こうから聞こえた。このところ、ずっと止んでいない。止まない雨はないというけれど、いつやって来るのか分からない希望にすがれるほど楽観的にはなれなかった。いつか止むといえ、降っている間は憂鬱に違いない。洗濯物も溜まっていて、空気が湿気って、このまま自分も雨になれたならばと想像する。
 お母さん、お姉ちゃんが、いなくなっちゃった。
 一人残された私は、寂しく雨粒みたいに泣くだけ。
 お姉ちゃん、どこが分かれ道だったの?
 尋ねても返事は無い。
 思い当たることが無いわけではない。私と姉、どちらがその道に行ったとしてもおかしくはなかった。だって私たちは双子だ。あの頃、考えていることはお互いに手に取るように分かった……はず、だった。
 なのに、この場所に取り残されたのは私だけ。
 お姉ちゃんは、遠いところで泣いているのかな。私みたいに、泣いているのかな。
 このまま雨になって、流れてしまいたかった。


 手に残る感触を覚えている。グーとパーを繰り返し、自らの手の感覚を思い出させる。
 少し落ち着いたところで、背もたれに体重を預け、ネットカフェの狭い個室に自らの居場所を確保して、ため息を一つ溢す。それでも安息はもたらされず、ただただ焦燥が胸を占めていた。
 きっと、誰も私を理解できない。
 運動のできない私がスポーツ選手の苦悩を理解できないように、一線を超えた私を誰も理解できるはずがない。だから、誰にも吐露することはない。
 人を、殺してしまった。
 勢いのままに、悲願の末に、思い通りにはいかなかったけれど、目的をやっと果たせた。
 母を、殺せた。
 一般的な母というものはテレビでしか見たことがないから詳しくは分からないのだけれど、それでもうちの母はあまりいい母とは言いがたかった。
 母はいわゆるシングルマザーで、まだ十代のときに私たちを産んだ。父親は、どこの誰かも分からないらしい。
 女手一つで育ててきた、と言えば聞こえは良いが、果たしてこれまでの私たちの生活に《育てる》という行為があったのかは甚だ疑問だ。
 一度機嫌を損ねれば、殴る蹴るなど当たり前。きっと仕事で疲れているから、仕方ない。そう自分に言い聞かせるも、痛みは容赦なく身体を襲った。
 以前安い犬のエサが食卓に出てきたときは、もう何も考えられなくて、食べ物が出てくるだけありがたいと言い聞かせ、もさもさして味の薄いそれを食べていた。
 つい一週間前のこと。
 妹が、腹を強く蹴られて、泡を吐いて倒れた。私と同じ顔が、白い顔をしていた。尚も母からの暴力は止まず、今度は私に手を振り上げた。
 殺されると思った。
 だから、隠し持っていた包丁で、胸を貫いた。
 銀色が鈍く光る。その光こそが、私たちの希望の光だった。
 ずっと夢想して来たこと。それを実行に移しただけ。
「もう大丈夫」
 私達はやっと檻から出られた。
 あなたは幸せになってね。
 そうして母は事切れて、私は妹のために救急車を呼び、その場から逃げた。
 私と妹、どちらにも殺す可能性はあったに違いない。私達は双子で、考えていることは手に取るように分かっていたから。
 けれど、標的が一人ならば殺すのもどちらか一人。この一点で、私達は違う道を進むことが決まっていた。
 道を分けたのはたった数分の、姉と妹を決める時間の差だけだったように思う。
 もしくは呪詛のように吐かれてきた、「お姉ちゃんなんだから」という言葉のせい。
 奇しくもその台詞は、母の言だった。
 妹のいる家が懐かしい。
 できることなら、ずっと妹と一緒にいたかった。
 もうあの生活には戻れない。
 あの子は何をしているのだろう。道を違ってしまったから、もう妹が何を考えているのかも、何をしているのかも分からない。もし泣いていたとしても、血に濡れた手ではあの子の頬は拭えない。
 ネットカフェのパソコンで、昔見た子ども向けのセル画のアニメをおもむろに流し、少しばかり現実逃避をする。抑揚のない音楽と緩急のない展開に、眠気を誘われて、テーブルに突っ伏した。
 もう涙さえも出なかった。
 今はただ、泥のように眠っていたかった。
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