第77話 私の作品は自分が読者

文字数 1,743文字

今日も起きたのは夜中の1時半でした。
このまま創作をしてしまおうかとも思いました。
仕事に影響が出るのが気になって寝なおしました。
夜中の3時半ごろおしっこがしたくなって起きました。
時間が中途半端なのでそのまま起きてパソコンを付けました。

今朝はなぜ人は小説を読むのだろうかを考えました。
買って読むにはその金額に相当する選択の価値があるからです。
読者と作者との間に何か共通点があるような気がします。
自分ではできない楽しい体験。
読む人の人生と共通するもの。
読む人の人生とはまったく違うもの。
感動、共感、賞賛、憐れみ。
自分の魂を揺さぶって感情を高ぶらせ興奮させるもの。
泣く、笑う、怒る、悲しむ、喜び。
自分の魂を癒し、安らぎを与え落ち着かせてくれるもの。
自分の知的欲求を満足させてくれるもの。
その先を読みたくなるような連続性。
起承転結があり、物事の展開してゆく流れがわかりやすいもの。
そして物語の進行がわかりやすい構成と文章表現。
場面や人物の動きやせりふ等で情景がイメージできる文章。
その物語を通して何かを学ばせてくれる真理があるもの。

さらに言葉の組み合わせでわかり易くもなり読みづらくもなる。
助詞一つの使い方で文章の方向が違ったものになってしまう。
小説となると商品であり読む側の事も考慮しなければならない。

インターネットの時代になりパソコンやスマホで小説が読めるようになりました。
無料で読めるWeb小説は何を基準に選ぶんだろうと疑問が湧きます。
砂浜に落ちている貝殻の中できれいな物や珍しいものを拾います。
落葉の中で壁に飾りたくなるような葉っぱを拾います。
特に規制がなければ貝殻も落ち葉もみんな無料です。
それでは、あたり一面に落ちているネットの小説は何を基準に拾うのだろうか。
無名な作家の無料の小説はどんな読者が読むんだろう。
落ち葉や貝殻と違って、小説は文章、タイトルは魅力的でも内容はわからない。
少なくとも何行か読まなければわからない。その魅力の基準は何だろう。
う~ん。ますますわからなくなってくる。

そういえば私もなぜ無料の小説を書いているのだろう。
昨年末から正月の休みを利用して6つの作品を投稿した。
アクセスが少ない、反応がない、評価もない。誰も見ていないようだ。
いくら人ごみの中で紙芝居をやっても誰も関心なんかあるはずもない。
無名な人の書いた物語なんか誰も関心があるわけがない。
じゃあなぜ書くんだ。なぜ努力するんだ。なぜだ、なぜ、なぜ。
本物の作家になったって、よっぽど有名にならない限り生活できるほどの収入はない。

今まで6つの作品で文字数は60万文字になる。
そしてまだ続けている。もう100万文字を超えている。
「数打つゃ当たる」とあきらめずに投稿する。
だれも見向きもしない。これだけ書いたのに悲しくなってくる。
興味を引いてみようとタイトルも変更してみる。それでも変わらない。
検索文字列に「早川孝史」と追加する。誰か友人知人が気が付くかもしれない。
書き置いた作品をいっぺんに投稿する。少しずつ投稿する。
手を変え品を変え試しているが、それでもたいして変わらない。
年齢を隠したくないが非表示で様子を見る。表示してみても、それでも変わらない。
この頃少しは読者が増えてきた。それでも大した数ではない。

仕方がないから自分で読む。自分で読んで、泣いたり笑ったり感動したりしている。
ついでに誤字脱字、おかしなところを修正する。
段々完成度が上がっていく。ここもなおそう。ここは強調しよう。
なんだか自己満足が多い。自己中心で自慢のように見える所が多い。

自己満足の作品は自分が作者で自分が読者だ。根本的に自分の方に問題がある。
面白いと思うのは自分だけなのに気付いていない。
そうか、アクセク数を気にしないで、自分の生き方の記録として書こう。

だんだんわかってきた。ネット小説は読者を楽しませるためじゃない。
作者の自己実現の本能なのだ。読者は作者に利用されているのかもしれない。
どんな人が読んでもいい。少しでも数が増えれば、とにかく自己実現本能が満足する。

そうだ、親兄弟、知人友人、受講生に教えてクリックしてもらおう。
記憶は消えていく、記録は残る。
10年後、ボケ始めて書けなくなったら、自分の作品を懐かしんで読んでみよう。


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