第1話
文字数 10,685文字
私は遺書を持ち歩いている。
あれは落葉に寿命が与えられたある夕刻のこと、私は自分を抱きしめるように縮こまり閑静な住宅街の境界線を歩いていた。
視界に転がり込む落葉がアスファルトに削られて消えていく。モノクロームの世界に色が芽生えたのは、その足元から無機質が薄れていく山道に入った頃だった。
ぽつりぽつりと茶褐色の濁点が視界に入り込み、それが靴底の感覚を侵食していく。足音がザラつき、ずいぶんと引き摺るような歩き方だったと気づく。
そんなこと、もうどうでもいいんだけどな。
音にならない言葉で空気を濁して、そうして私は歩き続けた。
勾配を膝に感じた頃、アルファルトはすでに過去の感覚で視界のほぼすべてをすり減らした茶褐色が覆っていた。少し腰が痛くなって伸ばそうとしたそのとき、何かが視界を過ぎった。私はさほど驚きもせずにそれをじっと眺めていた。
ほんの数メートル先に転がっていたそれは、無意味に屈曲したまま仰向けになっている。薄着のセーターはところどころ解れていて、中にはベージュの制服らしきものが見えた。それの視線は草むらに注がれているようだ。左足は九十度に曲がり、両手はだらしなく要領を得ない。
よく見ると、皺だらけの封筒がズボンのポケットに捻じ込むように入っていた。
私はどうしてそれに近づこうとしたのかを未だに憶えていない。
だが視界を揺らすこともなく静かに、私はそれの傍にひざまづいていた。そして、次の瞬間には封筒をポケットから捻り取るように掌に収めていた。
それは数カ所折れ曲がってはいたが全体的に真新しい匂いがした。封はしておらず、陽に透かして見ると、便箋が一枚入っているようだった。
私はおもむろに便箋に指を伸ばす。
そのとき何かが静寂を裂いた。
草葉が鳴り、砂利を擦ったような音が聴こえる。
虫か動物だったかも知れない。だが妙に聴き覚えのある音、それは数分前に自分の足先が聴いていた音に似ていた。
私は慌てて封筒をコートの内側に滑らせて、なるべく音を立てないようにその場から動いた。その拍子に足がそれの右肘に絡まり少しだけ首が動いた。視界にこびりつくそれの首元は綺麗な薄い桃色をしていた。そして口元に何かがこびりついているように見えた。
気がつくと視界からそれが消えていた。いつの間にか、音も気にせずに走ったようだ。いつになく荒れた呼吸音が動悸に隠れて身体が悲鳴を上げている。勾配に痛めつけられた筋肉が軋み、だがそれでいて妙な高揚感に包まれていた。
数分ほど経っただろうか。つんざくような軽い悲鳴が聞こえた。
音は本当だった。
そして草陰がゆれるような無数の足音が砂を擦っていた。ざわめきが途絶えた頃、遠くのサイレンが近づいてくるのがわかった。いくつのもドップラーが反響しあって、静寂だったはずの森に赤が混じり込んでくる。
とても不快だ。だが、それも仕方ない。
私は高揚感を捨てきれなくてその場を後にすることにした。
山道は森を割くように続き、勾配がなだらかになった頃、遠退くサイレンが聞こえた。振り返ることもなく私は歩き続け、そして再び静寂を取り戻す。疲れ果てた私はその場に崩れ落ち、構うことなく地上に根を放り出す大木に背中を委ねた。手足を脱力させて、枯れ葉の隙間から空を見上げた。
灰色が眩しく思え、枝葉は色を失っている。私は鼓動を整えながら、小刻みにゆれる視界を制御する。そして大きめに息を吸ってみた。冷気が喉元を軽やかに過ぎて、火照った肺を慰めていく。それを数回繰り返した頃、色を失っていた枝葉の表情が見えてきた。
脱力した体はコートの胸元に風を染み込ませて、私に持ち去ったそれを思い出させる。そしてふと怖くなる。これは紛れもなく、彼を導くはずのものだったからである。
今頃どうしてるだろうか。彼を認識する人は現れたのだろうか。
そして彼の最期はこの手の中に残ったままだ。
私は高揚感の正体を探るために封筒に指を滑り込ませる。薄い便箋が折り畳まれている。指先で探ってスッと挟み込んで滑らせるように出した。そして、悴んだ手に意識を与えながら便箋を開いた。
たった一枚の、でもどこか高級な手ざわりの便箋。
そこにたった数行の彼の最期が書かれていた。
日付はないが署名はあった。
名前の最期が丁寧に撥ねられている。
彼の意思が少しだけ伝わるような気がした。
私はそれを丁寧に畳んで封筒に直した。そしてコートの胸ポケットに入れて、服の上からそれを撫でた。彼が私の中にいる。でも、これは手放さなければならない暖かさだった。
私は来た道を戻ることにした。サイレンが何度か去り、もう静寂に還っていると思ったからだ。そしてどこかの草陰にこれを戻そうと考えた。拾ったと申し出るのは嘘をつくのと同意だ。それに色々と詮索されるのは面倒だ。
だが私の想像を嘲笑うかのように、そこにはまだ静寂がなかった。
しかし歩みを止める訳にもいかない。
同じ制服が涙に暮れ、ところどころで怒号が響く。
同じ会社の従業員だろうか。数十人の制服と、何人かの慌しそうな普段着。そしてサイレンを消したパトカーが数台残っていた。
「そこの人」ふと声を掛けてきたのは制服の若い巡査だった。
「はい?」少しだけ胸元に意識をやって「何かあったんですか?」と尋いてみた。
だが彼は私の問いには答えずに、「いつからここにいたの?」と続けた。
「いつから? さっき来たばかりですよ。向こうから」
そう言って来た道を指差す。
「この前を通らなかった?」
「通りましたよ。ずいぶんと前に」
その言葉に反応した私服が声を掛けて来た。「いつごろでしょう?」
「いつ……」そう訊かれてふとスマホを取り出す。
「十九時三十五分……」間違えてディスプレイの表示を読んでしまい、慌てて「そうですね。昼過ぎだったと思う」と答え直した。
「その時にはここには?」
私服の誘導尋問だと感じた私は、「何かあったんですか?」と訊き返した。
「いや、その、知らない?」
「ええ。何ですかこの人だかりは?」
「そうですか。なら結構です」
「何ですかそれは?」
少しバツの悪そうな私服は一呼吸入れたあとで、「ここに死体がありましてね」と呟いた。
「死体?」思わず口に出してみた。少しだけ視線が注がれるのがわかる。
「それがあったのですか? ここに?」私服は軽く頷いた。
「そうでしたか。それは知らずに。でも、私がここを通ったときにはなかったと思いますよ。あれは確か」そう言ってスマホを操作する。
「ずっとスマホで地図を見ながら歩いていましたから」とアプリの使用時刻を確認して私服に見せた。「七時間前」と地図アプリのアイコンの隣に表示されていた。何の証拠にもならないことを知りながらそれっぽく対応してみせる。どうするだろうか?
