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文字数 10,733文字

 父の葬式は慌しく終わってしまった。呼吸が途絶え、灰になるまで、さほど時間はかからなかった。それが私には信じられなかった。あまりにも突然のことであったのだ。
 肺がん。それが父の死因だった。うちの家系は元来呼吸器に疾患がある人間が多く、私も喘息を患っている。父もその一人だったが、誰の忠告も聞かずに煙草を一日二箱吸うヘビースモーカーであった。
「お父さんらしい、頑固な最期だわね」
 縁側で風に流れる雲を見ながら姉の敏子が呟いた。私はその言葉に静かに頷いた。
 姉と私は喪服姿のまま父の遺品を整理していた。こんなことは、すぐにやるものではないかもしれないが、何かしていないと平常心が保てない気がしたのだ。姉も同じ気持ちだったらしく、二人無言のまま、作業を開始した。
部屋はきれいに片付けられていた。入院前に整頓していったのだろう。几帳面な父らしい。私たちは、整えられた部屋の箪笥を端から開けていった。
生前着ていた服、読んでいた本、日記帳。残しておくべきものとそうでないものを区別する。残酷だった。私達がいらない、としてしまえばこれらのものはごみになる。いる、と判断すればすべて遺品となる。父にとって、どの品が大切だったのか。それはいくら子供である私達でも判断できない。
せめて遺書があれば。父の机の引き出しを探ったが、それらしい書類はなかった。日記帳には一日のスケジュールしか記されていない。父の遺志らしいものが見つからない。
「案外、死ぬなんて思ってなかったのかしら」
 姉が苦笑いした。あの父ならそうかもしれない。「将来のことなんぞ、知ったことか」――それが父の口癖だった。
 結局財産分与については後々話し合うことにし、私と姉は今ここにある遺品の分配をすることにした。といっても、この部屋にあるものは、引き取っても二束三文にもならないものばかりであった。
「これ、もらってもいいかしら」
 姉が手にしたのは万年筆だった。生前父が愛用していたものである。日記の文字も、この万年筆で書かれたものだろう。
「じゃ、私はこれを」
 箪笥の奥から出てきた、正方形の桐の箱を手に取った。中身は腕時計だ。姉に見せると、彼女は驚いた。
「あら、お父さんったら……」
 口を手で押さえた。憔悴しきっているというのに、姉の表情はくるくると変化した。姉は静かに腕時計の箱ごと私の手を握った。
「大事になさいね。これは総一郎さんのお祖父様の形見なんだから」
「お祖父さんの、ですか」
 腕時計に視線を落とした。これが祖父の形見というのか。
 祖父は私が三歳の時に他界したと聞いている。それ以外、私が知っていることはない。祖母はそれ以前に亡くなっていたし、父も母も祖父のことには全く触れなかった。私は祖父について何も知らない。知るには幼すぎたのだろう。
腕時計は時を止めたまま、桐の箱の中に納まっている。昔のものにしては、なかなかいいものだ。私は風呂敷にこの箱を納めた。

 後日時計屋に持っていくと、この時計は「ローレル」という国産初の腕時計ということが分かった。まだ使えるとのことだったのでそのまま直してもらうことにした。
 父の遺品の中からこんな値打ちのあるものが出てくるとは。私はローレルを見る度、何とも表現できない喜びと気分の高揚を覚え、風呂と就寝の時以外は常に身につけるようにした。
今から思えばそれが一種の自己顕示だったのかもしれない。職場ではすでに出世コースから外れ、定年を静かに迎えるのを待つだけ。家庭では、小言の多い妻から疎まれる毎日。大学に通っている娘からは音沙汰なし。私はプライドを失くすところを、この腕時計の存在に救われていたのだ。

