巨人の見下ろす場所で。

文字数 8,071文字

 午前九時五分に山手線池袋駅を降りて、改札を抜けてJR線から西武線のホームに向かう。夏休みシーズンで、濁流の如くどよめき入り乱れる駅構内は蒸し暑く、コンクリートの壁や天井に遮られているお陰で空気が澱み、埃っぽくって肺に負担がかかるような気がする。こんな気分にさせるのは、急に休暇を与えられて何をしていいのか分からず、とりあえず様々な路線が入り乱れる大きな駅に来たが目的は特にない。という人物が醸し出している中途半端な混沌がにじみ出ているのだろう。
 僕はその夏休みを満喫しようと必死になっている老若男女の濁流を乗り越え、西武線の駅に着いた。改札を乗車券と特急券で潜ると、僕は秩父方面に向かう特急のホームに入った。ホームには真新しい銀色の特急ラビューがすでに停車しており、乗務スタッフの人達が出発の準備を整えていた。電車の隣には、夏休みを秩父方面で過ごそうとする家族連れや、日本の自然を見て行こうという外国人のグループが二組。僕が乗る電車は今日の始発列車だから、それ程乗客が少ないのかもしれない。僕は空いている時間を利用し、車内で食べる朝食用のサンドイッチと無糖の紅茶を買った。
 暫くして場内アナウンスがあり、乗車の準備が整った事が告げられる。特急に乗るのは、去年の秋に福島に向かう新幹線以来だから、約一年ぶりだ。僕は車内に入り、まだ新しい匂いが漂う車内へと入る。そして特急券に指定された窓際の座席に座り、スマートフォンを取り出してショートメールを打った。

「現在池袋駅。特急に乗りました。これより向かいます」

 僕はそう書かれたショートメールを送信して、列車が発射するのを待った。そして暫くすると発車のサインが鳴り、デッキの乗降口の扉が閉じて、列車がゆっくりと走り出す。ここから西武秩父の駅までは、一時間半も掛からない。僕はその短いが特急の席にいるという時間をうまく活用しようと思い、何をしようか考えた。
 列車はまずは西武線沿線の住宅街を走り抜けた。各駅停車の電車とは異なるから、何てことない普通の住宅街の景色、線路沿いの看板や踏切、住宅に駅のホームで列車を待つ人などが、何かの見世物の様に映る。自分が特急に乗っているという優越感がそうさせるのだろうか。それならホームに立つ人は、劣等感を抱いているだろうか。
 所沢に入ると、コンクリートの建物が密集している気配が消えてなくなり始めた。そろそろ〝田舎〟と呼ばれる地域に足を踏み入れた始めた頃だ。停車駅は所沢を抜けると入間、飯能、横瀬、西武秩父の順だから。そろそろ窓越しに映る景色に緑と土の気配が強くなってくるはずだ。
 所沢を抜けて、入間に差し掛かる。僕はさっき売店で買ったサンドイッチを食べ終えて無糖紅茶を飲み、次に何をすべきか考えていた。リュックサックに忍び込ませたノートパソコンを開いて、書きかけの小説を書いても良かったのだが、窓の面積を大きく取った観光用の特急列車でそんな事をする気分にはなれなかった。そういう事をするのは、国際線のビジネスクラスや新幹線の指定席でするべきだと僕は思った。
 そうしてする事が無くなった僕は、自分のスマートフォンにイヤホンを繋いで、今僕が乗っている列車と、その車窓を流れる景色に相応しい曲を流そうと思った。ポップスや洋楽は似合わないので、僕はクラシックの曲を選んだ。作曲家順に並んだフォルダをみて、僕はどの作曲家の曲を流そうかと悩んだ。シューマン、シューベルト、リスト、ヘンデル、ラヴェルなど。どれにしようか悩んでいると、スマートフォンの画面に淡い青色の光が反射した。何だと思って外を見ると、そこには抜けるような武蔵野の青空と、その光を受けて輝く緑の草木があった。青空には夏雲が浮かび、悠々とした時間が流れている。込み入った事ばかりが繰り広げられる、東京の都心とは違う時間の流れ方。まるで大きなものが揺らめいているようだ。
「あれだ」
 僕は小さく声に出して、スマートフォンの画面をスクロールさせた。そしてマーラーのフォルダを見つけると、交響曲一番ニ短調「巨人」第二楽章を再生する事にした。
 弦楽器の演奏が始まると、僕はその選択が正解であることに気付いた。青々とした夏の武蔵野に、マーラーの大らかで力強い曲は自分の身体をゆだねるような安心感と余裕に満ちていた。大らかで余裕のある景色と音楽に包まれている、ちっぽけな自分。僕は今まで小さく狭いところに居たのだという実感が、今になって分かって来たような気がした。