だが私の思惑は空回りのまま。
別の私服の「推定は十六時頃」という呟きにこれ以上の介入は許されなかった。
「そうでしたか。失礼いたしました。捜査に戻りますので、これで」
私服は結局名乗ることもないまま一方的に話を打ち切った。そして声を掛けてきた制服がぽつりと囁いた。「すみませんでした。ちょっと難解な感じのようで」
私はそれ以上関わることが危険だと悟り、
「そうでしたか。突然のことで」
と言葉を返してその場を後にした。
人だかりの脇をすり抜けて、断片的な情報だけが耳を劈く。それらを想像で補完しながら、私だけが知る現実との乖離を探る。
どうやら他殺か自殺かを決めかねているように聞こえた。
ふと胸元がむず痒くなる。
私は意識的に足早になって、でも悟られないように表情をつくりながらわだかまりを突破して消えた。
ずいぶんと遠退いただろうか。足先がだんだん冷たくなり影も完全に姿を消した。ふとスマホを見ると「二十時」を少し過ぎていた。かれこれ三十分ほど一目散に逃げてきたわけだ。
コンクリートの壁が風を打ち返すように鳴り、コートの襟袖がなびく。あたりは町外れの工場街と言った感じだろうか。人の気配はせず、日常は闇に消えていた。
アスファルトの表面は砂利に覆われ、タイヤの轍が何重にも刻まれている。申し訳なさそうな植物が枯渇した大地から命を得て、だが健気にそこに居場所をつくっていた。
二階建ての戸建てぐらいの鉄扉が沈黙も守る中、私は重くなった足を運んで小さな公園へと辿り着いた。遊具は錆に塗れ、何の動物かすらわからない。何かの歯に見えるような石に腰を降ろして、ふうっと大きめに息を吐いた。
私が封筒を持ち去ったせいで彼の最期が弄ばれている。
だがここに記された彼の最期はありきたりすぎて逆に工作を疑ってしまう。私も現場を流すように見ただけで何が起こったのかはわからない。ただここにある遺書だけがあの場所に意味を持たせているだけだった。
遺書。
私は彼の最期をそう規定した。そして誰宛なのかもすぐにわかる。その理由さえもシンプルにまとめられて美しい。
この文面から想像される人物像は頭の良い人間だがどこか無機質な感覚も漂っている。
整理された彼の人生は言葉にするとこんなに脆いものなのか。他に何か遺したい言葉はなかったのだろうか。そう思うと少し切なかった。
私は公園の石に尻を冷やしながら、街灯の僅かな光に彼を照らしている。わずか三行に込められたものは無念ではなかった。
言うなればこれは感謝を表している。だが彼はこの世界から飛び出してしまった。包まれるべき優しさが彼にはなかったからだろうか。
それでも彼は生を否定することなく、処遇や状況を嘆いたりしてはいない。何が彼にこの言葉を選ばせたのだろう。
そしてふと、あの制服たちの涙を思い起こした。
彼はたぶんあの職場仲間たちの中でも光を放つ存在で、その喪失を涙に変えてしまうよいな男だったはずだ。放たれた怒号は何もできなかった周囲の怒りで、それは彼ら自身の過去にぶつけられているものだ。そう思うとやるせないが、私には彼らが過ごした時間に思いを馳せることなどできないし想像すらできない。
なぜなら私はずいぶんと仕事と向きあっていない。身体を痛めるよりも心を切り刻んできた私の過去。おそらくは彼らと同質の瞬間は存在しないと言っても差し支えがないだろう。
私の代わりはいなくても、私ができることで誰かにできないこともないはずだ。
擦り減った心に積み重なったのは顔も知らない人々のヘイト。聞きたくもないベルの音。
そうだ、静寂を求めたのは心だった。
めまいがまとわりついて目の前の受話器が歪んで見えた頃、私は自分が何者であるかを見失っていた。社名を出せば羨望を得ようが、やらされていることは装飾に隠された闇を守ることに過ぎない。
トーンを変えた声で自分を殺し続けて、理不尽な戯言を交わす毎日。同じ看板を背負う誰かのミスならまだしも、最近は欲求の吐口どころの騒ぎではない。
自称・正義の人の語り草に相槌を打たないだけで、「SNSに書き込むぞ」などと脅迫紛いの言葉を平気で押し出してくる。
自覚はないのだろうな。その価値観が自分本位で共感されないからこそ、歯向かわない相手を選んでいるだけなんだと。
まあ、あなたの話を流すだけでお金が貰えると考えを変えた頃には、意図した二重人格が心を守ってきたと言えるだろう。
そこからの逃避は案外簡単だった。普段着のまま自宅を出て、いつもの駅で降りないだけで良かった。
都会の喧騒から逃れられるのならば、いっそ電車が最後に止まる駅で降りよう。そう心に決めたのは、ラッシュアワーの中で立っている私を見つめた頑固な高齢の突き刺すような視線だった。
その視線を私は深読みしてしまった。
混雑の中、誰一人彼に視線を合わさない。たいていはスマホか手鏡に溺れ、それは自空間を守る防御のようなもので、余計な関わりを断つことで安定を得ようとする。
世界はそれほどに他人を傷つけることに無頓着で、だからこそ弱者の刃は鋭利になる。
あなたの苦痛は私のせいなのか?
そう思えたとき、たぶん私の貌は彼の希望を打ち砕いたかも知れない。
彼は少し気配を後退りさせて視線を逸らした。そして身体を揺らして私の視界から消えた。
彼をそうさせたのはもう一人の自分なのか?