私は今日もローレルを身に付け、転寝をしていた。休日の西日は心地よく、すぐに私を眠りにつかせた。その時だった。
「地震だ!」
 私は大きな揺れを感じ、飛び起きた。部屋のドアを開け、逃げる準備をする私を見て、掃除をしていた妻は唖然とした。
「あなた、寝ぼけてるの? 地震なんて起きてないわよ」
 いつもと変わりのない風景。一寸たりとも動いていない、社内ゴルフトーナメントでもらったトロフィー。娘の小学校時代の絵画コンテストの賞状も全く傾いていない。
 夢か。溜息をつくと、明日の仕事に必要な書類をまとめることにした。
 しかしこの夢はただの夢ではなかった。

 決まって休日の昼、転寝をすると夢をみる。毎回同じ内容だ。夢の中での私は五歳で、必ず大きな地震が起きる。それが恐くて、従姉妹に抱きつく。大体そこで目覚めるのだが、段々と覚醒する時間が遅くなり、地震が起きた後の光景も視界に強く残るようになった。
 地震が起きた後、瓦礫の中から両親の死体が見つかり、嘆き悲しむ。従姉妹とその両親に助けられ、一緒に生活を営むうち、従姉妹に対して熱い感情を抱くようになる……。
 その感情がわからない。わからない故に、知りたい。
 不思議なことに、夜眠りについてもこの夢の続編はわからないのだ。休日の、何気ない転寝でしかこの先はわからない。
 私は夢の内容を事細かに書き留めるようになった。私のみる夢はただの夢ではない。壮絶な、体験した物語がそこにあった。大きな鉄板の下から出てくる死体の、生々しい腐臭。雨水でさえ躊躇せず口にするほどの乾き。空腹を紛らわせるために、口にしてしまう石の硬さ。あまりにも現実的だった。
 そして、目を背けたくなる世界から助けの手を差し出してくれる尊い従姉妹の存在。彼女は自分の食料、水を分け与え、地震で眠れない私に子守唄を歌ってくれた。母のような温かさを持ち、愛を分け与える天使のような女。幼い私は、この従姉妹に対して親類以上の感情を抱いていたのだ。
 
 仕事中、ふと夢の出来事を思いかえした。夢の中の「私」は、現実の「私」では決してない。私は、夢の中の「私」に心を重ねているだけで、従姉妹に恋をしている当人ではない。
あの強烈な感情を、妻に対してでも持ったことがあるだろうか。生きるか死ぬかという場面で、それでも人を愛することができるだろうか。
ローレルが六時をさした。静かに定年を待つ身である私は、特段溜まっている仕事もないので職場を後にした。
 
 帰宅すると、妻が待っていた。
「あなた、これは何?」
 手にしていたのは、克明に夢の出来事を書留めていた手帳だった。妻は怒るでもなく、冷静に私に問いかけた。
「これは、実際にあなたが体験したことなんですか」
「いや、違う」
 否定して、俯いた。ローレルの秒針が、シン、シン、と動くのを腕に感じた。
 しばらくお互い無言でいた。私は説明のしようがなかった。夢で起きた出来事を書きのこしているなんて、妻に理解してもらえるのだろうか。手帳には、明確に従姉妹への恋愛感情が記されている。しかし、この感情は私のものではない。夢の中での「私」の感情なのだ。
「すごく面白いわ」
 妻の一言に驚かされた。このメモが面白い? 私は夢の中で実際に体験したことをただ書きとめただけである。だが、妻はこの走り書きが、空想の中で作り上げた小説の筋書きだと考えたらしい。
 私は自分で書いたメモに、ざっと目を通した。確かにこれが小説だとしたら……。筋は通っている。
「あなた、これをまとめて出版社に投稿してみない?」
 もう定年を待つだけなんだし、もしかしたら将来の収入になるかもしれないわよ。妻はそう思ったのだろう。私しかみたことがない、感じたことがない、現実的な夢。これをうまく文章にまとめることができるだろうか。でも、もしできたら。こんな手帳に残しているだけじゃもったいない。私が感じた……夢の「私」が感じた出来事。もっと人に知ってもらいたい。同じように感じてもらいたい。
今までの生活で失っていた何かが、強く心の中で自己主張を始めた。
 
