6、君に贈る歌【千歳】

文字数 2,250文字

「須磨には、いと心づくしの秋風に、海は少し遠けれど、行平の中納言の、『関吹き越ゆる』と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは」
 源氏物語「須磨」。朧月夜尚侍との密通が露見した光源氏が渡った土地――それが須磨。
 古びた紙の甘い匂い。居心地のよい図書室の片隅で、私は現代語訳の本を手に、優理に古典を教えている。
「じゃあ優理、ここの和歌を訳してみて」
 私が指さして言ったとたん、優理は泣きそうになった。
「ここって、どこのが和歌?」
「恋ひわびて なく音にまがふ 浦波は 思う方より 風や吹くらむ」
 優理は、未知の言葉をしゃべる宇宙人を相手にしているような顔で私を見ている。
「ええっと、恋をおわびして? 泣いている声にまぎれる浦の波は……」
「ちょっとストップしようか」
 誤訳のお手本みたいな訳をしてくれるわ。
「恋ひわぶ、っていうのはおわびすることじゃないの。辞書ひいてみて。恋わずらうとか、恋悩むとか、そういうふうに書いてあるから」
「こひわぶ、こひわぶ……あ、ほんとだ」
「ね? そして恋ひわびて泣く、だから『恋しさに耐えかねて泣く』。まがふはまぎれるじゃなくて、よく似ているとか、そう聞こえるという意味。『あなたへの恋しさに耐えかねて泣く私の声によく似た音を立てる浦の波は、恋しい人がいる都のほうから吹く風が立てているのだろうか』――わかった?」
「うーんと……なんとか、ね?」
 ね? ってどうして疑問形なの。次の授業で当たるとこでしょ、優理。
「でも千歳ちゃんって、すごいよね。あたしにしたら日本語じゃないよ」
 髪の毛の先を左手でいじりながらでも、優理が本文を写していくのを確認して、私は手もとの本に視線を落とした。
 ――恋ひわびて泣く、か。
 まるで、私の想いそのままの歌だ。
 ただちがうのは、光源氏の恋しい人は生きているということ。私は幾世兄とは、もう決して会えないということ。
 ――幾世兄に会いたくて、どれくらい恋ひわびて泣いたことだろう? 
「おれはここにいるから。今もこれからも、ずっとちとせのそばにいる」
 万世は、そう言ってくれた。
 それなのに、私はまだ幾世兄を追いつづけている。思い出すたびに涙が浮かんでくるくらい、幾世兄が好きでしょうがないみたい。
「千歳ちゃん、本文写し終わったよ」
「じゃ、ためしに最初の一文を品詞分解してみて」
 優理には気づかれないように目じりをぬぐってから、彼女のノートをのぞきこんだ。
 残りの現代語訳もあと数行というところまで来たとき、
「優理、終わった?」
「あ、悠一!」
 優理がうれしそうに微笑んで。相手もつられるように微笑んだ。
 私たちのクラスメイト滝村悠二の双子の兄であり、優理の彼氏――滝村悠一。
「悠一、サッカー部は?」
「早めに終わった。おまえこそ帰れるか?」
「えーっと……千歳ちゃん?」
 困ったような目で、優理が訴える。
「いいよ、帰って。続きは明日ね」
「ありがとう!」
「沖沢サンキュ!」
 二人が図書室の扉の向こうに消えて、ほうっと深く息をついたとき。私ははじめて、今ここに残っている人間が、私だけなのだということに気がついた。
 カウンターの向こうには司書さんがいるはずだけど、フロアに人の気配はない。窓ガラスから見える空は、日が長いはずの六月の今でもオレンジに染まりかけていた。
 夕焼けは、心がざわついてさびしくなる。そして、恋しくなる。
 空に近づきたくって、席を立って奥の書架の裏側にまわり、そっと窓を開けた。
 初夏の匂いがする。風ははじめやさしく、突然いきおいを増し枝々を激しく鳴らして、そしてまたゆったりと梢をゆらす。
 魔法の刷毛でなでたように、水色からみずみずしいオレンジに空が染まっている。風が雲を気まぐれに動かして、太陽の光がきらきら変わる。
 ――あの空のどこかに天国というものがあるのなら、幾世兄もそこにいるのかな。
 風が強く吹いて、雲のカーテンを吹き散らして、ちらりとでも天国にいる幾世兄が見えたらいいのに。
 ――そんなこと、起こるわけないことくらいわかってる。
 窓を閉め、長机のところへともどった。机に出していた本を片づけて……さあ、帰ろう。
 筆記用具を鞄に入れていて、はたと手を止めた。目の前には、灰色のしみのついたルーズリーフ。指でふれたら、そのすぐ近くにまたしても染みができた。涙だ。
 ――ああ……いつのまにか、本当に泣いてたんだ。
 ボールペンを手に、涙のしみだらけのルーズリーフに、たった一行だけ書き記す。
「恋ひわびて なく音にまがふ 風の音に のせて幾世の 思ひ伝はむ」
 ――ヘタな恋歌。
 いいんだ、和歌のよしあしで人生が決まる平安貴族じゃないんだから。
 細長く折りたたんだルーズリーフを持って、私はまた窓を開けにいった。空は紅みを増していて、一段ときれいで。そのまま空に吸いこまれてしまいそうな気がした。
 ――吸いこまれても、いいかな。幾世兄と会えそうだし。
 手近なしだれ桜の枝を手にとり、和歌を書きつけたルーズリーフを結んだ。
「恋ひわびて なく音にまがふ 風の音に のせて幾世の 思ひ伝はむ」
 あなたへの恋しさに耐えかねて泣く私の声によく似た風の音に乗せて、長い時間想いつづけている私の気持ちは伝わるでしょうか。
 ――伝わるといい、届いてくれるといい。
 空へ逝ってしまった、幾世兄へ。
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登場人物紹介

沖沢 千歳(おきさわ ちとせ)

高校2年。成績優秀。面倒見は良いが冷めている。大事なものが欠け落ちてしまってから世界の色彩が失われたと感じている。友人がいないわけではないが人とは距離を置き、女子高生らしいはなやかさとは無縁の日々。初恋を大切に抱え、想い続けている。

瀬野 譲(せの ゆずる)

高校2年。千歳に次いで学年2位の成績。顔が良い。儚げ系美少年と校内で有名人。微笑めば歓声が上がり、声を掛けられた女子からは悲鳴が上がる。しかし、千歳には好意を表し続けているが、のれんに腕押しで相手にされない。暗い過去を抱え続けている。

沖沢 万世(おきさわ かずせ)

中学2年。千歳の弟。千歳至上主義。さらさらの長い髪のために街中で女子に間違えられることもしばしば。大変なシスコンと悪友の栄介は評しているが、万世自身は千歳を姉だと思ったことは一度もなく、純粋に恋心を抱き続けている。

鷺野 鈴(さぎの すず)

万世と栄介が出会った、どこぞの学校の美術部員。大変なエリート校らしいが、本人はふわふわとしてとらえどころのない、幼くさえ見える少女。

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