それは今となってはわからない。
電車は何周か廻ったあと、普段降りない駅に止まった。アナウンスが入り、これから回送になると言う。
その頃には座れるくらいに人が少なくなっていたが、私は乗った位置から一歩も動いてはいなかった。硬直した膝に熱を与えて、私はその駅を降りた。
思ったよりも閑静な街だった。首都圏の心臓部を走っていたはずの環状にこんな場所があるなんて、と思った。
そこから私は駅から真っすぐに伸びた道を歩いた。その先に大きな森が見えたからだ。
緑と少し灰色掛かった空のコントラストが妙に眩しく感じられた。
馴染みのチェーン店が並ぶ駅前を抜けると、自宅周辺では見ないような大きな門戸の家が立ち並び、その少し奥は一気に自然との調和を強いられる環境になっていた。
整備された最新のアスファルトが時代を感じさせる色になって、そして痛んだ路肩が露出する。
そうした先に「彼」はいたのである。
彼の最期をまといながら、私は来た道を戻っている。自然と調和を強いられた公園は朽ち果て、少し先の住宅街とは別世界である。
だがその小さな公園は何となく居心地が良かった。夕刻なのに誰も来ない公園。太陽に見過ごされたまま、だからこそ時の流れに取り残されたままなのかも知れない。
闇が公園を覆い、中央に立つわずか一本の灯りだけが視界をつくっていた。
私の影はもう溶けてわからない。
もう一桁の温度になっただろうか。急に足元に冷気が刺してきて、私は両足を抱えて縮こまる。
コートを膝下まで伸ばして暖を取ろうとすると、胸元が少し開いて封筒が顔を出した。
私は凍えながらそれを取り出して、再び彼の最期を熟読する。そこに描かれた微かな文字情報だけの世界。だがそれは私の人生にはない世界だ。
家族がいる。妻と息子だろうか。あの制服は同僚か、はたまた部下なのかはわからない。彼の見た目から察するに、と思ったところで、あの時にこびりついた首元が蘇る。
私は記憶を観察し、細部を補完する。
ベージュの制服、太めの首、汚れた口元。
そこから先は事実か空想かはわからない。
あの瞬間に遺書の情報を足すことによって歪められたかも知れない。
体格は自分よりも良かった。制服の背中にシワはなく、ワンサイズ大きめの服でもピンと張り詰めていた。昔、何かのスポーツをしていた体だろう。
顎はやや角ばっていて、健康そうな歯だった。髭はキレイに剃っていたし、ヘアスタイルも短めで整っていたように思う。
だらしなく投げ出された腕や足もキレイに伸びていたし筋肉量も豊富だ。
首元のアザはやはり自殺を図った後なのか、でも紐が絡んではいなかった。
切れてしまったのだろうか?
でもその時の周囲の状況は覚えていない。でも彼の体格なら細いロープでは無理だろうし、そうなると枝が折れるはずだ。
少しづつ補完される現実はかつて見聞きしたTVショーなどの架空に侵されていると思った。
たぶんこの辺のどこかの工場か何かで働いているのだろう。悲鳴と足音の時間差はさほどなく、だが発見されるまではかなり時間が掛かったはずだ。
でもおそらくは今日の午前中に何か事を起こしたのかも知れない。
遺書の署名はたぶん本人のものだろうし、どうやら家族や同僚あるいは部下に迷惑をかけたようだし、この事によってさらに迷惑が掛かることも感じていたようだ。
だがそこに動機が描かれておらず経緯もわからない。しかし彼を取り巻く誰かが何かに気付いているかも知れない。
そして「その人」は思うかも知れない。どうして「遺書」がないのか、と。
周囲が嗅ぎつけた何かによる衝動的なもの、あるいは計画的なもの。
だがそれはすぐに察知されないものだった。制服を着ているということは仕事中か向かう前かも知れないが、制服であるという意味は大きい。
社会的立場を象徴する服装で行為を選ぶことには意味があるはずで、だとすると動機はやはり仕事内容なのだろうか。
私は冷気を忘れるほどに集中し熟考を重ねた。
幾許かの時が過ぎて邸宅から生気が消えた頃、私は過ぎる想像が自分との比較でしかないことに気づいた。生活が全然違うはずなのに自分を重ねて想像するバカバカしさ。一生答えに近づけないはずなのに夢中になる意味はないはずだった。
だがそこに自分を重ねてしまうのはたぶん違う道があったはずだと思いたかったからなのかも知れない。
そして客観視が自身を大きく覆った頃、急に怖くなってきた。
「遺書」がないことによる現実的な問題。
それは事件性を考慮した捜査の始まりであり、それにより作られた犯人像が一人歩きすることである。
衝動的なのか、計画的なのか。
怨恨なのか、快楽なのか。
警察は様々な憶測で関係者から話を聞き出して「犯人像」をでっち上げるだろう。
見知らぬ街に突然来た私はたぶん目立つし、何者かに目撃されているかも知れない。
答えを欲しがるのは警察だけではないだろうし、願望が悪魔をおびき寄せるかも知れない。
こう言うときに頭が透明になって現実を追い越すのは私の悪い癖だ。だが、時にはその癖が自分を助けることもある。
私は人気のない間にこの街を去ることに決めた。その為には交通機関は避ける方が賢明だろう。
私は闇夜に紛れて、駅に続く一本道をそろりと歩き始めた。
区画整理の進んだ街並みに等間隔の街灯。真新しそうな自転車道が歩道を圧迫している。
街灯の下にだけぼおっと浮かび上がる埃と季節外れに思える揺らめき。くるくると規則性のない揺らめきが時折光源にに当たり羽根を焦がしては離れる。
伸びる影と付かず離れずのまま、私は駅前の大通りにたどり着いてしまった。
時刻にして二十二時を過ぎた頃、静けさとは無縁の音で溢れたまま。線路と並行に走る国道はLEDの乱反射によって光の川に見える。
横断歩道のすぐ向こうのロータリーには数台のタクシーが息を潜めていた。
交通機関を使わないと決めていた私は国道沿いを行くことにした。どちらに行くかを迷うこともなく、手前の車線と同方向に歩いていた。その方が認識されづらいと考えたからではなく、単にLEDの眩さが鬱陶しかっただけだった。
この道はどこへ向かうのだろう。
そう思う間もなく国道は大きな河へと差し掛かる。そこから大きなアーチの陸橋に伸びていくがその先には光はなかった。
