第3章 (7) 寡黙な男のサムズアップ

文字数 9,232文字

 楽しい宴が終わった。大学生たちは明日の朝から木曽川にラフティング、俺たちも家路につかねばならないので、そろそろお開きにしようと言い始めたのが21時。でも楽しくて中々踏ん切りがつかずに、22時前になりようやく皆で片づけを始めた。
 片付けを終えた後、俺たちは大学生たちにお礼を言ってテントに戻った。皆とても良い人たちだった。彼らと俺の年齢差は六年。六年後には俺も気さくに初対面の中学生にバーベキューをご馳走してあげるような大人になっているのだろうか。そして、俺には身体を重ね合う相手は存在しているのだろうか。マキさんみたいな恋人ができたらいいなと思いつつ、昨日心惹かれたばかりのマダイさん(仮名)に対して罪悪感のようなものを感じた。いや、間違いなく俺はどちらからも何とも思われていない。馬鹿みたいだ。結局妄想することしかできない自分が情けなくなった。
 テントでは既にモトが寝袋に入っていびきをかいている。缶ビールはしっかり飲み干していたが、顔もすぐ赤くなったし、どうやら酒には強くなかったらしい。ハユとコインシャワーを浴びるか相談した結果、節約にもなるし、どうせ明日は帰るだけだから浴びなくてもいいだろうということになった。そうなると後はもう寝るだけなのだが、ビールを飲んだせいか身体が火照って少しも眠たくない。
「河原田、お前眠くないの?」ハユが聞いてきた。
「眠くない。っていうかかなり目が冴えてる」
「俺も。ちょっと外で飲もうぜ」ハユがリュックの中からビールを二缶取り出した。
「それどうしたの?」
「帰り際にシュゴワシュ兄ちゃんにもらったんだよ。寝酒にくれって言ったら一缶くれたんで、念の為にもう一缶って言ったら意外とあっさりもらえた。あの婆ちゃんにもらったスルメイカをつまみに飲もうぜ」
 俺達はビールとスルメを持って外に出た。
 テントを出て少し歩くと、砂利が敷き詰められている幅十メートルくらいの割と太めの道があり、川に行く方とコインシャワーがある方に分かれている。その道の傍らに腰を下ろした。
「よし、とりあえず開けようぜ。シュゴワシュ」ハユがビールを開けて少し上に掲げた。
「うん、シュゴワシュ!」俺も同じようにビールを掲げ乾杯をした。ハユがビールをごくごくと喉に流し込む。
「プハーッ、あー苦い。これがいつか美味くなんのかな?」ハユが俺と同じようにビールを苦いと思っていることに驚いた。
「えっ、ハユはビール苦手なんだ。俺は結構いけるよ」見栄を張った。
「お前マキさんのことちょっと好きになっただろ?」
「う、うん、まあね」
 ふいをつかれて一瞬躊躇したが素直に答えた。
「あの人、見た目も良いけど、なんかバランスが絶妙だよな。ちょっとエッチな感じがしてでも本当は誠実っていうあの加減がかわいいよな」
「ハユもそう思うんだ。俺もかなりタイプ」
「ま、俺はクロダイちゃんの方が好きだけどな。」
「えっ、なんで?」
「お前はマダイよりマキさんだろ?」
「うん」
「あの人はしっかりし過ぎて頼りにしてもらえない感じがあるからなー。俺はクロダイちゃんみたいにちょっと拙いくらいが好きだな」
学級委員で生徒会所属、成績も優秀な太田さと美を彼女にしているハユが拙い感じの子が好きなことが意外だった。
「でも太田さんってしっかり者だよね?」
「だからかも」ハユが答えた。
「隙がなさ過ぎて、あいつの気持ちがよくわからないんだよねー」ハユはそう言うとビールをグイッと一口飲んだ。
 ずっと気になっていた質問をハユにぶつけてみた。
「ハユと太田さんってどこまでいってるの?」
 ハユが俺を見て目が合った。数秒間の沈黙の後、ハユが口を開いた。
「一度手を握っただけ」
