さあ眼の前のあの子を撃ち抜いてみせろよ

文字数 5,686文字

「世界はもうすぐ終わるんだよ、具体的には九月三十日に」

先輩がそう言うのでわたしはスマートフォンの日付を確認した、九月の二十三日だった。

 文芸部の部室――といってもただの空き教室だ。エアコンはある程度きいている。年々増え続ける熱中症についにこの公立高校も重い腰をあげて、冷房を設置してつけっぱなしにしているのだ。

「けっこう切羽詰まった日程だろう? 僕は魔女だからね、それくらいはわかるのさ」
わたしが疑問を口にする前に先輩は回答をさらりと述べた。わたしは先輩のそういうところが嫌いだった。
「うん、僕はきみのそういうところを好ましく思うよ」

わたしは俯いた。気恥ずかしくてなにも言えなかった。もともとがあまり喋らない性質だということもあるが、このひとはどういうわけか人の思考を先読みしがちなので喋る必要性があまり生じないのだ。


 氷みたいな美貌とその性質、そして生来の変わり者であることがあいまって、この文芸部に残ったのは先輩ともうひとり、わたしだけだった。最初は硝子の女王とか言われていた先輩目当てにこの高校の新入生ほとんどが詰めかけたが、彼女は「ようこそ!」と大量の爆竹を室内で爆発させたのでわたし以外の全員が逃げた。「外国のお正月式はどうも好まれないらしいね」先輩は不思議そうにすると、するりと手を上げた。爆竹の残骸は一瞬で消えた。

「さて、きみは入部希望者かい?」
はい、とわたしは答えた。こうしてわたしと先輩、二人きりの文芸部は誕生した。
「しかし世界を滅ぼさない方法はひとつだけある。ひとつだけあるというか、僕だけがそれを防ぐことができる。けれどそれにはいろいろと面倒な手続きが必要でね。僕としてはこんな世界ものもう滅んでしまっていいんじゃないかとすら思うのさ」
そうですか、とわたしは思って再びノートにペンを走らせた。書いているのはとりとめのない、わたしの中にある物語の断片だった。特にどこに発表する気もない、ただ書きたいから書き続けているだけ、そういうものだった。けれど。
「そのノート」
ぎくり、とわたしは固まった。
「いつも書いているものが、完成したのを僕は見たことがないね」
先輩はくく、と笑った。明らかにわたしを挑発していた。頬杖をついた先輩は彫刻みたいに綺麗だった、赤いリボンで束ねられた長い髪が夕日に照らされてさらりと流れた。
「九月三十日までに完成させたまえ。長さはどうでもいい、形式は――紙に印刷してもらったもののほうが有り難いな。世界を滅ぼしたくないのなら――生き残りたいのなら」
だって僕は知っているよ、と先輩は続けた。わたしにとって致命的な一言を。
「きみは誰より――世界に認められたがっている」
物語を書く人間なんてみんなそうだ。
「約束しよう。きみの中の物語が僕を動かすほどに美しかったら。その時は僕は、世界を救う」
一方的に告げて、先輩は向かいの席を立つ。
「僕のハートに火をつけることすらできないなら、きみの物語もその程度のものだろうからね。売れもしない、読まれもしない、この世の誰も見向きもしないさ」
そんな世界、存在していたって意味がないだろう?きみにとっては。
「もし、きみの物語が世界を救うに値するなら――世界中に花束くらいはプレゼントするよ」

足音すら立てず、衣替えしたばかりのスカートの裾を翻して、先輩は猫のように静かに教室を出た。

 机を叩く。

 びりびりびり、と拳が痺れる。

 ――やってやろうじゃあないか。

 あのいけ好かない先輩に、わたしの物語で一泡吹かせてやる。

 わたしはノートを隅から隅まで見返した。使えるアイデアがいくつか――いいや、ダメだ。手癖じゃだめだ。

 わたしは唯一人を撃ち抜かないとならないのだ。

 帰り支度をする。文房具屋に寄らなくてはならない。考えをまとめるためのノートが必要だ。

 自転車置き場においてあるいつもの通学用自転車に跨る。

 文房具屋でノートとボールペンの替芯を買ったあと、立ち漕ぎで全速力で家に帰った。

 見ていろ、見ていろ、見ていろ――いや、見てなんか居ないんだ、あの人は。

 首根っこ引っ掴んで、その長くて白い首をひねりあげて、無理やりこちらを向かせてやる。

 こうして、わたしの戦いは始まった。


 世界が滅ぶまで、あと一週間。


 わたしは学校を休むことにした。なにがなんでもこの一週間は行かないと頑として譲らないわたしに両親はついに諦めたらしい。大学生をやっている姉はバイトやら講義で忙しくもともと特に関心がないのか、なにも言わなかった。

 貯めていたお年玉でノートパソコンを購入した。家族共用のものはあったがそれでは作業に集中できない。お年玉はけっこうな額があったから、共用のパソコンで調べてとにかくすぐに届いてスペックの高いものを代金引換で購入することにした。幸い家の中には無線LANが走っている、これで作業中の調べ物には困らない。