私は独立した歩道を行く。鬱陶しさが頭の上に消えていき、同時に喧騒も去っていく。
欄干に沿うような歩道は脆弱な柵を命綱にしている。風は思った以上に強烈で、バタバタと裾を弄んでいる。
やや勾配のある歩道、その頂点は橋の中腹だろうか。どちらも微かに見下ろすような湾曲を感じ、歩道を行く人がずいぶんと小さく見えた。
歩道の中腹はちょうど橋桁が風を遮る場所で、私はそこで立ち止まり河を眺めた。左側にはLEDの直線がずいぶんと遠くまで続きその先に光の束が見えた。
私の視線は惹かれるように眼下の闇に落ちていく。水紋を際立たせる陸橋の光は不規則に姿を変え、ロールシャッハテストを思い起こされる紋様を見せつけていく。何を見ても同じ答えを出していた映画の中の男を思い出した。
何と答えるかよりもその答えに辿り着くまでの仕草を観察しているだろうし、無意識な言葉の羅列に法則性を見出すかも知れない。
正義を問うた映画のように私はセンチメンタルでもないだろう。
風が少しの間姿を消してくれて、私の体温は少しだけ戻ってくる。闇の中で温かみを感じたとき、私は胸元に忍ばせたままの彼を思い出した。
いっそこのまま海に捨てようか。
彼は灰になって空を飛ぶだろうけど、その内にここにも訪れるかも知れない。川底に彼がたどり着いたとき、亡くした自分の欠片だったことを思い出すだろうか。
そんなものに意思など宿りはしないことはわかっているが、人が死んだ後に魂がどこに行くかなんて誰も知らない。
だがこんな妄想を思いつくのは彼の最期を知る私だけだろう。でもよく考えれば、こう言った思考はセンチメンタルと呼べるのかも知れないな。
私は胸元に手を伸ばす。喧騒は蘇り、風も少し出てきた。
襟が少し靡いて頬を打ちつける。
そして遺書に手を掛けたとき、私の身体は宙に投げ出された。
何が起こったのかわからない。ただフワッと足先から地面が消えて、そして立て直す間もないままに私の視界は橋桁を捉えていた。
そして眩い光が徐々に拡がりを見せて、そして耳の穴に突風が差し込む。
頬が冷たい。徐々に感覚を失っていくのがわかる。
そして視界の先には濃いグリーンの凹凸が拡がっていた。
声が聴こえる。頬を打つ音が近づいて、そして視界に黒が忍び寄る。
「自殺?」
ふと若い女の声が聞こえた。否定しようにも言葉が出ない。脳と四肢が分断されて、でも何故か頭だけは冴えていた。
身体全体の感覚はほとんどないが地面に接していない後頭部に鈍い感覚が残っている。風に煽られて橋から転落し、そこを強く打ち付けたのだろうか。
でも頬にも同じ鈍さがあって、うつ伏せになった身体の下半分が同じような鈍い感覚が纏わりついている。
眼前のグリーンは何かの床か?
その先にわずかに見える白い柵、その向こう側の光が上下に揺れている。もしかしたら船のデッキに落ちたのかも知れない。
他愛のない思考遊びを嘯くように、デッキらしき場所にいくつもの光と影が交錯している。
何かを叫んでいるようだ。
その中にひとつが近づいてきて、そして羽ばたくように開いたコートに手をやった。
「遺書?」
どうやら誰かがそれを見つけてしまったようだ。
視界に赤いきらめきが混じってきた。警察だろうか。
「刑事さん、これ」震える声が聞こえた。
刑事はそっと私の傍にしゃがみ込み、コートの内ポケットからそれを抜き取った。ガザガサと喧騒の中にあって確実に耳を劈く音。
もうどう言い逃れもできないだろう。
だが警察が私を調べたら、遺書の持ち主でないことはすぐにわかるだろう。そしてそれが彼のものであることにも辿り着く。
彼の最期の本当にたどり着けないまま、もしかしたら私に刃が向くかも知れない。
だが、今となってはどうでもいいことだった。
薄らと視界が残る中、私は大勢に抱えられて何かに乗せられた。そこから先のことを語ることはできない。
最期に見えたのは、対岸に伸びたLEDの群れ、そして音を立てて回転するサイレンだった。
※※※
「実に奇妙な事件でした」
取り巻きに囲まれた刑事は神妙な顔をして、まだ抜け切らない棘を気にしているみたいだ。
「船に落ちた男の身元は割れました。そして彼が所持していた遺書の持ち主も判明し、ご遺族のところに届けてあります」
「どうして男は他人の遺書を持っていたのでしょう?」
「それについては全くわかっていません。男が首吊りの現場近くにいたことは現場の刑事が覚えていましたが、特に怪しいところはなかったと聞いております」
「首吊りの方は自殺で確定でしょうか?」
「その方向で進めて参ります。遺書が決め手ではありませんが、状況と加味すれば間違いないと思われます」
「その、遺書を持ち歩いていた男も自殺ですか?」
「それはこれから捜査しますが、頬のあたりに大きな打撲痕がありましたので、事件性を考慮して捜査を進めていく予定です」
取り巻きにどよめきが広がって、それらは方々に散っていく。
そして刑事がふうっと大きく息を吐いたとき、彼の携帯の着信音が安堵を止めた。
「どうした?」急に刑事の顔色が変わった。
「そうか、わかった」刑事は困惑を隠せないまま頭を抱え込んだ。
「どうしました?」後輩の刑事が耳打ちをする。
刑事はぶつぶつと独り言を言ったあと、「男の自宅が割れて中に入ったそうだ」と紡いだ。
「何かわかったんですか?」
「とりあえず状況だけ」
「状況?」訝しげに覗き込む後輩。
「彼の机と思われるところに一枚の白紙の便箋が置いてあった」
「それだけですか?」
「それと、その脇に封筒があって、表書きには『遺書』とだけ書かれていたようだ」
「それは……、どういう?」
「さあ? 思い悩む何かがあったのかも知れんね」
刑事は言葉を濁し、「このことは誰にも漏らすなよ」と結んで去っていく。
後輩は呆然と彼の背中を眺め、そして不可解な事件に足元が泥濘んでいく嫌な感覚を思い出していた。
(完)
あれは落葉に寿命が与えられたある夕刻のこと、私は自分を抱きしめるように縮こまり閑静な住宅街の境界線を歩いていた。
視界に転がり込む落葉がアスファルトに削られて消えていく。モノクロームの世界に色が芽生えたのは、その足元から無機質が薄れていく山道に入った頃だった。
ぽつりぽつりと茶褐色の濁点が視界に入り込み、それが靴底の感覚を侵食していく。足音がザラつき、ずいぶんと引き摺るような歩き方だったと気づく。
