最終話 卒業式には

文字数 2,365文字

 ――わたしの通う通信制高校も、最短の卒業年数は変わらない。二年目こそ、まあ……好きな人ができたりしてちょっと大変だったが、わたしも三年で卒業できることに決まった。
 曇天の肌寒い今日は卒業式だ。期待はしていなかったが、やはり桜は咲いていない。私服登校なので、決まった服装がないぶん、卒業式には何を着て行けばいいのかわからない。

「ねえ、この格好ヘンかな?」
 朝から洗面所を独占するわたしは、色んなセーターやシャツを上半身にあてては違う、これも違うと悩みに悩んでいる。

「カイ、どれでも大丈夫よ」
 母は穏やかに笑ってくれるが、もしも今日の服装が変てこだったら、それが写真に残ってしまうのは嫌なので、やはり気になる。

「うーん……」
 洗面所の鏡と睨めっこしていると、母の姿が鏡に映った。

「もう卒業なのね……」
 どこか寂しそうな声と表情だったので、何だか照れくさくなって、「まだ子供だけどね」と唇を尖らせて変な顔を作ってみせた。すると母は、「そんな表情をするんだから、まだ子供よね」と笑ってくれた。
 やっと服が決まったので着替えたわたしは、学校で母と落ち合う約束をして家を出た。買い替えたアイロンで皺を伸ばした薄いブルーのワイシャツの上に白い厚手のカーディガンを羽織って、下は紺色のパンツにしてみた。
 今日の卒業式には、母にも出席してもらうことにしている。大学へは行かずに母方の祖父母の仕事を手伝うことにしたから、人生で最後の卒業式だった。
 ……体育館は、卒業する生徒の数に対して、だだっ広かった。なにせ、通信制という普通よりは特殊なシステムを組み込んでいるだけあって、三年きっかりで卒業できる人が大多数というわけではないのだ。だから、わたしより年上の人もいれば、学年が上の人もいるだろう。今年の、学校全体の卒業生は例年よりも少ないと、国語の先生が話していたっけ。
 卒業式は特に感極まる卒業生がいるわけでもなかったし、何なら、よくある在校生の歌なんてものも存在しなかった。父兄も数えるほどしか来ていない。それがある意味、ちょっと面白く思えてきて、わたしはこっそりと笑った。
 いよいよ、名前を読み上げられる番が来た。

「福井海里」
「はい」
 わたしが返事をした瞬間、誰かが洟を啜る音が聞こえてきた。体育館の中が静かなだけあって、その音は小さいはずなのに響いたように思えた。誰か、鼻炎か花粉症で鼻が痒いのかなとも考えたが、わたしの予想が正しければ、母が洟を啜ったのだと思う。二人で暮らすようになってから、母はわたしの目の前では泣かなくなったけれど、わたしがいないところでは号泣していたことを、娘のわたしは知っている。もっとも、ひっそり目撃するのは毎回、ドラマの感動的なシーンで号泣する母なのだけど。

「皆さん、本当に卒業おめでとう」
 卒業式は、三年間通っても見たこともないような先生のありきたりな言葉で締めくくられた。
卒業生全員での記念撮影は想像以上に簡易的でほとんど形だけのものだった。あとで写真が送られてくるそうだが、こんな感じなら朝からあんなに服装に悩むこともなかったな、なんて思ってしまった。でも、そのうちこれもいい思い出になるのだろう。
 校庭で、母と落ち合った。やっぱり、洟を啜っていたのは母だったようだ。鼻が真っ赤だった。

「なにー? 感動した?」
 ジョークを飛ばすと、母は手のひらで口と鼻を覆った。目まで瞑っている。こんな場所で、そんな泣き方をされたら、さすがに恥ずかしい。思わず慌てれば、母が盛大にくしゃみをした。それも二回続けて。

「卒業式の途中から、変にくしゃみを止めてたから、ずっと鼻が痒くって」
 ぽかんと口を開け、間抜け面のわたしに、母は鼻声で「卒業おめでとう」と祝福してくれた。

「お母さん、花粉症だったっけ?」
 ありがとう、を言い忘れたことも忘れてわたしが訊ねると、母はにっこり笑って、ハンドバッグからオーロラのように光る袋に赤いリボンの何かを取り出した。何となく、似たようなラッピングに見覚えがあった。

「開けてみて」
 母に促されたので、リボンを解く。袋の中に手を入れた瞬間、わたしは何に触れているのか理解した。触れた瞬間、様々な思い出が脳内を満たしていく。

「お母さん、なんで、これ……」
 そっと、中のものごと手を引き抜くと、ほんのりクリーム色で、薄茶色のぶちの毛がところどころ薄くなったネズミのぬいぐるみが出てきた。でも、中の綿はまったく寄ってなどいないし、ほつれなども見当たらない。紛れもなく、わたしのチェリーだった。
 チェリーはあの日、そう、中学生のあの日、ゴミ袋に入れて捨てたはず。決心が鈍らないように、わたし自身がゴミ捨て場まで持っていったのだから、間違いない。それが、どうして今……? わたしが視線で問いかけると、母は穏やかに笑んだ。

「この子を捨てるとき、泣いてたでしょ? ただでさえも、親の都合で振り回してしまうのに。だからあのとき、こっそり救出したの。それからずっと大事に保管して、カイが高校を卒業したらまたきれいにして渡そうって決めてたのよ。でも、ごめんね。真っ白にはならなくって」
 言い終わり、母は「くしゃみをしてたのは、この子を洗ってから、埃にやられてたから」と茶目っ気たっぷりに付け足した。
 前が見えなくなった。視界がどんどん滲んで、今度はわたしが洟を啜る番だった。
 あの日みたいに新品のチェリーでなくたって、例え何もかもあの頃に戻れなくたって。あの日、チェリーをプレゼントしてもらった瞬間のように、鮮やかで輝いた気持ちが蘇った。
わたしは「ありがとう」と、何度も言おうとした。でも涙と鼻水が出て、拭くや啜るやで忙しくて、今はきちんと伝えることができなかった。

             

 チェリー(完)  
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