 パソコンが届くまで何冊かノートを消費した。あの人になにを見せたいかを最初は考えていたが、わたしが何を書きたいかが重要だとそのうち気づいた、

 もっと整理しなくては、もっと煮詰めなくては、もっと研ぎ澄ませなくては。

 わたしはあのひとに勝利しなくてはならない。

 でなければきっと、この先の人生負けたままだ。

 そんなの――そんなの、死んでいないだけで、生きているとは。生き残っているとは、到底言えない。

 そんなの、世界ごと滅んだほうがまだましだ。


 世界が滅ぶまで、あと六日。


 夜中の何時だかわからない時間まで小学生の頃から使っている学習机のうえで、ノートにかじりついて、ああ外がなんとなく明るいなと思って、気づいたら眠ってしまっていたらしい。玄関のチャイムの音で目を覚ました。注文したパソコンが届いていた。わたしは寝ぼけ眼でサインをして、昨日あらかじめ銀行から下ろしておいたお金を支払った。セットアップをしながら、ノートのアイデアの中で使えそうなものを更に広げた。インターネットに接続し、使いやすそうなテキストエディタをダウンロードする。このへんの下調べを昨日のうちにしていてよかった。

 やってやる。

 絶対に、やってやる。

 息を吸う。吐く。エディタを機動する。マーカーだらけのノートを机いっぱいに広げる。

 書き始める。

 わたしの世界が、現れはじめる。

 今まで形にすることを恐れていたものが――文章という形になって、現出していく。


 世界が滅ぶまで、あと五日。


「あんた何やってんの」

部屋の入り口から、姉が心底から呆れたように声をかけてくる。

 わからなくなった、と机に突っ伏したままわたしは返事をした。

 三日間、わたしはノートパソコンに向き合い続けた。幸いなにを書きたいかは書いているうちに見えてきたし、設定の矛盾もなくわたしは第一稿を書き終えた。といってもそんな超大作というほどではない、せいぜいが一万字にも満たない短編だ。

 わからなくなってしまった。書き終えた瞬間、この小説が果たして世界を救えるほど――いや、あの先輩の心を動かせるほどのものなのか、否、誰かの何かをぴくりとでも動かせるような価値がこれにあるのか、全く自信がなくなってしまった。

 姉は呆れたような顔で鍋やら何やらが乗ったお盆を一旦、手近な棚に置いた。

「脳の働きにはブドウ糖が重要。この私が手ずから作ったうどんなんだから感謝して食べなさい、あんた朝も昼も食べてないでしょ。ここ一週間カロリーメイトとかで全部済ませて、食生活乱れすぎ。そりゃネガティヴにもなるっつーの」
姉はすばやくちゃぶ台(冬はコタツになる)に土鍋と麦茶の入ったポット、コップ、箸やらなにやらが乗ったお盆を置いた。土鍋の中身は鍋焼きうどんだった。
「まずはあったかいもの食べて、これ食べたらお風呂入りなさい。あんた臭い。んで散歩でもしてきて、そしたらまたお風呂沸かしておくから入って寝なさい」
でも、と反論しようとしたわたしを姉はひと睨みで制した。
「いま何時だと思ってんの?朝の五時。あーとかうあーとか五月蝿いったらありゃしない。お父さんもお母さんも心配してるよ。だから私が妹のケアを引き受けたわけ、五〇〇〇円で」
お金取るんだ……と言ったら、姉は怪訝そうに目を見開いた。
「労力にリターンが返ってくるなんて当たり前のことでしょう? 私はレポートやら睡眠やらを削ってそれをしているわけだから、これは正当な対価」
 言っていることはもっともだった。けれど本来わたしがそれを払うべきではないのかと思った。
「そう。それを肩代わりする程度には、お父さんもお母さんもあんたを応援してるってわけ」
だからありがたく受け取りなさい、と姉は笑った。
「あんたが何をしているのかは知らない。なんでそんなに必死なのかも知らない。けど、それだけ夢中になれる何かがあるって今気づけたなら。――これからの人生、そんなに悪いことにはならないんじゃないかな」

鍋焼きうどんには海老天とかまぼこと油揚げとネギ、それに半熟卵が入っていた。豪華なそれをわたしは部屋でひとり、湯気やらなにやらで鼻をすすりながら食べた。

 言われた通りに風呂に入り、明け方の住宅街を気が済むまで歩いた。ずっとろくに運動していなかったから、すぐにふくらはぎが筋肉痛になった。けれど朝の澄んだ空気は悪くなくて、ああこの世界に終わってほしくないなと思った。九月も終わりの季節だけれどそれなりに気温はあって、それなりに汗をかいてわたしは帰宅した。姉の言った通りお風呂は新しく沸かしてあった。ありがとう、と心の中でつぶやいてわたしはもう一度入浴し、風呂を洗って洗濯したばかりのパジャマに袖を通した。