そんなこと、もうどうでもいいんだけどな。
音にならない言葉で空気を濁して、そうして私は歩き続けた。
勾配を膝に感じた頃、アルファルトはすでに過去の感覚で視界のほぼすべてをすり減らした茶褐色が覆っていた。少し腰が痛くなって伸ばそうとしたそのとき、何かが視界を過ぎった。私はさほど驚きもせずにそれをじっと眺めていた。
ほんの数メートル先に転がっていたそれは、無意味に屈曲したまま仰向けになっている。薄着のセーターはところどころ解れていて、中にはベージュの制服らしきものが見えた。それの視線は草むらに注がれているようだ。左足は九十度に曲がり、両手はだらしなく要領を得ない。
よく見ると、皺だらけの封筒がズボンのポケットに捻じ込むように入っていた。
私はどうしてそれに近づこうとしたのかを未だに憶えていない。
だが視界を揺らすこともなく静かに、私はそれの傍にひざまづいていた。そして、次の瞬間には封筒をポケットから捻り取るように掌に収めていた。
それは数カ所折れ曲がってはいたが全体的に真新しい匂いがした。封はしておらず、陽に透かして見ると、便箋が一枚入っているようだった。
私はおもむろに便箋に指を伸ばす。
そのとき何かが静寂を裂いた。
草葉が鳴り、砂利を擦ったような音が聴こえる。
虫か動物だったかも知れない。だが妙に聴き覚えのある音、それは数分前に自分の足先が聴いていた音に似ていた。
私は慌てて封筒をコートの内側に滑らせて、なるべく音を立てないようにその場から動いた。その拍子に足がそれの右肘に絡まり少しだけ首が動いた。視界にこびりつくそれの首元は綺麗な薄い桃色をしていた。そして口元に何かがこびりついているように見えた。
気がつくと視界からそれが消えていた。いつの間にか、音も気にせずに走ったようだ。いつになく荒れた呼吸音が動悸に隠れて身体が悲鳴を上げている。勾配に痛めつけられた筋肉が軋み、だがそれでいて妙な高揚感に包まれていた。
数分ほど経っただろうか。つんざくような軽い悲鳴が聞こえた。
音は本当だった。
そして草陰がゆれるような無数の足音が砂を擦っていた。ざわめきが途絶えた頃、遠くのサイレンが近づいてくるのがわかった。いくつのもドップラーが反響しあって、静寂だったはずの森に赤が混じり込んでくる。
とても不快だ。だが、それも仕方ない。
私は高揚感を捨てきれなくてその場を後にすることにした。
山道は森を割くように続き、勾配がなだらかになった頃、遠退くサイレンが聞こえた。振り返ることもなく私は歩き続け、そして再び静寂を取り戻す。疲れ果てた私はその場に崩れ落ち、構うことなく地上に根を放り出す大木に背中を委ねた。手足を脱力させて、枯れ葉の隙間から空を見上げた。
灰色が眩しく思え、枝葉は色を失っている。私は鼓動を整えながら、小刻みにゆれる視界を制御する。そして大きめに息を吸ってみた。冷気が喉元を軽やかに過ぎて、火照った肺を慰めていく。それを数回繰り返した頃、色を失っていた枝葉の表情が見えてきた。
脱力した体はコートの胸元に風を染み込ませて、私に持ち去ったそれを思い出させる。そしてふと怖くなる。これは紛れもなく、彼を導くはずのものだったからである。
今頃どうしてるだろうか。彼を認識する人は現れたのだろうか。
そして彼の最期はこの手の中に残ったままだ。
私は高揚感の正体を探るために封筒に指を滑り込ませる。薄い便箋が折り畳まれている。指先で探ってスッと挟み込んで滑らせるように出した。そして、悴んだ手に意識を与えながら便箋を開いた。
たった一枚の、でもどこか高級な手ざわりの便箋。
そこにたった数行の彼の最期が書かれていた。
日付はないが署名はあった。
名前の最期が丁寧に撥ねられている。
彼の意思が少しだけ伝わるような気がした。
私はそれを丁寧に畳んで封筒に直した。そしてコートの胸ポケットに入れて、服の上からそれを撫でた。彼が私の中にいる。でも、これは手放さなければならない暖かさだった。
私は来た道を戻ることにした。サイレンが何度か去り、もう静寂に還っていると思ったからだ。そしてどこかの草陰にこれを戻そうと考えた。拾ったと申し出るのは嘘をつくのと同意だ。それに色々と詮索されるのは面倒だ。
だが私の想像を嘲笑うかのように、そこにはまだ静寂がなかった。
しかし歩みを止める訳にもいかない。
同じ制服が涙に暮れ、ところどころで怒号が響く。
同じ会社の従業員だろうか。数十人の制服と、何人かの慌しそうな普段着。そしてサイレンを消したパトカーが数台残っていた。
「そこの人」ふと声を掛けてきたのは制服の若い巡査だった。
「はい?」少しだけ胸元に意識をやって「何かあったんですか?」と尋いてみた。
だが彼は私の問いには答えずに、「いつからここにいたの?」と続けた。
「いつから? さっき来たばかりですよ。向こうから」
そう言って来た道を指差す。
「この前を通らなかった?」
「通りましたよ。ずいぶんと前に」
その言葉に反応した私服が声を掛けて来た。「いつごろでしょう?」
「いつ……」そう訊かれてふとスマホを取り出す。
「十九時三十五分……」間違えてディスプレイの表示を読んでしまい、慌てて「そうですね。昼過ぎだったと思う」と答え直した。
「その時にはここには?」
私服の誘導尋問だと感じた私は、「何かあったんですか?」と訊き返した。
「いや、その、知らない?」
「ええ。何ですかこの人だかりは?」
「そうですか。なら結構です」
「何ですかそれは?」
少しバツの悪そうな私服は一呼吸入れたあとで、「ここに死体がありましてね」と呟いた。
「死体?」思わず口に出してみた。少しだけ視線が注がれるのがわかる。
「それがあったのですか? ここに?」私服は軽く頷いた。
「そうでしたか。それは知らずに。でも、私がここを通ったときにはなかったと思いますよ。あれは確か」そう言ってスマホを操作する。
「ずっとスマホで地図を見ながら歩いていましたから」とアプリの使用時刻を確認して私服に見せた。「七時間前」と地図アプリのアイコンの隣に表示されていた。何の証拠にもならないことを知りながらそれっぽく対応してみせる。どうするだろうか?