 それから僕を乗せた特急は入間、飯能、横瀬を抜けて西武秩父の駅に着いた。僕は列車を降りて、スマートフォンを確認し、ショートメールが送られている事を知って画面を開いた。

「現在向かっています。駅のロータリーに居てください」

 返事にはそう書かれていた。メールの受信した時刻を見ると、今から約三十分前だった。
 僕は改札を抜けて西武秩父の駅に出た。モダンな駅舎と観光客相手の複合施設が目に入ったが、それ以外は少し寒々しい、山奥の私鉄の駅と言った趣だった。乗り場で客待ちしているタクシーも、都内では見かけなくなった古い車種が多い。中古で流れて来たか、都心と違い酷使されていないのだろう。もしここの時間がゆっくり流れているならば、今僕の背後に控えている観光客相手の建物は、都会の理屈と時間の流れを呼び込むこの土地には似つかわしい存在だ。
 そんなことを考えながら周囲を見回していると、一台の軽自動車が目に入った。フロントガラスの向こうを見ると、見覚えのある顔がそこにはあった。高校の同級生で、田舎に引っ越して絵を描いている土岡美穂だ。
 軽自動車は僕の前に停まり、助手席側の窓が降りた。
「久しぶり。新しく出来た特急はどんな感じだった?」
 土岡は再会の挨拶も簡単にそう僕に言った。
「綺麗で快適。自分で車を運転してくるより楽だったよ」
 僕はそう答えた。
「荷物はそれだけ?後ろの席において乗りなよ」
「そうする」
 もうお互い二十代も終わりに近づいている年齢であるにも関わらず、土岡の言葉にはやつれたような言葉が無かった。四季の移り変わりが東京よりも明確で、草木の呼吸が聞き取りやすいこの土地に居ると、そうなるのだろうか。
 僕は荷物を後部座席において、軽自動車の助手席に座り込んだ。シートベルトを締めると、土岡は軽自動車を走らせ始めた。
 軽自動車は駅前を抜け、山梨方面に繋がる道路である国道一四〇号に入り、山梨方面へと向かった。背の低い建物が並行して続く道路の向こうに、大きく深い緑に染まった山々と青空が見える。来るときには気付かなかったが、この土地は山と空に抱かれた特別な場所であるような気がした。
「向かう先は、奥秩父の方かい?」
 僕は運転席の土岡に質問した。
「奥秩父のちょっと手前、国道から少し離れた場所にあるわ」
「そう。こっちに来てもう何年経つんだ?」
 僕は続けて土岡に質問する。
「柴田君の所にお世話になるようになってから、もう二年くらいかな。離婚して行き場所を求めていたら、たまたま柴田君から個展を開く連絡があって、その後色々あってこっちに来た感じ。子供ももうすっかり田舎の子供になったわ」
 土岡の言葉を聞いて、僕は無言で頷いた。そして土岡がここに来るまでの事情を、自分が知っている範囲で思い出した。