 仕事が終わり、帰宅すると夕飯を軽く済ませて執筆活動。休日は夢をみるために転寝。そんな日々が続き、私は小説らしきものを完成させた。妻との話し合いで、ある出版社の主催する小説大賞に応募することも決まった。
 ささやかながら完成記念のお祝いで、近所のフレンチレストランで妻とディナーをとることになった。まさかこんな日が来るなんて、想像がつかなかった。娘が大学へ進学し、一人暮らしを始めてからすっかり冷え切っていた夫婦だったというのに。離婚は念頭になかったとはいえ、妻との距離を感じていたというのに。
 この日、私は饒舌だった。いつもなら語らない職場のことも妻に話した。妻は嬉しそうに相槌を打っていた。デザートが運ばれてきたとき、今まで幸せそうだった妻の笑顔が消えた。
「あなた」
 デザートプレートをどう食べるか考えていた私は、皿から目をそらさずに生返事をした。
「美久のことで話があるの」
 突然出た娘の名前に少し驚き、妻の顔を見つめた。
「あいつがどうかしたのか」
 妻はかなりの間、目線を左右に動かしていた。言うべきか、黙っているべきか迷っていたのだろう。ローレルがシン、シン、と時を刻む。
 無音になった。時計の振動も感じない。妻が何か言った。私には衝撃しか感じられなかった。

 数ヶ月後、娘の美久が帰ってきた。その右手には、小さい手が握られていた。
 孫の愁はもう三歳になったらしい。三年間も私に何も言わずに、この子供を育ててきたというのか。愕然とした。応募した小説が入選したことすらどうでもよいことに感じた。
 一日休みをとって、三人で話をした。愁の父親、美久の相手は同じ大学の生徒で、同棲していたときに愁ができたらしい。相手の写真を見た。目元と口が愁に似ている。
 怒ることすらできず、私は縁側に出た。庭先の梅がつぼみをつけている。
 ――もうそんな季節か。
「お父さん」
 美久が愁の手を引いて、縁側へ出てきた。二人を見ることができなかった。
「私、大学を辞めて働くから」
「愁はどうするんだ。母さんもパートで昼はいないんだぞ」
 美久は黙った。
 美久。大切に育ててきた一人きりの娘。それが何故こんなことに。一人暮らしを許可したことが悪かったのだろうか。生まれてきた子供に罪はない。頭ではわかっていることなのに、現実として受け入れられない。
 電話が鳴った。私は逃げるようにその場を離れた。

「小説を書きませんか」――そんな話だったとしか記憶にない。美久と愁のことがあり、それどころではなかったのだが、そんなときだったからこそ妻は乗り気だった。
「お父さんが仕事を辞めて、家で小説を書けば愁の世話もできるし。それに早期退職制度があるから、その分退職金も多くもらえるでしょ」
 そんなにうまくいく訳がないと思った。しかし、小説が入賞したことで私が職場に居辛
くなったことも事実であった。
 出世コースから外れた人間は暇である。私もその一人であるが、大体の人間が肩書きだ
けの役職につき、適当に仕事を見繕って一日を過ごす。資格の勉強に時間を費やす者や、
雑誌を読んでいるだけの人間もいる。やることがないから、休憩中には人の悪口を言って
楽しむ。そんな人間にとって、私の小説が入賞したという話は格好のネタになるのだ。
「仕事をさぼって小説なんぞ書きおって」
「あんな薄っぺらい小説が入賞するくらいなら、自分は大賞受賞だな」
「人間としてどうかしているやつが、たかが小説でいい気になって」
 取引先に行くことがないと、一日中こんな悪口に晒されなくてはならない。私はただの
一般市民なのだ。多少の悪口はともかく、毎日僻み、妬みの標的にされては神経が持たな
い。
 私はとうとう音をあげて、辞表を提出した。

