第1話

文字数 3,214文字

 夕方、東の窓から見えるレンガ色の建物の屋上。そこにはいつも、女の子が座っている。
 
 彼女を初めて見たのは、この家に引っ越してきた翌日だった。取り付けたばかりの真新しいカーテンを閉めようとしたとき、ふと窓の外を見やると、人の形をした影があった。
私のいる二階建てのアパートから、道路と一軒家を挟んだところに建つ三階建ての集合住宅の屋上。日の沈む西側、こちらの方を向いて、決して低くは無い建物の縁に足を無防備にもぶら下げている様はひどく危なっかしく、それは驚いたものだった。ニュースで良く聞く暗い言葉の数々が頭を駆け巡る。しかし目をこらした瞬間、私の心配はすぐに杞憂だと分かった。
 最低限の表情を認識できる距離。中学生だろうか、少しぶかぶかに見える重々しい紺色のセーラー服を着た少女の垢抜けない瞼は、春に向かってだんだんと遅くなっていく夕日を受けて瞬き、頬は三月の冷たい風にさらされて可愛らしく赤みを帯びている。そして、おちょぼ気味の小さな口は、にっこりと無邪気な笑みを浮かべているようだった。
 短く切りそろえられた前髪がふわりとおでこを露わにしたかと思うと、少女は橙色の空に向かって思うままに大きな伸びをし、そのまま上半身を後ろに倒した。膝から下だけが壁にくっついている。
 きっと毎日のようにこうして夕日の沈む様を眺めているのだろう。怖いもの知らずの子供のすることは大人の想像を上回る。小学生になったばかりの甥っ子が、遊園地のジェットコースターに一日に三回も乗ったことを姉があきれ顔で話していたのを思い出し、ふっと顔が緩んだ。
「気をつけてね」
 決して聞こえない忠告。その日から、名も知らぬ女の子をひっそりと眺める日々が続いた。

 ある日の夕方。その女の子はヘッドフォンを頭に挟み、足で小さくリズムを刻みながら歌っていた。窓を開けてみても声は聞こえなかった。でもきっと、少し調子外れで甲高い声に違いない。私はその日久しぶりに、中学生の時にお年玉で生まれて初めて買ったCDを取り出し、それを流しながらオムライスを作った。当時流行っていた恋愛ソングは、少しくすぐったく感じた。

 またある日の夕方。その女の子は本を読んでいた。珍しくあぐらをかきながら、目を見開いて真剣に文字を追っていた。時折顔をしかめながら、眉を驚いたように持ち上げながら、ニヤリと口角を上げながら、夢中になって物語の世界に入り込んでいた。コロコロ変わる表情は見ていて飽きが来ず、その日はいつもより長い時間、彼女を眺めていた。外が暗くなっていくのに気がついて時計を確認した刹那に、女の子は屋上から消えていた。夕飯の後、近くのレンタルショップで以前から気になっていた韓国映画を借りた。男女の純愛を描いた名作だそうだ。映画を見て涙を流したのはそれが初めてだった。