 土岡と柴田は僕の高校時代の同級生で、土岡と柴田は当時交際関係にあった。二人は美術日に所属していて、土岡は絵画を描き、柴田は木工や陶芸などの立体物を作って、区のコンクールなどに出品していた。僕は文芸サークル希望だったが、生憎そういう事をする部活動が僕の高校には無かった。僕は宙ぶらりんな放課後を過ごす事が多かったが、土岡と柴田は美術を通じて人間の深い部分で繋がりを持っていた。具体的にどんなやり取りや関係があったのかはわからないが、今の土岡が柴田の元に来ているのだから深い物だったのだろう。
 それから僕達は三年生になった。そして受験を迎え、僕は二流私立大学の文学部哲学科に、柴田は都内にある名の知れた美術大学に進学した。土岡も柴田と同じ大学への進学を望んでいたが叶わず、私立の一般大学に進学した。僕達三人はこれからも友人であり続ける為に、お互いの連絡先を交換したが、大学の勉強やらアルバイトやら、或いは自分に必要な資格を取る為に忙しくなって疎遠になっていった。その時の土岡と柴田がどんな関係は「高校時代に交際していた」という一言で説明されてしまう関係に落ちぶれていたと思う。
 そして大学を卒業した時、僕は高校時代の別の同級生から、土岡が結婚したという報せを受けた。なんでも大学の美術サークルの先輩と恋仲になり、卒業と同時に結婚したという。その事を知った時、僕は少し残念な気分になった。美術部の部屋で表現方法は違っても、繋がり合っていた筈の柴田は単なる通過点でしかなかったのか。という夢破れたような気分が。その付き合っていた柴田は、東京のデザイン会社に就職したという話をその同級生から聞かされた。
 それから二年ほど経って、流行に乗って始めたSNSの中で僕は強い衝撃のある事を知らされた。土岡が夫の家庭内暴力が原因で離婚したという事を知ってしまったのだ。しかも土岡には生後二か月になる男の子が居て、子供を抱えたまま何も残っていないという事実を。本当なら僕も同級生の一人として手を差し伸べたかったが、複雑な事情故に簡単には出来なかった。そうして半年ほど月日が流れた秋の日、同じくSNSで友達になった柴田が土岡にこう言った。
「今僕は秩父で小さなアトリエを開いています。山奥の田舎ですがアシスタントを探しています。良かったらお子さんと一緒に来ませんか?」
 その提案を土岡は受け入れた。僕が知っているのは、そこまでの事だ。



