さあ眼の前のあの子を撃ち抜いてみせろよ
文字数 5,686文字
先輩がそう言うのでわたしはスマートフォンの日付を確認した、九月の二十三日だった。
文芸部の部室――といってもただの空き教室だ。エアコンはある程度きいている。年々増え続ける熱中症についにこの公立高校も重い腰をあげて、冷房を設置してつけっぱなしにしているのだ。
わたしは俯いた。気恥ずかしくてなにも言えなかった。もともとがあまり喋らない性質だということもあるが、このひとはどういうわけか人の思考を先読みしがちなので喋る必要性があまり生じないのだ。
氷みたいな美貌とその性質、そして生来の変わり者であることがあいまって、この文芸部に残ったのは先輩ともうひとり、わたしだけだった。最初は硝子の女王とか言われていた先輩目当てにこの高校の新入生ほとんどが詰めかけたが、彼女は「ようこそ!」と大量の爆竹を室内で爆発させたのでわたし以外の全員が逃げた。「外国のお正月式はどうも好まれないらしいね」先輩は不思議そうにすると、するりと手を上げた。爆竹の残骸は一瞬で消えた。
足音すら立てず、衣替えしたばかりのスカートの裾を翻して、先輩は猫のように静かに教室を出た。
机を叩く。
びりびりびり、と拳が痺れる。
――やってやろうじゃあないか。
あのいけ好かない先輩に、わたしの物語で一泡吹かせてやる。
わたしはノートを隅から隅まで見返した。使えるアイデアがいくつか――いいや、ダメだ。手癖じゃだめだ。
わたしは唯一人を撃ち抜かないとならないのだ。
帰り支度をする。文房具屋に寄らなくてはならない。考えをまとめるためのノートが必要だ。
自転車置き場においてあるいつもの通学用自転車に跨る。
文房具屋でノートとボールペンの替芯を買ったあと、立ち漕ぎで全速力で家に帰った。
見ていろ、見ていろ、見ていろ――いや、見てなんか居ないんだ、あの人は。
首根っこ引っ掴んで、その長くて白い首をひねりあげて、無理やりこちらを向かせてやる。
こうして、わたしの戦いは始まった。
世界が滅ぶまで、あと一週間。
わたしは学校を休むことにした。なにがなんでもこの一週間は行かないと頑として譲らないわたしに両親はついに諦めたらしい。大学生をやっている姉はバイトやら講義で忙しくもともと特に関心がないのか、なにも言わなかった。
貯めていたお年玉でノートパソコンを購入した。家族共用のものはあったがそれでは作業に集中できない。お年玉はけっこうな額があったから、共用のパソコンで調べてとにかくすぐに届いてスペックの高いものを代金引換で購入することにした。幸い家の中には無線LANが走っている、これで作業中の調べ物には困らない。
パソコンが届くまで何冊かノートを消費した。あの人になにを見せたいかを最初は考えていたが、わたしが何を書きたいかが重要だとそのうち気づいた、
もっと整理しなくては、もっと煮詰めなくては、もっと研ぎ澄ませなくては。
わたしはあのひとに勝利しなくてはならない。
でなければきっと、この先の人生負けたままだ。
そんなの――そんなの、死んでいないだけで、生きているとは。生き残っているとは、到底言えない。
そんなの、世界ごと滅んだほうがまだましだ。
世界が滅ぶまで、あと六日。
夜中の何時だかわからない時間まで小学生の頃から使っている学習机のうえで、ノートにかじりついて、ああ外がなんとなく明るいなと思って、気づいたら眠ってしまっていたらしい。玄関のチャイムの音で目を覚ました。注文したパソコンが届いていた。わたしは寝ぼけ眼でサインをして、昨日あらかじめ銀行から下ろしておいたお金を支払った。セットアップをしながら、ノートのアイデアの中で使えそうなものを更に広げた。インターネットに接続し、使いやすそうなテキストエディタをダウンロードする。このへんの下調べを昨日のうちにしていてよかった。
やってやる。
絶対に、やってやる。
息を吸う。吐く。エディタを機動する。マーカーだらけのノートを机いっぱいに広げる。
書き始める。
わたしの世界が、現れはじめる。
今まで形にすることを恐れていたものが――文章という形になって、現出していく。
世界が滅ぶまで、あと五日。
部屋の入り口から、姉が心底から呆れたように声をかけてくる。