だが私の思惑は空回りのまま。
別の私服の「推定は十六時頃」という呟きにこれ以上の介入は許されなかった。
「そうでしたか。失礼いたしました。捜査に戻りますので、これで」
私服は結局名乗ることもないまま一方的に話を打ち切った。そして声を掛けてきた制服がぽつりと囁いた。「すみませんでした。ちょっと難解な感じのようで」
私はそれ以上関わることが危険だと悟り、
「そうでしたか。突然のことで」
と言葉を返してその場を後にした。
人だかりの脇をすり抜けて、断片的な情報だけが耳を劈く。それらを想像で補完しながら、私だけが知る現実との乖離を探る。
どうやら他殺か自殺かを決めかねているように聞こえた。
ふと胸元がむず痒くなる。
私は意識的に足早になって、でも悟られないように表情をつくりながらわだかまりを突破して消えた。
ずいぶんと遠退いただろうか。足先がだんだん冷たくなり影も完全に姿を消した。ふとスマホを見ると「二十時」を少し過ぎていた。かれこれ三十分ほど一目散に逃げてきたわけだ。
コンクリートの壁が風を打ち返すように鳴り、コートの襟袖がなびく。あたりは町外れの工場街と言った感じだろうか。人の気配はせず、日常は闇に消えていた。
アスファルトの表面は砂利に覆われ、タイヤの轍が何重にも刻まれている。申し訳なさそうな植物が枯渇した大地から命を得て、だが健気にそこに居場所をつくっていた。
二階建ての戸建てぐらいの鉄扉が沈黙も守る中、私は重くなった足を運んで小さな公園へと辿り着いた。遊具は錆に塗れ、何の動物かすらわからない。何かの歯に見えるような石に腰を降ろして、ふうっと大きめに息を吐いた。
私が封筒を持ち去ったせいで彼の最期が弄ばれている。
だがここに記された彼の最期はありきたりすぎて逆に工作を疑ってしまう。私も現場を流すように見ただけで何が起こったのかはわからない。ただここにある遺書だけがあの場所に意味を持たせているだけだった。
遺書。
私は彼の最期をそう規定した。そして誰宛なのかもすぐにわかる。その理由さえもシンプルにまとめられて美しい。
この文面から想像される人物像は頭の良い人間だがどこか無機質な感覚も漂っている。
整理された彼の人生は言葉にするとこんなに脆いものなのか。他に何か遺したい言葉はなかったのだろうか。そう思うと少し切なかった。
私は公園の石に尻を冷やしながら、街灯の僅かな光に彼を照らしている。わずか三行に込められたものは無念ではなかった。
言うなればこれは感謝を表している。だが彼はこの世界から飛び出してしまった。包まれるべき優しさが彼にはなかったからだろうか。
それでも彼は生を否定することなく、処遇や状況を嘆いたりしてはいない。何が彼にこの言葉を選ばせたのだろう。
そしてふと、あの制服たちの涙を思い起こした。
彼はたぶんあの職場仲間たちの中でも光を放つ存在で、その喪失を涙に変えてしまうよいな男だったはずだ。放たれた怒号は何もできなかった周囲の怒りで、それは彼ら自身の過去にぶつけられているものだ。そう思うとやるせないが、私には彼らが過ごした時間に思いを馳せることなどできないし想像すらできない。
なぜなら私はずいぶんと仕事と向きあっていない。身体を痛めるよりも心を切り刻んできた私の過去。おそらくは彼らと同質の瞬間は存在しないと言っても差し支えがないだろう。
私の代わりはいなくても、私ができることで誰かにできないこともないはずだ。
擦り減った心に積み重なったのは顔も知らない人々のヘイト。聞きたくもないベルの音。
そうだ、静寂を求めたのは心だった。
めまいがまとわりついて目の前の受話器が歪んで見えた頃、私は自分が何者であるかを見失っていた。社名を出せば羨望を得ようが、やらされていることは装飾に隠された闇を守ることに過ぎない。
トーンを変えた声で自分を殺し続けて、理不尽な戯言を交わす毎日。同じ看板を背負う誰かのミスならまだしも、最近は欲求の吐口どころの騒ぎではない。
自称・正義の人の語り草に相槌を打たないだけで、「SNSに書き込むぞ」などと脅迫紛いの言葉を平気で押し出してくる。
自覚はないのだろうな。その価値観が自分本位で共感されないからこそ、歯向かわない相手を選んでいるだけなんだと。
まあ、あなたの話を流すだけでお金が貰えると考えを変えた頃には、意図した二重人格が心を守ってきたと言えるだろう。
そこからの逃避は案外簡単だった。普段着のまま自宅を出て、いつもの駅で降りないだけで良かった。
都会の喧騒から逃れられるのならば、いっそ電車が最後に止まる駅で降りよう。そう心に決めたのは、ラッシュアワーの中で立っている私を見つめた頑固な高齢の突き刺すような視線だった。
その視線を私は深読みしてしまった。
混雑の中、誰一人彼に視線を合わさない。たいていはスマホか手鏡に溺れ、それは自空間を守る防御のようなもので、余計な関わりを断つことで安定を得ようとする。
世界はそれほどに他人を傷つけることに無頓着で、だからこそ弱者の刃は鋭利になる。
あなたの苦痛は私のせいなのか?
そう思えたとき、たぶん私の貌は彼の希望を打ち砕いたかも知れない。
彼は少し気配を後退りさせて視線を逸らした。そして身体を揺らして私の視界から消えた。
彼をそうさせたのはもう一人の自分なのか?