 退職してから、毎日パソコンにむかう日々が続いた。むかっても、ネタはでない。次の
小説が書けない。転寝してみても、何も夢みない。腕のローレルがあざ笑うように針を進
めるだけだ。
振り返ると、美久が愁と遊んでいた。お気に入りの人形で遊ぶ愁を見て、私は心の奥底
に黒い感情がわきあがるのを感じた。無意識に、愁の手にあった人形を取り上げていた。
「……お父さん?」
 美久は、今まで私に見せたことのない、驚きと恐怖と怒りの混ざった視線を向けた。愁は母の殺気と私の行動に恐さを感じたのか、泣き叫んだ。
 右手にある人形を見た――私は何をしたのだ。
 自分でも理解できず、その手の中の物を落とした。人形を拾うと、再び美久は愁をあやした。何もなかったかのように。
「ねぇ、お父さん。私、幸せだったんだよ」
 その場に立ち尽くす私に、美久は語り始めた。
「三年も愁のこと黙ってたの、怒ってるんでしょ」
 無言で愁を見つめた。
これが私の孫。未だに信じられない。あの小さかった美久が、可愛かった美久が、私の後をついてきた美久が、こんな子供の親になったなんて。受け入れられるわけがない。相手の男は写真でしか見たことがない。愁が生まれるときにだって、挨拶すら来なかった。男の親もそうだ。どいつもこいつも美久をひどく扱って!
 美久を怒っているのではない。私は、娘の周りに居た人間全てを憎んでいるのだ。
「愁が生まれたときはね、あの人も私のこと大切にしてくれたんだよ。バイト代全部使って出産費用を出してくれたし。愁の世話も一生懸命だった。大学卒業したら、結婚しようって言ってくれたんだよ。でも、彼の親御さんが……」
「そうか」
 娘への罵倒の言葉をぐっと堪え、一言だけ返した。そんな自分がひどく醜く感じた。た
った一人の娘、たった一人の孫を目の前に、かける言葉はそれだけなのか。私の度量はそ
の程度なのか。
 再び二人に背を向け、パソコンの画面を見つめた。文字のない、真っ白なページ。今の
私の心境なのだろうか。
「私、仕事決まったから。来週から愁を」
「わかってる」
 娘の顔を見て返事はできなかった。私の気持ちを察知したのか、母親の本能なのか。娘は事務的な口調でつけ加えた。
「お母さんもいないし、伯母さんがたまに来てくれることになったから」
 お父さんは安心してね。それとも……。

 愁と二人きりになった。美久は仕事に出ている。妻もパートだ。私だけが仕事をせずに
孫と一緒にいる。相変わらずパソコンの前にはいるが、何も書いていない。空虚だ。私も、
小説も、何もかも。
 ローレルを見た。午後一時。いつもならこの時間、美久は愁と散歩に行っている。私は
腰をあげた。散歩をすれば、何か案も浮かぶかもしれない。公園で遊ぶ道具を持って、私
は家の鍵を掛けた。左手に小さな紅葉のような手を握り締めて。
 公園に連れて行くと、愁は意外とうまく友達を作っていた。近くのベンチにはその母親
と見られる若い女性がいた。私も近くのベンチに腰かけ、その様子をうかがっていた。
 しばらく砂場で遊んでいると、愁が友達に砂をかけた。その子は風船が割れたように大
泣きし、ベンチに座っていた女性が飛んできた。どうしたものかとしばらくその様子を見
ていたのだが、女性が鬼の形相で愁を叱っていたものだから、頭を何度か下げ、家路へ急
いだ。
愁は砂だらけだった。服についた砂を落とし、流しで手を洗わせた。風呂は沸いてない
が、シャワーで流すことはできる。私は風呂場へ愁を連れていった。
 服を洗濯機に投げ込み、私はズボンを捲り上げて愁と一緒に風呂場に入った。シャワーの温度を確かめながら、体に水をかけていく。怒っていた訳ではないが、無言だった。子供同士が喧嘩するなんて、当たり前のことだ。いちいち怒っていられない。
 黙ったままシャワーをかけていると、愁が私を見た。