 予想外の答えに肩透かしを食らった気分だった。
「俺、ハユたちは最後までいってると思ってた。この旅でも何となくしている感じで話してたし」
 ハユは口を開けて笑った。
「周りが勝手にもう最後までいってるとか噂をするから、なんとなくまだキスさえしてませんなんて言えなくってさ。でもやってるって嘘つくのも相手に迷惑がかかるからこんな態度になっちゃうんだよね」
 ハユと太田さんは去年から付き合っている筈だから、半年以上経ってもまだ手を一回握っただけなのか。俺でももう少し進展していそうだ。
「キスとかしたくないの?」
「したいけど、強引にして嫌がられたらと思うとできなくて」
 なんだか少しだけ親近感が湧いてきた。
「一度だけ太田さんと手を繋いだ時はどんな流れだったの?」
 ハユはその時を思い出すように少し上を見ながら語った。
「二月の寒い日だったかな。部活終りに一緒にバスに乗って名店前のバス停で降りて、そのあと遠州鉄道の第一通り駅の前のベンチに座ってずっと話してて、たまたま二人の手が当たる時が何度かあって、それで何回目かの時に向こうが握って欲しそうな気がしたから握ってみたら向こうも握り返してくれてさ。なんかすげえ幸せで、ほとんど何も話さずに一時間くらいそうしていた気がする」
「超純愛だね」
「なんか俺、キスとかセックスとかしちゃうとそれだけの関係になっちゃうのが怖いんだよね。すげえしたいけど、しちゃったらそれがなくちゃダメな関係になるのが怖いんだ。原因は多分俺の親父が外で好き放題やってるからだと思う」
「そうなの?」
「本当のところはわからないけど、婆ちゃんには『お前の親父は金を家に一切入れずに外で色んな女と遊んでる』って言われた」
「お父さんみたいにしか女性と付き合えなくなりそうで怖いってこと?」
「そうかもな。あんな奴みたいにはなりたくないけど、俺にはあいつの血が流れてる。親父は俺が小さな頃から家にほとんど戻ってこなくて、たまに帰ってくれば、理不尽な説教するわ殴るわで大変だからいない方が平和だよ。いつも泥酔していて誰彼構わず因縁つけて、色々な所で迷惑かけるから周りから白い目で見られてる。俺ずっと親父の不始末に頭下げてきたんだぜ。特に俺が小さい頃は暴れて大変だったんだ。こんなマズイ飯食えるかよって言って食器をバンバン台所にいる母さんに向かって投げてパリンパリンみたいな」
 ハユはビールを飲んでなおも続けた。
「河原田、俺今まで誰にも言わずに我慢していたことがたくさんあるんだけど、お前に言っていい? お前口堅そうだし、俺の親父とも面識ないから」
 俺は深く頷いた。
「散々食器を投げた後、親父はソファに横になって寝ちまって、俺と母さんは割れた食器を一緒に片付けるんだ。そして母さんは必ず俺を抱きしめてこう言うんだ。『悠紀彦、本当にごめんね。でもお父さんを嫌いにならないでね。お父さんは本当は悪い人じゃないの。お酒があんな風にしちゃってるだけで本当は良い人なの。お母さんのことが好きなら、お父さんのことも好きでいてあげてね』って。小さかった俺が 『大丈夫。僕お父さんも好き』って言うと、母さんは『ありがとう』と言って泣いてた」
「家庭環境が違い過ぎて俺が言えることなんか何もないんだけど、ハユがなんで大人びてるか、少しわかった気がするよ」
 どんな言葉をかけるべきかわからなかったが、思ったことを言った。
「親父は、ケンカはどんな手を使っても勝てっていつも言ってて、毎回酔っぱらうと昔の武勇伝を話すんだけど、それが超卑怯なんだ。中学の頃、他の中学の身体の大きな不良にボコボコにされそうになったんだけど、その時は平謝りに謝って勘弁してもらって、後日工事現場にあった釘が出ている角材を拾って来て、そいつを探して、後ろからその角材でボコボコに殴って血まみれにしたらしい。そこまでやれば相手は次は殺されるかもしれないと思うから仕返しはしてこない。やるならとことんやれって晴れ晴れとした顔で言うんだ。自分の親ながら狂ってるって思ったよ」