それは今となってはわからない。
電車は何周か廻ったあと、普段降りない駅に止まった。アナウンスが入り、これから回送になると言う。
その頃には座れるくらいに人が少なくなっていたが、私は乗った位置から一歩も動いてはいなかった。硬直した膝に熱を与えて、私はその駅を降りた。
思ったよりも閑静な街だった。首都圏の心臓部を走っていたはずの環状にこんな場所があるなんて、と思った。
そこから私は駅から真っすぐに伸びた道を歩いた。その先に大きな森が見えたからだ。
緑と少し灰色掛かった空のコントラストが妙に眩しく感じられた。
馴染みのチェーン店が並ぶ駅前を抜けると、自宅周辺では見ないような大きな門戸の家が立ち並び、その少し奥は一気に自然との調和を強いられる環境になっていた。
整備された最新のアスファルトが時代を感じさせる色になって、そして痛んだ路肩が露出する。
そうした先に「彼」はいたのである。
彼の最期をまといながら、私は来た道を戻っている。自然と調和を強いられた公園は朽ち果て、少し先の住宅街とは別世界である。
だがその小さな公園は何となく居心地が良かった。夕刻なのに誰も来ない公園。太陽に見過ごされたまま、だからこそ時の流れに取り残されたままなのかも知れない。
闇が公園を覆い、中央に立つわずか一本の灯りだけが視界をつくっていた。
私の影はもう溶けてわからない。
もう一桁の温度になっただろうか。急に足元に冷気が刺してきて、私は両足を抱えて縮こまる。
コートを膝下まで伸ばして暖を取ろうとすると、胸元が少し開いて封筒が顔を出した。
私は凍えながらそれを取り出して、再び彼の最期を熟読する。そこに描かれた微かな文字情報だけの世界。だがそれは私の人生にはない世界だ。
家族がいる。妻と息子だろうか。あの制服は同僚か、はたまた部下なのかはわからない。彼の見た目から察するに、と思ったところで、あの時にこびりついた首元が蘇る。
私は記憶を観察し、細部を補完する。
ベージュの制服、太めの首、汚れた口元。
そこから先は事実か空想かはわからない。
あの瞬間に遺書の情報を足すことによって歪められたかも知れない。
体格は自分よりも良かった。制服の背中にシワはなく、ワンサイズ大きめの服でもピンと張り詰めていた。昔、何かのスポーツをしていた体だろう。
顎はやや角ばっていて、健康そうな歯だった。髭はキレイに剃っていたし、ヘアスタイルも短めで整っていたように思う。
だらしなく投げ出された腕や足もキレイに伸びていたし筋肉量も豊富だ。
首元のアザはやはり自殺を図った後なのか、でも紐が絡んではいなかった。
切れてしまったのだろうか?
でもその時の周囲の状況は覚えていない。でも彼の体格なら細いロープでは無理だろうし、そうなると枝が折れるはずだ。
少しづつ補完される現実はかつて見聞きしたTVショーなどの架空に侵されていると思った。
たぶんこの辺のどこかの工場か何かで働いているのだろう。悲鳴と足音の時間差はさほどなく、だが発見されるまではかなり時間が掛かったはずだ。
でもおそらくは今日の午前中に何か事を起こしたのかも知れない。
遺書の署名はたぶん本人のものだろうし、どうやら家族や同僚あるいは部下に迷惑をかけたようだし、この事によってさらに迷惑が掛かることも感じていたようだ。
だがそこに動機が描かれておらず経緯もわからない。しかし彼を取り巻く誰かが何かに気付いているかも知れない。
そして「その人」は思うかも知れない。どうして「遺書」がないのか、と。
周囲が嗅ぎつけた何かによる衝動的なもの、あるいは計画的なもの。
だがそれはすぐに察知されないものだった。制服を着ているということは仕事中か向かう前かも知れないが、制服であるという意味は大きい。
社会的立場を象徴する服装で行為を選ぶことには意味があるはずで、だとすると動機はやはり仕事内容なのだろうか。
私は冷気を忘れるほどに集中し熟考を重ねた。
幾許かの時が過ぎて邸宅から生気が消えた頃、私は過ぎる想像が自分との比較でしかないことに気づいた。生活が全然違うはずなのに自分を重ねて想像するバカバカしさ。一生答えに近づけないはずなのに夢中になる意味はないはずだった。
だがそこに自分を重ねてしまうのはたぶん違う道があったはずだと思いたかったからなのかも知れない。
そして客観視が自身を大きく覆った頃、急に怖くなってきた。
「遺書」がないことによる現実的な問題。
それは事件性を考慮した捜査の始まりであり、それにより作られた犯人像が一人歩きすることである。
衝動的なのか、計画的なのか。
怨恨なのか、快楽なのか。
警察は様々な憶測で関係者から話を聞き出して「犯人像」をでっち上げるだろう。
見知らぬ街に突然来た私はたぶん目立つし、何者かに目撃されているかも知れない。
答えを欲しがるのは警察だけではないだろうし、願望が悪魔をおびき寄せるかも知れない。
こう言うときに頭が透明になって現実を追い越すのは私の悪い癖だ。だが、時にはその癖が自分を助けることもある。
私は人気のない間にこの街を去ることに決めた。その為には交通機関は避ける方が賢明だろう。
私は闇夜に紛れて、駅に続く一本道をそろりと歩き始めた。
区画整理の進んだ街並みに等間隔の街灯。真新しそうな自転車道が歩道を圧迫している。
街灯の下にだけぼおっと浮かび上がる埃と季節外れに思える揺らめき。くるくると規則性のない揺らめきが時折光源にに当たり羽根を焦がしては離れる。
伸びる影と付かず離れずのまま、私は駅前の大通りにたどり着いてしまった。
時刻にして二十二時を過ぎた頃、静けさとは無縁の音で溢れたまま。線路と並行に走る国道はLEDの乱反射によって光の川に見える。
横断歩道のすぐ向こうのロータリーには数台のタクシーが息を潜めていた。
交通機関を使わないと決めていた私は国道沿いを行くことにした。どちらに行くかを迷うこともなく、手前の車線と同方向に歩いていた。その方が認識されづらいと考えたからではなく、単にLEDの眩さが鬱陶しかっただけだった。