「……おじいちゃん?」

 その一言に、体が凍りついた。何気ない一言が、黒い感情を一気に放出させた。水が入った浴槽の蓋を力任せに開け、愁の頭を押し込んだ。
 ブクブクと水面が泡立つ。手足をじたばたさせている。何か叫んでいる。何も聞こえない。
「お前なんて……お前なんて……!」
 自分の言葉にはっとした。
私は愁を浴槽から引きずり出すと、何事もなかったかのようにタオルで全身を拭き、新しい服に着替えさせた。その間、愁の顔を見ることはできなかった。

「あら、お寿司を取ったの?」
 帰宅した妻が、テーブルの上の寿司桶を見て嬉しそうな声を上げた。私は無言で愁の好きな海老を皿にいくつものせていた。その様子をじっと黒い目が見つめていた。
 寿司を取ったのは罪悪感からだった。子供が好きな食べ物なんて、わからない。以前、美久が「愁は海老が好きなの」と言っていたことを咄嗟に思い出したのだ。
黙々と寿司を平らげる愁の様子は、安堵よりも一層の不安を感じさせた。

 数日似たような日々が続いた。さすが母親、とも言うべきなのか。連続で寿司を取る様子に美久は異変を感じたらしく、今日から姉も来ることになった。
「すいません、姉さん。お忙しいでしょ」
「全然。頼子ももう二十歳だし、哲夫さんもいないし。家に居たって暇なだけよ」
 姉はからからと笑った。その様子は五十五歳という年齢を感じさせない。いつまでたっても若い少女のままの姉が私の目の前にいた。
 愁は最初こそ姉に警戒していたが、この数時間ですっかり懐いてしまった。鬼のような私に比べれば、彼女の方がいいに決まっている。
 菓子皿に姉が買ってきたポテトチップスを開け、お茶とともに出した。愁には牛乳だ。姉は愁を抱っこしながら、それに手を伸ばした。愁も大人しく一緒にそれを食べている。
 複雑な気持ちだった。この間のような黒く醜い感情こそは出なかったが、胸の奥に霧がかかっている気分だ。孫を取られていると感じているのだろうか。いや、そんなことがありうる訳がない。孫にあんな仕打ちをしておいて、それでも手元に置きたいなんて、常人が持つ感情ではない。
「そういえば、読んだわよ。総一郎さんの小説」
 特に返事はしなかった。小説の感想を聞く気力もなかったというのもあるが、そもそもあの話は私の夢の中で起こった出来事だ。私が想像し、作り上げた物語ではない。ただ夢をメモしていてまとめたものがタイミング良く入賞してしまっただけである。運が良かった、それだけである。
 姉は構わず続けた。
「あのお話……まるでお祖父様の人生みたいね」
「え」
 時間が止まったように感じたが、ローレルは正確に動いていた。