 すぐそばでキリギリスが鳴き始めた。
「釘付きの角材で相手を半殺しにするのは確かに普通じゃないよね」
「だろ? でも、そんな俺も親父と似たようなことをしたことがある。小一の時、友達のうちに行こうとして自転車を漕いでたら、近所の三年生が 『お前まだコロついてんのかよ』と言って追いかけてきたんだ。多分俺が附属小に行ってたから鼻についたんだと思う。俺は必死で逃げたけど、追いつかれて背中を思いっきり叩かれた。痛みと恐怖で俺は必死に自転車を漕いで友達の家まで泣きながら走った。それからしばらくして、雨の日の朝、俺がバス通学の為にバス停に向かって歩いていると、向こうからその三年生が傘を深くさして歩いてきた。幸い俺には気づいていない。俺はそいつとすれ違った直後、持っていた傘をたたんで、傘の柄の固い部分をそいつの背中に思いっきり振り下ろした。そいつが慌ててしゃがみこんだので、俺はガムシャラに何度も傘を振り下ろした。そいつが泣き崩れて動かなくなるまで殴り続けたよ。結局俺も親父と同じ血が流れてるんだ、卑怯者の血がさ」
「親父さんのはかなりやり過ぎだと思うけど、ハユの場合は小学一年で二学年上に対抗するためにはそうでもするしかなかっただろうから、ちょっと違う気がするけど」
「俺、無抵抗な相手を殴りながら爽快感を感じてたんだ。家じゃ親父に抵抗もできないくせに学校じゃあ威張ってさ。俺も卑怯者だよ。親父は俺が小学校に入ってからも一度着ていたシャツ血まみれにして帰って来て、飲み屋でケンカになってビール瓶で相手をぶん殴ったと自慢してきたことがあった。その時に俺もビール瓶で嫌いな奴をぶん殴ることを想像してワクワクした。このままじゃ俺もいつかそうなっちまいそうで怖いんだ」
 いつも自信に満ち溢れているように見えるハユが、自分自身をそんな風に思っているなんて思ってもみなかった。確かに学校でのハユはガキ大将的ではあるけど、暴力をふるっている訳ではない。
「大丈夫だよ。ハユは違うよ。この旅に一緒に行こうって話になるまで、俺はハユとは麻雀の件でひと悶着あったから、正直あまり良い印象は無かった。でも一緒に旅に行くことになって、計画を立てて、昨日今日と旅をしてきて、ハユを卑怯者だとは一度も思わなかったよ。むしろ真っ直ぐ過ぎて人と衝突しているように見えるけど」
 ビールを一口飲んだ。相変わらず苦い。同じようにビールをごくりと飲んで、ハユがまたしゃべり出した。
「親父さ、俺が十歳の時に、母さんの父親、俺からしたら爺ちゃんの遺産で小さなレストランを街中で始めたんだ。母さんも人工透析が無い時には手伝って、俺もランチタイムの宣伝チラシをその辺の家のポストに入れたりして手伝った。料理の腕は確かだったから、すぐに口コミで人が集まってきて、一カ月もした時には人気店になっていた。思えばあの頃が一番幸せだったと思う。親父も仕事が終わるまでは酒を飲まずに頑張ってた。でも、それからすぐに親父は客から勧められたビールを飲んだのをきっかけに、仕事中も飲み始めた。そしてまた朝から飲むようになり、ランチタイムの頃には泥酔して、店の奥で寝ている始末。母さんや他の親戚が何とかしようと代わりに調理したけど、やっぱりプロの味じゃないから、客はすぐにほとんど来なくなって一年後には潰れてしまった。その後は知り合いに誘われた料亭や居酒屋、レストランとかに働きに行った。腕は良いから最初はありがたがられるんだけど、慣れたらすぐに仕事中に酒を飲むようになってケンカして辞めるの繰り返し」