 四月になり、大学生一年目の忙しい日々を送るにつれ帰宅が夜中になってしまうと、その少女の姿を見ることは無くなっていった。以前は曜日に関わらず現れていたのに、土日でさえあまり姿を見なかった。
 もしかしたら彼女も高校生になり、部活に勉強にと忙しいのかもしれない。毎日の屋上通いはもうできないのかもしれない。
 そう思考を巡らしながらカーテンを閉め、灯りを付ける。ふと、部屋に一人でいることへの猛烈な心細さに襲われた。それに気付かないふりをして携帯を取り出し、着信履歴の一番上にある名前をタップする。
「あ、もしもし、北川君? ごめんね急に……え? ううん、全然……ちがうよお、あは、もう。いや、なんか鍋食べたいなって思ってるんだけど、私三、四人用の大きい土鍋しかなくてさあ、え? ……ねえ、うるさい、あは、しょうがないじゃん無かったんだもん。だからさ、良かったら一緒にどうかなって。……うん、私の家で。……え、ほんと? やったー。……うん。……うん。大丈夫。じゃあ鍋の材料一緒に買いに行こ? ……うん。……うん、分かった。三十分後に駅行くね。はあい。」
 携帯を置き、すぐさま着替えを準備する。ランジェリーは透き通る白いレースの掛かった桃色。オーバーサイズのパーカーに、太ももをさりげなく主張する程度のショートパンツ。無駄毛の処理も毎日欠かしていない。メイクはブラウン系のアイシャドウと淡いピンクのリップとチークでナチュラルに仕上げる。
 手入れのしっかりされた自慢のミディアムヘアは、大学生になってすぐに明るく染めてしまった。サークルの歓迎会で仲良くなった男の先輩に、汗で湿った頭をなでられながら「染めた方がかわいいよ」と言われ、その次の日にドラッグストアで染色液を買った。パッチテストもせずに染めてしまったものだから、想像以上に痛くて不安と後悔に苛まれたが、結局何ともなかった。一気に垢抜けたような気がして、天にも昇る気分に浸りながらサークルの飲み会に出かけた。私を見て、その先輩は「かわいいじゃん」と言った。頭はなでてくれなかった。隣には、黒髪のスタイルのいい女がひっついていて、その後すぐに先輩とその女は姿を消した。
 あれからもっと明るく染めた髪をブラッシングして、アパートの部屋を出る。
 同級生の北川君は、大学に入ってすぐにその容姿と話術で男女問わず学年中に知れ渡った人気者。私もその群衆の一人だったが、講義でたまたま隣に座ったときに偶然にも好きなアニメで意気投合し、運良く連絡を頻繁に取り合うようになっていた。
 あの屋上の子に、想い人はいるのだろうか。チークの差していない頬を赤らめてしまう相手が。
さらりと風にそよぐ天然の黒髪を思い出しながら、駅までの道を急ぐ。
 五月の夜。太陽の暖かさの既に消えた道を駆ける。

 八月。屋上の女の子の姿を見ることはもう無くなっていた。
 ベッドの上、寝転びながら暮れかけた窓の外をいくら見つめても、あの少女の影は現れない。
 男が寝息を立てながらすぐ横で眠っている。セットで三万円もした白いブラが床に投げ捨てられている。
 先輩には彼女がいると言う噂があることを知っていた。青のインナーカラーが入ったショートカットの子なんだって。おしゃべりな女の先輩がそう言うのを、私はまるで興味のないような顔を作って聞いた。
 夏休みを目前にした昨日の飲み会は夜中の三時まで続いた。最後まで残って飲みに興じる先輩を見たのは初めてだった。もう歩けないほどに酔っ払う先輩の、それでも見事な口車に乗せられて、いつの間にかこのベッドの上にいた。
「先輩、好きです」
「ありがとう」 
「彼女いるって本当ですか」
「いないよ」
「でもこの前」
「黙って」
 私も随分酔っていた。先輩は今日も、この前より汗だらけになった髪をなでてくれた。それだけで良かった。
 もう日が沈む。蜩が夏の暑さを助長する。女の子はまだ来ない。夏休みの宿題に追われているのだろうか。
 姉の夢は警察官だった。しかし高校を卒業した直後に子供を身ごもり、入学の決まっていた警察学校を諦めて母親になった。息子が七歳になった今も、姉はその子の父親を明かしていない。
 でも私は知っている。姉が通っていた柔道教室にいた青年。指導者の助手を務め、姉と年が近く、仲の良かった二人。毎回のように彼の車で家まで送られ、去って行く車に手を振る姉の顔は、確かに女の顔だった。小学生だった私は、見てはいけないものを見たような気がしていた。
 部屋は街灯の明かりだけがぼんやりと白い。もう完全に夜になってしまった。女の子が来ることはもうないのだろう。こんなに暗いと落っこちてしまいかねない。
 身体を起こして、カーテンを閉めた。灯りを付けると、先輩がううんと唸りながら眩しそうに腕を顔の上に乗せた。
 私はまたベッドに戻り、彼の腕を顔から除けてキスをした。先輩から見た私の顔は、きっとあの時の姉の顔とそっくりだろう。
 明日は髪を切りに行こう。
 男の体重を感じながら、手を伸ばして灯りを消した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み