この道はどこへ向かうのだろう。
そう思う間もなく国道は大きな河へと差し掛かる。そこから大きなアーチの陸橋に伸びていくがその先には光はなかった。
私は独立した歩道を行く。鬱陶しさが頭の上に消えていき、同時に喧騒も去っていく。
欄干に沿うような歩道は脆弱な柵を命綱にしている。風は思った以上に強烈で、バタバタと裾を弄んでいる。
やや勾配のある歩道、その頂点は橋の中腹だろうか。どちらも微かに見下ろすような湾曲を感じ、歩道を行く人がずいぶんと小さく見えた。
歩道の中腹はちょうど橋桁が風を遮る場所で、私はそこで立ち止まり河を眺めた。左側にはLEDの直線がずいぶんと遠くまで続きその先に光の束が見えた。
私の視線は惹かれるように眼下の闇に落ちていく。水紋を際立たせる陸橋の光は不規則に姿を変え、ロールシャッハテストを思い起こされる紋様を見せつけていく。何を見ても同じ答えを出していた映画の中の男を思い出した。
何と答えるかよりもその答えに辿り着くまでの仕草を観察しているだろうし、無意識な言葉の羅列に法則性を見出すかも知れない。
正義を問うた映画のように私はセンチメンタルでもないだろう。
風が少しの間姿を消してくれて、私の体温は少しだけ戻ってくる。闇の中で温かみを感じたとき、私は胸元に忍ばせたままの彼を思い出した。
いっそこのまま海に捨てようか。
彼は灰になって空を飛ぶだろうけど、その内にここにも訪れるかも知れない。川底に彼がたどり着いたとき、亡くした自分の欠片だったことを思い出すだろうか。
そんなものに意思など宿りはしないことはわかっているが、人が死んだ後に魂がどこに行くかなんて誰も知らない。
だがこんな妄想を思いつくのは彼の最期を知る私だけだろう。でもよく考えれば、こう言った思考はセンチメンタルと呼べるのかも知れないな。
私は胸元に手を伸ばす。喧騒は蘇り、風も少し出てきた。
襟が少し靡いて頬を打ちつける。
そして遺書に手を掛けたとき、私の身体は宙に投げ出された。
何が起こったのかわからない。ただフワッと足先から地面が消えて、そして立て直す間もないままに私の視界は橋桁を捉えていた。
そして眩い光が徐々に拡がりを見せて、そして耳の穴に突風が差し込む。
頬が冷たい。徐々に感覚を失っていくのがわかる。
そして視界の先には濃いグリーンの凹凸が拡がっていた。
声が聴こえる。頬を打つ音が近づいて、そして視界に黒が忍び寄る。
「自殺?」
ふと若い女の声が聞こえた。否定しようにも言葉が出ない。脳と四肢が分断されて、でも何故か頭だけは冴えていた。
身体全体の感覚はほとんどないが地面に接していない後頭部に鈍い感覚が残っている。風に煽られて橋から転落し、そこを強く打ち付けたのだろうか。
でも頬にも同じ鈍さがあって、うつ伏せになった身体の下半分が同じような鈍い感覚が纏わりついている。
眼前のグリーンは何かの床か?
その先にわずかに見える白い柵、その向こう側の光が上下に揺れている。もしかしたら船のデッキに落ちたのかも知れない。
他愛のない思考遊びを嘯くように、デッキらしき場所にいくつもの光と影が交錯している。
何かを叫んでいるようだ。
その中にひとつが近づいてきて、そして羽ばたくように開いたコートに手をやった。
「遺書?」
どうやら誰かがそれを見つけてしまったようだ。
視界に赤いきらめきが混じってきた。警察だろうか。
「刑事さん、これ」震える声が聞こえた。
刑事はそっと私の傍にしゃがみ込み、コートの内ポケットからそれを抜き取った。ガザガサと喧騒の中にあって確実に耳を劈く音。
もうどう言い逃れもできないだろう。
だが警察が私を調べたら、遺書の持ち主でないことはすぐにわかるだろう。そしてそれが彼のものであることにも辿り着く。
彼の最期の本当にたどり着けないまま、もしかしたら私に刃が向くかも知れない。
だが、今となってはどうでもいいことだった。
薄らと視界が残る中、私は大勢に抱えられて何かに乗せられた。そこから先のことを語ることはできない。
最期に見えたのは、対岸に伸びたLEDの群れ、そして音を立てて回転するサイレンだった。
※※※
「実に奇妙な事件でした」
取り巻きに囲まれた刑事は神妙な顔をして、まだ抜け切らない棘を気にしているみたいだ。
「船に落ちた男の身元は割れました。そして彼が所持していた遺書の持ち主も判明し、ご遺族のところに届けてあります」
「どうして男は他人の遺書を持っていたのでしょう?」
「それについては全くわかっていません。男が首吊りの現場近くにいたことは現場の刑事が覚えていましたが、特に怪しいところはなかったと聞いております」
「首吊りの方は自殺で確定でしょうか?」
「その方向で進めて参ります。遺書が決め手ではありませんが、状況と加味すれば間違いないと思われます」
「その、遺書を持ち歩いていた男も自殺ですか?」
「それはこれから捜査しますが、頬のあたりに大きな打撲痕がありましたので、事件性を考慮して捜査を進めていく予定です」
取り巻きにどよめきが広がって、それらは方々に散っていく。
そして刑事がふうっと大きく息を吐いたとき、彼の携帯の着信音が安堵を止めた。
「どうした?」急に刑事の顔色が変わった。
「そうか、わかった」刑事は困惑を隠せないまま頭を抱え込んだ。
「どうしました?」後輩の刑事が耳打ちをする。
刑事はぶつぶつと独り言を言ったあと、「男の自宅が割れて中に入ったそうだ」と紡いだ。
「何かわかったんですか?」
「とりあえず状況だけ」
「状況?」訝しげに覗き込む後輩。
「彼の机と思われるところに一枚の白紙の便箋が置いてあった」
「それだけですか?」
「それと、その脇に封筒があって、表書きには『遺書』とだけ書かれていたようだ」
「それは……、どういう?」
「さあ? 思い悩む何かがあったのかも知れんね」
刑事は言葉を濁し、「このことは誰にも漏らすなよ」と結んで去っていく。
後輩は呆然と彼の背中を眺め、そして不可解な事件に足元が泥濘んでいく嫌な感覚を思い出していた。
(完)