 僕が乗った土岡の運転する軽自動車は、観光客向けのレストランや蕎麦屋などが立ち並ぶ地域を抜けて、人家のまばらなエリアに入った。そして完全な山奥に入る少し手前で脇道に入り、そこから二〇〇メートルほど進んで畑と民家が少し立ち並ぶ場所に出た。そして道路脇に『柴田制作研究所』と書かれた木製の立て看板を見つけると、車は矢印に示された左方向に曲がって、そのまま山の方へと未舗装の道に入った。そしてその先に一台の軽トラックが目の前に停車しているログハウスが目に入った。
 軽自動車は軽トラックの隣で止まり、土岡はエンジンを切った。僕はシートベルトを外しながら、目の前に佇むログハウスを見た。ここが柴田のアトリエ兼直売所か、と思うと同級生なのに随分差をつけられたなと思った。
 僕は土岡と共に車を降りて、荷物を手に持った。何気なく佇むと、今年は夏の到来が遅いから、弱々しいセミの鳴き声が聞こえてくる。
その音を聞いて自分が山郷に来た事を改めて自覚すると、僕は建物に入った。ここに来た理由は文学賞に応募する小説を書き上げる為だ。執筆に相応しい場所が無いかと何気なくSNSで呟いたら、柴田が遊びに来るついでに来ないかと誘ってくれたので、僕はその厚意に甘える事にしたのだった。
中に入ると、乾燥した木材だけが放つ、あの芳醇で粘っこく、そして何処かに甘さを持った香りが僕を包み込んだ。申し訳程度の証明に照らされた店内の棚には様々な木工品が並び、マスコットのようにデフォルメされた小さなクマや、比較的大きな狼の木工品まで様々な物が並んでいた。二歩ほど進んでさらに店内を見回すと、奥には陶芸品なども並んでいた。木工と平行して焼き物も制作しているのだろうか。 
 そうして見とれていると、店内の奥で小さな何かが蠢く気配がした。何だと思って視線を移すと、四歳くらいの男の子がてくてくと僕と土岡の元に歩み寄って来た。
「お帰りなさい。お母さん」
「ただいま由悠季。いい子にしていた?」
 土岡が嬉しそうな声で答えると、由悠季君は首を縦に振って頷いた。そして隣に立っていた僕に視線を移し、僕の目を見た。
「はじめまして。僕がお母さんの同級生の水原です。よろしく」
 僕は優しくそう自己紹介した。
「土岡由悠季です。はじめまして」
 由悠季君はかしこまった表情でそう答えてくれた。
「健一は奥にいる?」
 土岡は由悠季君にそう尋ねた。健一と言うのは柴田の下の名前だった。
「うん。作業中」
 由悠季君はそう答えた。僕と土岡は由悠季君の案内で奥の方へと向かった。
 店舗の少し奥に入った作業からは、木材を彫刻刀で削る微かな音が聞こえてくる。僕は由悠季君の背中を見つめながら作業場の入り口まで来ると、中を覗いた。そこには無精ひげを生やし、高校時代とは比べ物にならない程、職人気質な顔つきになった柴田が額に汗をにじませて、木箱の表面に彫刻刀で模様を掘っていた。
「健一さん。お客さんだよ」
 由悠季君の言葉を耳にした柴田は手を止めて、入り口に立つ僕を見た。すると彼はそれまで浮かべていた職人の表情を消して、朗らかに微笑んでこう言った。
「よう水原。来たか」
「来たよ」
 僕はそれだけ答えた。
「新しい特急はどうだった?」
「快適さ、自分で運転する必要がないから」
 僕がそう答えると、柴田は鼻で小さく笑った。
「いい場所に拠点を構えたよね。ここなら時間の流れが都会よりゆっくりだと思うし、四季の個性がはっきりしている。創作にはもってこいだ」
 僕が言うと、柴田は照れくさそうにまた小さく笑い、こう言った。
「さすがに新人賞を取り逃がした人間の言葉は上手いな。ここで立ち話もなんだから、奥に来いよ。もうすぐ早めの昼ごはんにするんだ」
 その言葉を聞いて、僕は左腕にはめた腕時計の時刻を見た。午前十一時十五分。これから料理を作れば、ちょうどいい感じに昼時だ。
「そうするか。何か手伝おうか?」
 僕は柴田に質問した。
「特には無いよ。居間の方へ行こう」
 柴田の提案で、僕達は居間に移動した。



 僕は土岡と柴田、それに由悠季君と共に仕事場のさらに奥にある居間に通された。僕は畳の上に敷かれた座布団に腰掛け、周囲を見回す。てっきり古民家や山小屋風の内装だろうと思っていたが、畳敷きの少し古い日本家屋と言った趣の部屋で、以外にも庶民的な感じだった。土岡と僕は居間に残り、柴田は台所の方へ向かっていった。昼食のメニューは地元野菜の野菜天ぷらに地元産のそば冷やしで食べると言う事になった。
「料理は分担制なんだ。お互いに働いているから」
 土岡は席に着いて待つ僕にそう言った。
「土岡もこっちで仕事を見つけたのかい?」
「一応。この店のアシスタントと、土曜日に峠道のカフェで不定期アルバイトを。ちょっとでも現金収入が無いと大変だから」
 少し照れたような言い方で土岡が応えると、僕は無表情に頷いた。
「こっちでの生活は順調なのかい?」
 僕は立て続けに質問する。
「一応ね。幼稚園にも今年から入れる事になったし。でもまだ気は抜けないと思う」
 土岡はそう答えた。確実な生活基盤が必要だという事は、彼女の今までの人生経験から得た教訓なのだろう。
「そうか」
 僕はそう相槌を打った。自分の足場を固めて新たな事をしようと模索している土岡に、的確なアドバイスなんて必要なかった。
「水原はどうなの?」
 今度は土岡が僕に質問してきた。僕は突然の事に面食らったが、すぐにこう続けた。
「仕事をしながら執筆活動を続けているよ。目に見える形での評価がまだないから、兼業小説家を名乗る事は出来ないけれど」
 僕の言葉に土岡はこう答える。
「でも羨ましいよ。健一も水原もやりたいというか、表現したい事があって。私も昔みたいに絵を描いて発表してみたいよ」
 土岡は言葉の最後を弱々しくさせながら、自嘲気味に言った。
「描きたければ、描けばいいじゃないか」
 僕は軽い気持ちでそう漏らした。
「そうはいかないわよ。今の私は一人息子がいるシングルマザーだし、生活の為に頑張らないといけない。人間の能力キャパシティが仮に一〇〇きっかりで区切られているなら、もう余裕なんて残っていないよ」
「でも」
 僕は何か言葉を返そうとしたが、何かを頭の中で思い描いている土岡の表情を見て、何も言わない事にした。
 それから程なくして、美味そうな揚げたての天ぷらを柴田が運んできた。続いて地元産のそばが茹で上がり、そのまま僕達は昼食に入った。