わからなくなった、と机に突っ伏したままわたしは返事をした。
三日間、わたしはノートパソコンに向き合い続けた。幸いなにを書きたいかは書いているうちに見えてきたし、設定の矛盾もなくわたしは第一稿を書き終えた。といってもそんな超大作というほどではない、せいぜいが一万字にも満たない短編だ。
わからなくなってしまった。書き終えた瞬間、この小説が果たして世界を救えるほど――いや、あの先輩の心を動かせるほどのものなのか、否、誰かの何かをぴくりとでも動かせるような価値がこれにあるのか、全く自信がなくなってしまった。
姉は呆れたような顔で鍋やら何やらが乗ったお盆を一旦、手近な棚に置いた。
鍋焼きうどんには海老天とかまぼこと油揚げとネギ、それに半熟卵が入っていた。豪華なそれをわたしは部屋でひとり、湯気やらなにやらで鼻をすすりながら食べた。
言われた通りに風呂に入り、明け方の住宅街を気が済むまで歩いた。ずっとろくに運動していなかったから、すぐにふくらはぎが筋肉痛になった。けれど朝の澄んだ空気は悪くなくて、ああこの世界に終わってほしくないなと思った。九月も終わりの季節だけれどそれなりに気温はあって、それなりに汗をかいてわたしは帰宅した。姉の言った通りお風呂は新しく沸かしてあった。ありがとう、と心の中でつぶやいてわたしはもう一度入浴し、風呂を洗って洗濯したばかりのパジャマに袖を通した。
その頃にはわたしの瞼は閉じかけていて、布団に潜り込むと久しぶりに、本当に久しぶりになにも考えずに眠った。
次に目が覚めたら、何か、掴めなかったなにかが掴めているような――そんな気がした。
世界が滅ぶまで、あと二日。
わたしは紙の束を手渡した、バックアップはとって、この人のためだけに体裁を整えて印刷した。
今のわたしの全力を、先輩は手にとった。どこかから出してきたモバイルバッテリーとUSBライトを使って、彼女はそれを読み始めた。
先輩も、わたしも、なにも喋らない。ただ無言で、紙をめくる音と静かな風の音だけが響いていた。暗い中、LEDの電源を頼りに字を辿る先輩の横で、わたしはただ座って屋上からの景色を見ていた。
誰もいない、平和な住宅街。先輩が言うにはわたしの作品が美しくなければ、このなんてことのない地方都市も滅びるらしい。それはそれで、なんだかどうでもいいような気がした。
先輩は一度読み終えると大きくため息をついて、また最初のページに戻った。何度も繰り返し同じところを読んだり、最初から最後まで何回か読んだり、時々大きく息をついたり、伸びをしたりした。そのうちに空が白んできて、わたしはそれを見つけた。
わたしの物語次第で、今日この日、世界が滅ぶ。
空から。
大きな大きな隕石が。
視界すべてを埋め尽くすほどの大きさの隕石が。
こちらへ目掛けて――明らかにこの校舎目掛けて落下してきていた。
逃げないと、とわたしは先輩の袖を引っ張る。
わたしの物語が、散らばる。
散らばって、先輩を守るように展開して、増えて――隕石を包み込むj。
そして。
隕石は、たくさんの、色とりどりの、花に変化した。
花は、まったく無害なわたしの知っている花ばかりで、マリーゴールドとか百合とか、薔薇とか、水仙とか、ガーベラとか、チューリップとか、本当に普通の花で――それが、街どころか見渡す限りいっぱいに散っていく、降っていく。それは当然だ、地球を押しつぶすくらいの隕石だったのだから。
夜明けの光とともに、世界中に花束が降り注ぐ。
あれから、しばらくが経つ。
花が世界中あらゆるところに落ちてきた、なんてニュースはとっくに忘れ去られて、わたしと先輩の文芸部は活動を続けている。最近、わたしはインターネットで小説の公開を始めた。ほそぼそとではあるが、読者はついている。
あの花束は、今でもわたしの机の上に飾ってある。
枯れないそれは、あの日の夜明けとともに、ずっとわたしの真ん中にある。
だから。
きっとこれからわたしは目も当てられない駄作も書くだろう、びっくりするほどの傑作も書くだろう。わたしはまだ高校生で、未熟で、勉強しないとならないことは山ほどある。
けれど――書きたいことも、山ほどあるのだ。
だからきっと、わたしはもう恐れない。
あの夜明けが教えてくれたのだ。
わたしにも、届けられる花束が――確かに、存在するのだと。
了