「せっかくレストランが軌道に乗ったのに、どうしてそれを自ら台無しにしちゃったんだろうね」
「さあな。俺は親父みたいには絶対になりたくない。あんな奴いなくなって欲しいけど、母さんが嫌いにならないでねと言うから我慢している。母さんは命をかけて俺を産んでくれた。今も病気で辛いのに俺の為に雀荘やって金を作ってくれている。母さんは病気だし、身体も小っちゃいけど強いんだ。俺が小五くらいの時に、母さんの雀荘にチンピラが三人やってきてさ。『おい、お前ら誰に断わって商売やってるんだ!』って因縁つけてきたんだよ。平和に商売ができるように見守ってやってるんだからみかじめ料を払えってことな。でも母さんは既にそこの雀荘があるエリアを持ち場にしている組にみかじめ料を納めていて、この時来ていた奴らはその隣のシマのヤクザで、あわよくば母さんの雀荘からも金を取ろうとしてたんだ。母さんが 『うちはもう面倒を見ていただいている組がありますので』と言ったら、またチンピラ共が威嚇してきたんで、飾ってあった小さな鉢植えをそいつらに投げつけて、『女だと思ってなめてんじゃないよ! ○○組と戦争するつもりかい。とっとと帰んな!』と啖呵を切って追い出したんだ」
ハユはすごく誇らしげにお母さんのことを語った。本当に大好きなんだろうな。昨日の朝初めて話した優しそうなハユのお母さんの印象から、ヤクザ相手に啖呵を切っているところは想像がつかない。一人息子の為に必死で生きているのだろう。
「ハユのお母さんは強い人だね」
「でもそんな母さんでも泣くこともあった。俺が六年の時に、PTAの会議が学校であって、誰かが本橋さんは一度も役員をやってないと言い出したので、『私はやってもいいんですが、どうしても病院に行かないといけないので、欠席が多くなってしまいます。それでもよければやらせてください』って言ったらしい。そしたら、どっかの馬鹿が『そんなのは甘えだ。他の人はちゃんとやってるんですよ』って言ったんだ。。そいつが、親たちの中でリーダー的存在の奴らしくて、他の親どもも何人かそっち側につく形になった時に、数名のまともな親が 『本橋さんは好きで病気になった訳じゃないのに、その言い方はひどいんじゃないですか。私が代わりに役員をやります』って名乗り出てくれたらしい。その内の一人が本山の母さんだったみたい」
「そんなことを言う奴がいるなんて信じられないよ。ハユはそれお母さんから直接聞いたの?」
「いや、俺んち二階建てでさ、両方の階に電話があるんだけど、古い電話だから繋がってるんだよ。だから、一人が一階で話してる時に、二階で受話器を取ると話が聞こえるんだ。母さんが夜中に泣きながら、婆ちゃんに電話しているのを悪いと思ったけど盗み聞きしちゃったんだ。確か土曜日の夜だった。そんで、次の日、その甘えだって言ったクソババアを殺しに行こうと思って、台所から出刃包丁取って、それをタオルでぐるぐる巻きにしてリュックに入れてたら、母さんに見つかってさ。母さんに『母さんを傷つける奴は俺が始末してやるから』って言ったら、思いっきり平手打ちされて、『あんたが人殺しになったらもっと傷つくわよ! あんたは、頑張って自分がやりたいこと見つけて努力してくれたらそれでいいの!』って怒鳴られた」
「ハユ、本気で殺そうと思ったの?」
「本気でか……どうだろう。とにかく、母さんを傷つけた奴に恐怖を味わわせたかったし、謝らせたかった」
「俺は今までの人生で人を殺したいほど憎んだことはなから、その感情が想像つかない」
「お前も大切な人が傷つけられたらわかるよ。そんな経験しない方が幸せだけど」