 その頃にはわたしの瞼は閉じかけていて、布団に潜り込むと久しぶりに、本当に久しぶりになにも考えずに眠った。

 次に目が覚めたら、何か、掴めなかったなにかが掴めているような――そんな気がした。


 世界が滅ぶまで、あと二日。


「それで、完成したかい? きみの物語は」

 九月三十日、真夜中の二時。わたしは先輩を学校に呼び出した。警備やら鍵やらを無視して先輩とわたしは悠々と真夜中の校内を泳ぎ、屋上までの階段を登った。鍵がかかっているはずなのに、当たり前のように屋上の扉は開いた。
「それじゃ、見せてくれるかな」

わたしは紙の束を手渡した、バックアップはとって、この人のためだけに体裁を整えて印刷した。

 今のわたしの全力を、先輩は手にとった。どこかから出してきたモバイルバッテリーとUSBライトを使って、彼女はそれを読み始めた。

 先輩も、わたしも、なにも喋らない。ただ無言で、紙をめくる音と静かな風の音だけが響いていた。暗い中、LEDの電源を頼りに字を辿る先輩の横で、わたしはただ座って屋上からの景色を見ていた。

 誰もいない、平和な住宅街。先輩が言うにはわたしの作品が美しくなければ、このなんてことのない地方都市も滅びるらしい。それはそれで、なんだかどうでもいいような気がした。

 先輩は一度読み終えると大きくため息をついて、また最初のページに戻った。何度も繰り返し同じところを読んだり、最初から最後まで何回か読んだり、時々大きく息をついたり、伸びをしたりした。そのうちに空が白んできて、わたしはそれを見つけた。


 わたしの物語次第で、今日この日、世界が滅ぶ。


 空から。

 大きな大きな隕石が。

 視界すべてを埋め尽くすほどの大きさの隕石が。

 こちらへ目掛けて――明らかにこの校舎目掛けて落下してきていた。


 逃げないと、とわたしは先輩の袖を引っ張る。

「どうして?」
先輩は伸びをする、そして屋上のフェンスをひょいっと乗り越えた。落ちる、どころか当たり前のように夜明け前の空を歩いて先輩は隕石に近づいていく、わたしの小説を持ったまま。
「きみは約束を守った、美しいものが完成するのを見せてくれた。だから今度は僕が約束を守る番だ」
「きみは約束を守った、美しいものが完成するのを見せてくれた。だから今度は僕が約束を守る番だ」
先輩は何でもない風で迫ってくる隕石に向かって歩いていく。街は静かなままで、スマートフォンの警報も鳴らなくて、全てが幻みたいな光景だった。
「僕はね。きみの作品をもっと見たくなったんだよ――だから世界を救う」

 わたしの物語が、散らばる。

 散らばって、先輩を守るように展開して、増えて――隕石を包み込むj。

 そして。

 隕石は、たくさんの、色とりどりの、花に変化した。

 花は、まったく無害なわたしの知っている花ばかりで、マリーゴールドとか百合とか、薔薇とか、水仙とか、ガーベラとか、チューリップとか、本当に普通の花で――それが、街どころか見渡す限りいっぱいに散っていく、降っていく。それは当然だ、地球を押しつぶすくらいの隕石だったのだから。

 夜明けの光とともに、世界中に花束が降り注ぐ。


「――気に入ってくれたかな」
屋上のフェンスをうんしょと乗り越えて、先輩は照れ笑いをしながら花束を差し出した。先輩がいつも着けているリボンで束ねてあった。
「先輩でも、そんな顔するんですね」
わたしは心底愉快な気分になって、それを受け取った。

 あれから、しばらくが経つ。

 花が世界中あらゆるところに落ちてきた、なんてニュースはとっくに忘れ去られて、わたしと先輩の文芸部は活動を続けている。最近、わたしはインターネットで小説の公開を始めた。ほそぼそとではあるが、読者はついている。

「次は何を見せてくれるのかな?」
「それは完成してのお楽しみですよ」

あの花束は、今でもわたしの机の上に飾ってある。

 枯れないそれは、あの日の夜明けとともに、ずっとわたしの真ん中にある。

 だから。

 きっとこれからわたしは目も当てられない駄作も書くだろう、びっくりするほどの傑作も書くだろう。わたしはまだ高校生で、未熟で、勉強しないとならないことは山ほどある。

 けれど――書きたいことも、山ほどあるのだ。

 だからきっと、わたしはもう恐れない。

 あの夜明けが教えてくれたのだ。

 わたしにも、届けられる花束が――確かに、存在するのだと。

 


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登場人物紹介

「わたし」の所属する文芸部の部長。硝子の女王とか呼ばれる美女だが同時に学校一の奇人でもある。その容姿を形容するに相応しいアイコンがないのに加え、その気ままな性格上、黒猫のアイコンを使わせていただく。

「わたし」。あまり喋らない文芸部ただ一人の部員。なんとなくノートに思いついたことを書き連ねることを趣味としている。特技は先輩の奇行に動じないことである。

主人公の姉。大学生をしている。料理が得意。ゼミやらバイトやらで忙しいが面倒見はいい。

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