 地元産のそばは東京のそば店で食べるそばより面が太く、柴田のゆで方が上手なのかしっかりとした食感の僕好みのゆで方だった。地元野菜の天ぷらは肥沃な土地で育ったのか、あるいは普通に出荷される野菜より生育に手間がかかっているのか、味が濃かった。
 食事が終わると、僕は三人と共に緑茶を飲んでから、土岡の案内で空いている部屋に通された。部屋は窓から山里の景色が見える四畳半の、木彫りの上等な机に座布団が一枚あるだけのシンプルな部屋だった。
「ここなら、執筆に集中できるでしょ。テレビも冷蔵庫もないから」
「ああ、ありがとう」
 僕はそう答え、腰を下ろして執筆に掛かる事にした。

 執筆はそれから三時間程時間を掛けた。書いた量は文字数にして四五〇〇文字弱。遅筆を自覚する僕にとっては珍しいくらいの執筆量だ。おそらく同じ建物に現役のクリエイターが居るのと、普段の執筆環境とは大きく異なるのが原因だろう。自分では気分が高揚している感覚が全くないが、執筆と言う内面的な活動を行うとそう言う気分になるのかもしれない。
 ある程度区切りの良い所まで筆が進むと、僕はノートパソコンの隅にある時計を見た。十七時八分。窓の外を見ると日はまだ高いが立派な夕方になっていた。
 僕は文書ファイルを保存し、ワードを閉じた。そして畳の上に寝転がり、しばらく目を閉じて惰眠を貪った。
 暫くすると、扉の向こうで土岡の気配がした。
「執筆は終わった?」
「ああ」
 僕はそう答えた。
「夕飯の準備があるんだけれど、手伝ってもらえる?」
 僕はその言葉を聞いて起き上がった。
 夕食は秩父名物の秩父ホルモンになったらしい。柴田はホルモンを買いに行く為に車で由悠季君と出掛けた所だった。残された僕と土岡はホットプレート等の準備や野菜の切り出しなどを行って帰りを待つことになった。
 手持ち無沙汰だったので、僕は土岡に勧められて冷蔵庫で冷えていた缶ビールを一本貰った。席に着き一口飲むと、反対側の席に着いた土岡がこう言った。
「ねえ、相談があるんだけれど」
「なんだ?」
「単刀直入な事で悪いんだけれど、私が健一と一緒になるのはどう思う?」
 その質問を聞いて、僕はもう一口ビールを飲んだ。
「反対する訳ないよ。君は高校の時から好きだったんだろ?」
 僕の言葉に、土岡は頷いてこう続けた。
「出来るなら、彼のそばに居たい。由悠季も本当の父親より好いているし、一人の母親として由悠季を育てないといけないけれど、彼のこれからを支えたい気持ちもあるの」
「大丈夫だよ」
 山の湧水の様に澄んだ言葉を紡ぐ土岡に、僕はそう答えた。
「柴田はここに来て大きな心を持った優しい奴だよ。この秩父で柴田と一緒に由悠季君を育てれば、きっと大きくて優しい人間に育つと思うよ。ここには大きな人が居る。君もその一人だよ」
 僕はそう答えた。この土地にはオーケストラのように大きくて心の豊かな巨人が見守っているのを僕は知っていた。
「僕が去ったら、打ち明けるといいさ」
 僕はそう答えて、またビールを飲んだ。土岡は静かに頷いて小さく微笑んだ。
                        
                                    (了)
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