もし、お母さんに見つからなければ、ハユは殺人者になってしまったのだろうか。これもまた今日会ったお爺さんの言っていた「一生懸命生きていれば、困難にぶつかっても何とかなる」ということだと思った。ギリギリのところで、神様なのか運命なのかわからないが、何かが一生懸命に生きているこの母子を救ったのだ。
「ハユがそんな最低な人間の為に人殺しにならなくてよかったよ。犯罪者になったらお母さんが願うように、やりたいことを見つけて頑張ることだってできなくなるよ」
「ホントその通りだよな。母さんを守るつもりが危うく真逆のことをしでかすところだった。いつも守られているのは俺なんだ……」
「ハユは何か将来やりたいことあるの?」
「俺はとりあえず、今の生活から抜け出したい。毎日親父の存在に怯えて暮らす毎日から、前向きに人生を歩める気持ちになれる環境に身を置きたい」
「前向きになれる環境か……何か具体的なイメージはある?」
「俺の母さんの姉さんがオーストラリアに永住してるんだ。去年二週間遊びに行って、その伯母さんの家に世話になったんだけど、毎日散歩していると、家の前の通りの隅にダンボールの家に住んでるホームレスがいてさ、そいつが『ハロー』って笑顔で挨拶してくるんだ。最初気味悪くて無視してたら、近所の人がそいつと笑顔で挨拶を交わしてて、日本じゃ乞食と普通の人が笑顔で挨拶なんて考えられないだろ。その話を伯母さんにしたら、こっちの人は相手の人種や貧富の差や見てくれじゃなく、人間として相手を認めようという考えがあるので、ああいう関係が生まれるんだと教えてくれた。どんな家に住んでようが同じ人間だよねって考えが俺にはすごく新鮮で気持ちが良かった。そして俺も次の日からそのホームレスに『ハロー』って言うようになった。日本に帰って来ても、ずっとあの時の心がスッとした瞬間が忘れられなくて、最近はオーストラリアで暮らせたら楽しいんじゃないかってよく考えてる。あの国なら、俺がどうしようもない人間の子供でも、そんなの関係なく俺自身を見てもらえるんじゃないかって思うんだ」
「日本って、つくづく皆が周りの顔色を窺って、出る杭は打たれる国だよね」
「俺打たれまくり。いつか周りの奴らが打つ気も無くなるくらい突き抜けてやろうと思ってる」
「俺には、日本を出て知らない国に行くほどの好奇心も、生活への不満も無いなあ。でも、ハユはずっとお父さんのことで人に謝ったり、後ろ指をさされて辛い思いをしてきたんだもんね。何のしがらみも無い世界に行きたいのはとても良く分かるよ」
「河原田は幸せなんだよ」
「そうだね。親に感謝しないとって思った。ところで、オーストラリアで暮らすっていうのは留学ってこと?」
「留学? いや俺はただオーストラリアに住めたらって妄想してるだけ。現実には無理だよ」
「本気で調べてみたら? 留学を斡旋しているエージェントとかもあるはずだよ。もしくは、ハユは伯母さんが向こうにいるんだから、現地で留学生を受け入れてくれる高校をリサーチしてもらうことも可能なんじゃない? その方がエージェント通すより経済的だと思う」
「留学かあ。本当にできたら人生が変わるかもな。浜松に戻ったらマジで調べてみるよ。とりあえず今まで授業をボイコットしていた英語だけはちゃんとやるわ」
「ハユなら絶対できるよ。応援して……」
 その時、ハユが突然俺の口を手で押さえた。指で左側の奥を示している。そちらに目をやると、月明かりに照らされて、クドウさんとヨーコさんが手を繋いで歩いているのが見えた。一緒に食事をした時には見せなかった親密さで寄り添っている。俺たちは木陰にいたせいもあって、二人ともこちらに気づいていない。俺たちの約五メートル程前を通り過ぎてコインシャワーへと向かった。時計を見るともう午前一時三十九分だった。コインシャワーのドアが閉まった。