 私は祖父のことを知らない。祖父が亡くなった時、私は三歳。ちょうど愁と同じ歳だった。姉の敏子は私と五つ違うため、私より祖父のことを明確に覚えているのだろう。祖父は大正生まれの軍人だったため、かなり厳しい人間だったようだ。姉が未だに「お祖父様」と呼んでいるのがその証拠である。
「お祖父様は色々と私にお話してくださったのだけど、総一郎さんの小説と重なるところが多くて驚いたわ」
 私が題材として書いた「大地震」だが、祖父もそれを体験していた。関東大震災。大正
七年生まれの祖父は、私の小説の主人公と同じ、五歳だった。そこで両親、つまり私の曾
祖父母を亡くし、伯父の家で暮らしたらしい。
「姉さん、まさか」
「そう、お祖母様も住んでいたの」
 愁は姉の胸の中で、大人しく絵本を読んでいた。
 信じられなかった。知らなかったとはいえ、こんな偶然がありえるのだろうか。私は無
意識のうちに、祖父の体験を夢の中で感じていたのか。今になって急に祖父の存在が恐ろ
しくなった。
 頭の中の血液が引いていく気がした。鏡は見ていないが、きっと私の顔は真っ白になっ
ていただろう。姉は心配そうに見つめていたが、何もなかったように繕った。
「もしかしたら、私が小さい頃にも同じ話を聞いていたのかもしれない。それを忘れていて、急に思い出したのかもしれない」
 姉はそれを苦しそうな笑顔で否定し、首を振った。
「それはないわ。だって総一郎さん……」
 先の言葉は無かった。愁が牛乳をこぼし、姉は雑巾を取りに行った。
 姉は父の遺品整理のときに出てきたという小説を一冊置いて帰った。入れ違いに妻も帰
宅したので私はそれを読むことにした。出版年は一九六三年となっている。祖父が亡くな
る一年前だ。タイトルは『姉』。作者は祖父だった。 
 
 腕時計のわずかな針の音も響く夜、一人祖父の小説を読みふけった。
主人公の父は若くして祝言を上げ、妻を娶り、娘を一人授かる。その妻は美しく、優し
く、誰からも好かれる清らかな人間だった。しかし、若くして流行り病で亡くなってしまう。そこで父親は新しく女を妻に迎えるが、その女は前妻と全く違い、派手で家のことを省みない人間だった。ほどなくしてその女との間にも息子を授かるが、女は息子を置いて出て行ってしまう。
残ったのは父と母親の居ない姉、弟。五歳の歳の差がある姉は、かいがいしく弟の世話
を焼く。弟は姉に母親像を重ねていたが、思春期になると母親への愛情以上の気持ちが湧き上がってくる――。
 そこまで読んで、私は本を閉じた。
「そんな訳が、あるはずない」
 悪夢だと言ってくれ。心の中でそう叫んだ。

 翌日早朝、姉に電話した。異母姉弟であったことは知っていた。それでも確認したかった。私の母は、家庭を省みないひどい女だったのか? 本当に息子を置いて逃げたのか? それと――『私はあなたを好きだったのか?』 
 姉はこうなることを予知していたかのように、すぐ電話に出た。お互い無言だった。何から話せばいいのかわからない。しかし、黙っていては始まらない。意を決して、私は姉に質問した。
「私の母のことですが」
 姉はひとつ溜息をついて、話し始めた。
「安心なさい。あのお話はフィクション。確かに私の母は早世したけれど、あなたのお母さんはとてもいい人だった。あれはお祖父様の妄想でしかないわ」
「妄想、ですか」
 姉の冷たい一言に、背筋が凍った。
「お祖父様は私と、私の母には優しかった。けれど、あなたのお母さんには冷たく当たっていたのよ」
 姉の連ねる音の羅列は、私の心臓を貫くようなものだった。優しい姉。祖父を「お祖父
様」と呼び敬意を表していた姉の本当の気持ち。体全体が姉を拒否した。私は何も言わず
に電話を切った。

 しばらく姉はうちに来なかった。その間、私は愁と二人きりになるのを余儀なくされた。    
愁に対しての虐待も、自分で抑制できずに続いていた。そのきっかけはいつも些細なことだった。
ふと我にかえったとき、愁の顔を見た。私のパソコンと同じだった。空虚。恐怖すら感じないようだった。真っ白な顔で、黒い目だけがぎょろぎょろと動く。まるで私を責めるように。その恐怖から逃れるために、夜はいつも愁の好きなものを食べさせた。

