第5話 星の揺りかご 西暦525年
文字数 1,612文字
アイリッシュ海 Irish Sea
グレートブリテン島 西南の港から、沖に漕 ぎ出された流刑 舟。堅い板の上には、手足の自由を奪われたバッジョが、からだを天に向け寝かされていた。
共に寡黙 な二人の水夫は、沖へ沖へと、無言で舟を漕ぎ進める。
横たわるバッジョの耳には、舟底にあたる波しぶきと、海上を渡る風の音が鳴り響いていた。
(既に月も昇った)
こんな小さな舟でアイリッシュ海を渡り、流刑地にたどり着くつもりなど、水夫には始めからないのだ。
(海獣のいる沖に罪人 を投げ入れ、急いで帰路に就く)
その気持ちが水夫を更に寡黙としていた。
(ああ。今宵も又、月様が私を見ていてくれる)
バッジョは、雲一つ無い美しい月夜に抱 かれている。
手足は縛られ、麻痺した口では舌を噛む事さえ出来ない。
(自分で死ぬ事も出来ないとは、情けないものだ)
そう思うと、バッジョの肺からもう一つ溜め息が出た。
炎天の下、連れ出された中庭には、おびただしい数の人間が集まっていた。
用意された足台にあがり、城壁に背を張り付けられると、飲まされた毒の作用と照り付ける太陽のまぶしさに刺激され、数度嘔吐した。
朦朧 とする意識の中で、自分に浴びせられる罵声 が身を突き抜けて行く。不思議と憤 りも、虚勢 を張る元気さえ沸き上がっては来ない。既に虚脱 した心が、すべての反応を停止させているかのようであった。
『静粛 にせよ!』と言う兵士の大きな声が、二度三度と繰り返された後、静まり返った中庭 に、私の罪状を読み上げて行くセラヌの声が響き渡る。
嘘を並び立てた勝手な作り話など、最早どうでも好い事のように思えた。
舟上 波間に揺られ、辛い嘔気も治まったからだで、静かに月を見上げる。
海を横切る風のささやき。ここには安らぎがあった。
全てを失い、死の直前になって初めて、安らぎが戻って来たのである。それは遠い昔、バッジョが子供だった頃の、母に抱かれた安らぎにも似ていた。
「過ちを悟り、謝罪し、涙を流し慈悲を乞 うている姿は哀れである。二度はないが… 命のみは助ける」
スパイサーの声が中庭に響き渡った。
そして間髪を入れずに、セラヌが言葉をつないだ。
「多くの民衆を誑 かし、扇動 し、王国に対し反逆を企 てたる大罪。本来ならば即刻の処刑でも足りぬ所だが、スパイサー王の寛大な御慈悲があり、特別に、城下を引き回した後の流刑とする」
おかしな話だ。この私が敵に赦 しを乞うなど、誰が信じよう。私は常にそのようにして生きてきた。自身の胸にしまってある誇 りは、誰にも汚すことは出来ない。
(私はそのように生きて来た)
バッジョは大きく息を吸い込んだ。
(さあ。優しく笑う月よ。煌めく幾千の星よ。私の霊魂を王子のもとへと運んでおくれ。私はじゅうぶんに生きた)
バッジョの表情には一点の曇りさえなかった。
舟べりを打つ波しぶきの音を聞きながら、バッジョが静かに瞼を閉じる。
海は穏やかに舟を西へと運んでゆく。
静かな海に映る星影。舟はまるで星の揺りかごのように揺れ、騎士バッジョを、いつしか眠りへと導いていた。
「ここらで、よいだろう」
遠い沖まで、バッジョを乗せ舟を漕ぎ続けて来た二人の水夫が、オールを引き上げ立ち上がった。眠り続けるバッジョの姿を横目に、一人の男がバッジョの足に括 り付ける重り石を手にする。そしてもう一人がロープの用意をした。
その時であった。
大きな鯱 が水飛沫 を上げ船上に飛び上がった。鯱は舟を飛び越えざまに水夫に食いつき、水夫のからだを海中へと引きずり込んだ。舟には水夫が手にした重り石のみが残される。
「こんな事、信じられねえ…」
そう呟いたもう一人の水夫までも… 鯱が起こした大きな波間に揺られ、海面へとたたきつけられる。
キラキラと輝く月明かりの下、群れで行動をする鯱の一団に無残にも食いちぎられた二人の水夫は絶命する。
それはバッジョが眠りについた後の瞬く間の出来事であった。
グレートブリテン島 西南の港から、沖に
共に
横たわるバッジョの耳には、舟底にあたる波しぶきと、海上を渡る風の音が鳴り響いていた。
(既に月も昇った)
こんな小さな舟でアイリッシュ海を渡り、流刑地にたどり着くつもりなど、水夫には始めからないのだ。
(海獣のいる沖に
その気持ちが水夫を更に寡黙としていた。
(ああ。今宵も又、月様が私を見ていてくれる)
バッジョは、雲一つ無い美しい月夜に
手足は縛られ、麻痺した口では舌を噛む事さえ出来ない。
(自分で死ぬ事も出来ないとは、情けないものだ)
そう思うと、バッジョの肺からもう一つ溜め息が出た。
炎天の下、連れ出された中庭には、おびただしい数の人間が集まっていた。
用意された足台にあがり、城壁に背を張り付けられると、飲まされた毒の作用と照り付ける太陽のまぶしさに刺激され、数度嘔吐した。
『
嘘を並び立てた勝手な作り話など、最早どうでも好い事のように思えた。
海を横切る風のささやき。ここには安らぎがあった。
全てを失い、死の直前になって初めて、安らぎが戻って来たのである。それは遠い昔、バッジョが子供だった頃の、母に抱かれた安らぎにも似ていた。
「過ちを悟り、謝罪し、涙を流し慈悲を
スパイサーの声が中庭に響き渡った。
そして間髪を入れずに、セラヌが言葉をつないだ。
「多くの民衆を
おかしな話だ。この私が敵に
(私はそのように生きて来た)
バッジョは大きく息を吸い込んだ。
(さあ。優しく笑う月よ。煌めく幾千の星よ。私の霊魂を王子のもとへと運んでおくれ。私はじゅうぶんに生きた)
バッジョの表情には一点の曇りさえなかった。
舟べりを打つ波しぶきの音を聞きながら、バッジョが静かに瞼を閉じる。
海は穏やかに舟を西へと運んでゆく。
静かな海に映る星影。舟はまるで星の揺りかごのように揺れ、騎士バッジョを、いつしか眠りへと導いていた。
「ここらで、よいだろう」
遠い沖まで、バッジョを乗せ舟を漕ぎ続けて来た二人の水夫が、オールを引き上げ立ち上がった。眠り続けるバッジョの姿を横目に、一人の男がバッジョの足に
その時であった。
大きな
「こんな事、信じられねえ…」
そう呟いたもう一人の水夫までも… 鯱が起こした大きな波間に揺られ、海面へとたたきつけられる。
キラキラと輝く月明かりの下、群れで行動をする鯱の一団に無残にも食いちぎられた二人の水夫は絶命する。
それはバッジョが眠りについた後の瞬く間の出来事であった。