 俺たちは好奇心に駆られて、どちらからともなく足音を忍ばせてコインシャワーに近づいた。砂利が時々音を立てるので、そのたびに心臓が止まりそうになる。
「ハユ、ここら辺が限界だよ。これ以上近づいたらバレる」
 最大限に声を潜めてハユを止めた。コインシャワーから3メートル弱の所だった。
服を脱いでいるのだろうか、ガサゴソ音がして、その後シャーとシャワーが流れ出る音が聞こえてきた。
「あの二人やってるのかな?シュゴワシュ兄ちゃんがあいつら付き合い始めたばかりで多分まだやってないって言ってたから、勝負かけてるのかもな」
「そうかもね」
 飲み会の時にヨーコさんが、「私は普段は大人しくて決める時にはビシッと決める男がいいな」と言っていたのを思い出した。あれはクドウさんへのメッセージだったに違いない。クドウさんはビシッと決めることができているだろうか。
 シャワーの音が聞こえている間、俺たちはほとんど何も言わずに残り少なくなってきたビールをすすった。時折ガタッと音がする度に中で何が行われているのか、勝手な想像をして興奮した。微かにヨーコさんの喘ぎ声が聞こえたような気もしたが、妄想のせいでそう思っただけかもしれない。シャワーの音は八分程で一旦止まった。俺たちはビビッて、忍び足で最初にいた木陰まで戻ったのだが、すぐにもう一度シャワーの音が聞こえ始めた。時間が切れたので追加でコインを入れたのだろう。再び八分経ってシャワーが止まった。キャンプ場に静寂が戻った。
「ガチャ」しばらくしてドアが開く音がした。俺たちはできるだけ身体を丸く縮めて気配を消した。
 クドウさんもヨーコさんも髪が濡れている。ヨーコさんはクドウさんの左腕に巻き付くようにしてくっ付いていた。女性と付き合ったことの無い俺にも何があったのかが容易に想像できるような二人の雰囲気だった。
 そして二人は来た時と同じように俺たちの五メートル前を通り過ぎた。少しずつ二人の背中が遠くなっていく。
 その時、俺たちは見た。クドウさんがヨーコさんにしがみつかれている腕と反対の右腕を背中側に回し、そして右手の親指を上に向けるのを。クドウさんは俺達がいる事に気がついたのだ。不言実行をやり遂げた寡黙な男の背中がそこにはあった。

 2015年も残り一週間を切った。今年は独立を決意して、その為に奔走した一年だった。来年にはいよいよ自分のブランドをスタートする予定だ。ティーロワイヤルを飲みながら、ようやく残り数枚になった来年の年賀状に目を落とした。
 一番上のハガキを取って、プリントアウトされた受取人の名前を確認した。本橋悠紀彦 様となっている。そう言えばちょうど一年前、中学二年の時の自転車旅行の話で盛り上がった。あれから音沙汰がないが、ハユが言っていたアイデアって何だったのだろう。これまで有言実行でやってきたハユのことだから、きっと何かやってるんじゃないか。そんな気がしてペンをとった。

『自転車旅行のやりとりは楽しかったね。あれから進展はあったかな? また会おう』

 あの旅から戻った頃から、俺はギターを真剣に練習するようになったことを思い出した。何かを変えようともがいていたハユ、告白で一皮むけたモト、ビシッと決めてサムズアップしたクドウさん、頼りになるアキラさん……
 あの旅がなければ、勉強以外にこれといった取り柄のなかった自分を、あれほど強く変えたいと思うことはなかったのかも知れない。結局、ギターを仕事にすることはできなかったが、俺の人生を語るのに欠かせない存在になった。

 一年前、ハユからこの旅行の思い出について聞かれた時、正直そこまで特別な旅ではないと思っていたが、俺にとっても人生を変える旅だったことに気が付いた。
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