 そんな日が数日続いた。愁には悪いことをしているという強い罪悪感を持つ反面、同じくらいこの少年に恐怖を抱いていた。いっそのこと母親である美久に言ってくれ。このおじいちゃんは僕にひどいことをしている、と。それで愁を傷つけることが止められるならば。
私は愁から逃げることができない。黒く私の行動を全て見透かす大きな目。同じ空間から出ようとしても、その目が私を縛り付ける。
見えない鎖が今日も首根っこを引っ張り、散歩へ連れ出す。愁はいつものように砂場で遊ぶ。この間とは違う友達ができたようだ。
私はその様子をベンチで凝視していた。目を離すとあの目玉が襲ってくるのではないかと震えていた。
気を紛らわせようと腕時計の振動を感じようとすると、何かがおかしい。秒針の振動がいつもより速い。それにつられて長針も短針も動いているようだ。シン、シン、シン、シン――周りの景色も狂いだしている。愁がいる砂場から子供達が消え、公園は更地に、更地から畑へ変化した。
畑は一瞬にして真っ白な空間になった。何もない空間に私一人になった。私はローレル
を見た。針はともに十二の位置で止まっている。これは幻覚なのだろうか。白昼夢を見るとは、疲れが溜まっているのだろうか。目を擦ろうとした瞬間、頭の中を揺さぶる大きな声が響いた。

「おじいちゃん、帰ろう」

 目の前にいるのは愁のはずである。それなのに、愁の顔が自分の幼い頃の顔と重なって見えた。

 帰り道は愁と手を繋いだ。二人の影が合わさって、私をあざ笑っているように感じる。道路のマンホールは苦痛にゆがんでいる。電車が線路を走る音が、私の内臓を引きずっている。全てのものが、私の存在を否定しているかのように思えた。いや、そう思うのが遅すぎた。私は存在してはいけない人間だったのだ。

 そのことに気づくと、驚くほど心が軽くなった。この日は珍しくキッチンに立ち、オムライスとハンバーグを作った。愁には少し我慢するよう言い聞かせ、妻と美久が帰ってから皆で食べた。きれいに洗い物を済ませ、一人でゆっくりと風呂に浸かった。散らかっていた書類をまとめ、服を丁寧に畳んだ。
 午後十時過ぎ。妻と美久はニュースを見ていて、愁はダイニングで眠っていた。静かに抱き上げて布団に寝かせてやると、自分は一番気に入っている酒を注いで家族三人和やかに会話した。
「私寝るね、朝早いし」
「私も。今日は腰が痛いわ」
 妻と美久が席を立った。
「美香、美久、おやすみ」
 私は二人を見送ると、テレビを消した。


 妻が寝ている隣の部屋に布団を敷くと、鏡を覗いた。最期に自分の顔を確認したかったのだ。鏡で見た自分の顔には、生気の全く無い目が付いていた。


 穏やかな日曜日だった。ある娘は泣き叫び、棺桶にすがり付いていた。女は少年の手を引いていた。もう一人の女は何かを知っているような、不思議な確信を抱いていた。
 葬式が終わると、美香は敏子と遺品の整理を始めた。何かしていないと平常心が保てなかったのだ。
「何があったって言うのよ。なんで自殺なんか……」
 涙がこぼれるのも気にせず、書斎の引き出しを整理していると黒い手帳が一冊出てきた。
中を見ると、小説のモチーフとなった夢の断片が細かにメモされていた。二人で一ページずつ捲り、最後のページになった。そのページは白紙だった。
「遺書すらないのかしら」
 美香から手帳を受け取り、皮のカバーを何気なく取ると、真っ赤なマジックで乱暴に文字が書かれていた。

「生まれてきて ごめんなさい
  生きていて ごめんなさい

     ―死んでしまって ごめんなさい」

 敏子はその場にへたりこんだ。美香もその文字を見ると真っ青になった。
「これは、あの人の遺書? こんなに追いつめられていたなんて」
 しばらく無言だった敏子の歯が、次第にガチガチと音を立て始めた。
「敏子さん」
「この遺書は、総一郎さんのお祖父様と、全く同じ……」

 位牌の横にあるローレルは時を刻み続ける。
 初夏の風が吹き、白い雲がゆっくりと流れた。

                                 【了】
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