第14話 恋人が毎日可愛すぎてしんどい

文字数 3,187文字





俺とキコちゃんは、「好き」という気持ちをお互いに向けているのを確認し、そろそろ一週間ほどが経った。その間は大変だった。そりゃあもう大変だった。

何せ、両者間の了解が取れているので、「もう気持ちを解放していい」わけだ。しかし、キコちゃんは恥ずかしがり屋だし、怖がりだ。彼女に強く迫ったり、可愛い可愛いと好き放題に言い続けてみろ。キコちゃんはそれがあんまりに嬉し過ぎて、そのストレスで病気にでもなるんじゃないかというくらい、彼女は感受性が豊かなのだ。これは冗談でもなんでもない。俺と目が合うだけで、彼女は真っ赤になってもじもじし始めるんだぞ。だから、俺はあんまり彼女に好きだ好きだと言えなかった。

そして、もう一つ大きなイベントを、俺たちはまだ体験していない。


“キス”である。しかし、これには俺もそこまで気乗りがしていない。というより、俺だって少しは恥ずかしいのだ。


高校生にもなってした初恋の相手に、大人しく「はい」と言われたのだから、まず、俺の舞い上がりようは生半可なものではない。この間は「告白をした翌日、目が覚めてからぎこちなく挨拶をした」と言ったように思うが、実は俺はあの晩は寝ていない。眠れなかった。理由は初めに述べた。「高校生にもなってした初恋の相手との恋が叶った」のだ。これがどれほど俺の心臓を苦しめ、胸を押し潰し、瞼を急がせたか?それは誰だって聞かなくてもわかるだろう。

“薔薇色の人生”。そんな言葉はよく耳にするが、まさか本当にそんなものがあるとは思わなかった。あらゆる人間の欲望を凌駕するものが“素敵な想い人と過ごす時間”なのだ。そういう赤っ恥ものの台詞が頭に浮かぶくらい、俺はどうにかなってしまっていた。

可愛い可愛いキコちゃんがいつも家で待ってくれていて、俺が帰ると、大喜びしてひっついてくる。そうして一緒にテレビなどを観ているとき、いつの間にかキコちゃんは俺のパーカーのポケットの中でお菓子を頬張っていたりする。バイトに出かけて帰ってくると、彼女は眠そうに目をこすりながらまた「おかえり」を言ってくれて、俺が眠るのを待ち切れずに、小さなおもちゃのベッドの中で丸まって、清らかな寝顔でほんの小さな寝息を立てている。


これが「初めてできた彼女との毎日」だと考えてみてくれ。ちょっとおかしくないか?


まず、一緒に住んでいる、つまり同棲しているところから話が始まるカップルは、そうそういないと思う。普通、初めのうちは「大好きな人と過ごす、心臓が弾けそうなほど大切な時間」を、「デート」とかで何度か体験して、まあ年齢にも寄ると思うけど…その…そのあとのことは置いておくとして。とにかく、「毎日一緒に暮らしている初恋の人」なんていう、おかしな状況にはならない。でも俺たちの場合はそうなのだ。


心臓がもちやしない。彼女が目の端に映るだけでも胸が高鳴るし、どうかなってしまいそうなほど嬉しいのに、家に帰れば必ず彼女はいつでもそばにいるのだ。一日も休みなく、俺はときめきっぱなしなのだ。正直、「そろそろ心臓発作とか起きるんじゃないかな」と思った瞬間が二つあった。

それは、3日目の朝、目が覚めたときと、5日目の夕方、キコちゃんが初めてジャムの乗ったビスケットを食べたときだ。


俺たちが想いを通じ合わせて3日目の朝、俺は昔の夢を見ていた。たまに見るのだ。俺は4歳のときの姿のままで、亡くなった父さんと母さんが俺を抱いていた手をほどき、そして微笑んだまま俺に手を振って、俺を置いて行く。俺は「ああ、またか」と思い、ある程度整理のついた思い出が薄れていくのを見送りながら、日光の明るさが瞼を透かすのを感じていた。

するとそこで、何かが俺の頬をぐいぐいと押す。薄目を開けて様子を窺おうとしたとき、目の前に起き抜けのキコちゃんがいて、彼女は心配そうに俺を覗き込んでいた。

「あ、おはよ…」

俺はその時点でもうすでに胸がどきどきとして、早く起き上がって彼女とちょっと距離を取りたかったけど、キコちゃんはこう言った。

「かなしい夢、です…?」

「え…」

俺が「なんでわかったんだろう。もしかして変な寝言言っちゃったかな」と思っていると、キコちゃんは俺の頭の上まで頑張って腕を伸ばして、手で撫でようとしてくれた。でも、キコちゃんはバランスを崩して、俺の顔に向かって倒れ込んでしまったのだ。

「きゃっ!」

「んむ…!?」

俺たちは同時に叫び声を上げたけど、俺の口と鼻はキコちゃんの体に塞がれていた。つまり、彼女は俺に向かって覆いかぶさる形だ。彼女の体の小さく柔らかな曲線が、俺の鼻と口を覆っていた。


死ぬかと思った。本当に死ぬかと思った。むしろさっさと穴を掘って埋まりたかった。

「きゃー!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「いや!俺こそごめん!本当にごめん!」

キコちゃんはそのあとも俺に謝っていたけど、すごく恥ずかしそうだったし、むしろ初めに謝るのは俺なんじゃないかと思った。そうやって「ごめんなさい大会」をしているうちに、悪夢を見たことなど、俺は忘れていた。



そして、ジャムが乗ったビスケットのとき。それは、俺の告白から5日経ち、スーパーで新しく買って帰るお菓子を物色して、食べたことのないお菓子に喜ぶキコちゃんの顔を思い浮かべ、俺が胸をホクホクとさせながら家に帰った日のことだ。

いつものように彼女に迎えられ、部屋着になって彼女とテレビを観るときにビスケットをキコちゃんに渡すと、彼女はまたとても嬉しそうにそれを食べていた。

「素晴らしいです!とても美味しいです!この赤いのが、サクサクの“びすけっと”とよく合います!」

“赤いの”とは、いちごのジャムだ。

「うんうん、そうだよね、それ美味しいよね」

俺が何気なくそう言うと、彼女は振り返って俺を見つめた。

「どうしたの?」

彼女はどこかさみしそうな顔をしたあと、俺に向かってビスケットの残りの欠片を差し上げた。俺は、“「あーん」がまたしたくなったのかな?”と思ってちょっと恥ずかしくて、「俺は大丈夫だよ」と言いかけた。でも、その前に彼女は潤んだ目つきで俺を見上げて、こう言ったのだ。

「キコだけこんなおいしいもの食べるなんて、キコ、ずるいです…!一也さんにも食べて欲しいです…!」


よく俺はあのとき正気でいられたなと思う。なんて健気で、なんていじらしいんだ。君は天使か何かだったのか、キコちゃん。



そんなこんなで俺は、「特に何も変わっていない日々」なのに、「初恋」として過ごすのには命がいくつあっても足りないのではないかという、とても大変な毎日を過ごしていた。



俺は今、学校からの帰り道を、バス停を降りてテクテク歩いている。今日のホームルームで、担任の東先生が言ったことを思い出しながら。


「では一同、夏休み中は健康に気をつけて、課題はとりあえず終わらせておくくらいの気合いは見せるよーに。それから、先生から付け加えることがある!」

そう言って先生は出席簿で教卓を一つ叩いた。

「花火を人に向ける!ふざけて人を川や海に突き落とす!崖や山なんかの立ち入り禁止区域に入る!こういう奴らには、必ず先生が自慢の両腕で制裁を下す!よーく覚えとけ!それでは夏休み、きっちり思い残しのないよーに!解散!」

まあ、正しい大人の意見だ。でも先生、あなた学校の教師でしょ。もうちょっと課題に関する話のウエイトは重くてもいいんじゃないかと思います。あと、あなたの「自慢の両腕」は、それらの危険を冒すこと以上に、俺たちにとって危険な場合もある気がするんですが。

そうは思ったけど、まあそれでクラスメイトは全員元気に返事をしていたし、本当にうちのクラスは平和だ。いい先生に当たったよな。


夏休みか。思い残しのないように過ごすには、やっぱり…。俺はその先を考えるのさえ躊躇するつたない心で、家で俺を待つキコちゃんのことを考えていた。




つづく
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