第二章・第二話 邂逅の記憶
文字数 7,402文字
中奥、
「戻りたがってただろ。これであんたがちったあ真面目に仕事するようになりゃ、
クス、と小さく笑うと、麟太郎は許しも得ないのに勝手に顔を上げた。とは言え、今は中奥で行われていることから明らかだが、今日は私的な対面だ。
「しかし、よくごり押しが通りましたな」
「通ったつか通させたっつか……まあ、例の勅使のお陰だな、あんたの海軍復職は」
「と
「勅使の持ってきた勅令の中身は、あんた知ってるか?」
「いいえ、存じません。幕閣はとかく秘密主義ですからな」
「嘘
しかし、麟太郎は不敵な笑みを浮かべるばかりで何も言わない。あくまで
家茂は、諦めて肩を竦めた。
「……まあいい。勅令の中身は三つあったんだけど、それぞれ長州、朝廷、薩摩の意見を盛り込んだ三箇条だった。通常ならどれも受け入れられない。幕府の人事にも関わってくる問題だしな」
そこで一度、呼吸を置くように言葉を切った家茂は、先を続ける。
「でも、勅令なら是非もない……というより、幕閣には丸呑みせざるを得ない事情がある」
「宮様の件……でございますな」
「ああ。それが今、幕府には致命的な急所になってる。彼女を俺の妻にする代わりに、どうひっくり返ってもできねぇ攘夷を請け負っちまったんだからな。幕閣の言い分としちゃ、俺らの婚儀に際して申請した猶予は七、八年。だけど、そんなモノは聞いてないとばかりに朝廷は早くやれってせっついてくる。宮を強引に幕府側へ奪い取ったって自覚と負い目は、
クックッ、と家茂は嘲るような思い出し笑いを漏らした。
幕閣と朝廷からの勅使との間で、本格的な話し合いが持たれたのは、
老中たちは、『お若い上様の出る幕ではございませぬ、我らにお任せを』などと、遠回しなのか直線的なのか、よく分からない牽制をしていたが、家茂は思い切り無視してやった。
『親王殿下に呼び出される前に、実は宮から勅令の写しを受け取った。ゆえに、内容は残念ながら余も知っている。その
と返すも、それでも老中たちは、最初は何だかんだと家茂の臨席を拒んでいた。けれども、もちろん家茂としてはそう易々と引っ込む気はなかった。
『分かった。なれば、
言いながら、無表情に
『和宮を通じて』という文言が、余程効いたらしい。青くなる者、『この生意気な若造が!』と言わんばかりに怒りで顔を赤くする者など様々で、それはあたかも表情の見本市のようだった。
「――して、その反論できぬ
面白そうに言う麟太郎の声に、家茂は我に返る。
麟太郎に向き直ると、彼は声音と同様、どこか面白がるような表情でこちらを見ていた。
「……まあな。万が一、宮を離縁して京へ帰す、って
和宮本人に言われるまでもない。その選択肢が存在することは、家茂にも分かっている。
だが、実行する気は更々ない。
個人的感情と合理的思考の両面から見ても、利点のなさすぎる策だ。
「宮様を離縁すればしたで、帝はお怒りになるでしょうからな」
「ああ。『どうしてもと言うから、元の婚約を破談にし、泣いて泣いて江戸に嫁いだ宮の気持ちを無にするのか』とか、『天皇家の姫を離縁するという侮辱が許せない』とか、色々文句付けてきた果てに、朝廷と幕府の
挙げ句、今、日本の開国を迫る国々が内乱に付け込んできて、収拾の付かない戦争に発展する恐れもある。
そうなれば、
「しかし、上様には宮様を離縁されぬのは、それだけが理由ですかな?」
そう言った麟太郎の顔は、完全に家茂をからかっているそれだ。だが、家茂は動じなかった。
「……何だよ。
「これはどうも、ごちそうさまと申し上げねばなりませんかな」
「好きにしろ。別に何も食わした覚えもねぇし」
もう一度肩を竦め、うなじを掻いた、直後。
「上様。今よろしいでしょうか」
外から掛かった声は、崇哉のものだ。
「何だ。入れ」
「は。失礼いたします」
答えと同時に下段後方にあった襖が開き、入り側へ膝を突いた崇哉が顎を引く。
「ただいま、表より
「分かった。すぐ行く」
家茂の返事を聞くと、崇哉は再度会釈のように頭を下げ、襖を閉じた。
「……てわけだから、来た早々悪いな、麟太郎」
「いいえ。
嫌な顔一つせず、しかし意味ありげに言って、麟太郎も小さく頭を下げる。
「それに本日は、
「……あんたみたいに、幕閣が筋の通った考えのできる人間だけで構成されてりゃ、
疲れたような吐息を漏らして立ち上がる家茂を、麟太郎は目で追いながら言葉を継いだ。
「では、上様は今まで楽をする為に飾り物でいらしたので?」
「それもあるかも。取り敢えず身体さえ元気でいりゃあ、誰も文句言わなかったからな」
クス、と自嘲の笑いが漏れる。
何も考えず、好きなことをしていられた日々は、それなりに平和だった。
実権がない代わりに、好きに馬に乗り、好きなだけ武術の修練に励み、好きなだけ書を読むことができる。そう己に言い聞かせ、存在のみ重視される飾り物の長という地位に甘んじる言い訳にしてきた。
実際、それでも害はなかった。
(……あいつが、死ぬまでは)
彼女が――
実権なき将軍の座とはそういう座だと、嫌と言うほど思い知った。かと言って、そうそうすぐに実権も臣下の信頼も手には入らない。当時十四という若さでありながら、一度は世の中のすべてに嫌気が差した。
柊和の死後すぐ、無気力に過ごしていた頃、出会った一人がこの勝麟太郎義邦だった。
「……そう言えば、あんただったな」
「何が、でしょう」
「これまで通りお飾りで過ごして、また大事な者ができた時にこのままでどうするのですか、って意見してきたの」
苦笑と共に見下ろすと、麟太郎も口元に笑みを浮かべた。苦笑と不敵笑いの中間のようなそれだ。
「そのようなこともございましたな。あの頃も上様は中々に生意気でいらして、『今更権力握ったってあいつは生き返らない』と某に言い返された。十四代様は従順ないいお子だと聞いていたのに、世間の噂は当てにならぬと思うたものでございますよ」
「は、言ってくれるじゃねぇか」
クス、とまた小さく苦笑が漏れる。
大体、世間一般で言うところの『いい子』とは何だろう、と家茂は思う。大人の言うことに『はい』『はい』と素直に従うのがいい子だというのなら、世の中の『いい子』とやらは自身で考えることを放棄した、思考の空っぽな子どもということになる。
それが大人になった時、いきなり自分で考えられるようになるだろうか。
(ま、土台無理な話ってやつだな)
また一つ、今度は嘲りの笑いを漏らして、家茂はその場を立ち去ろうとした。
「……あ、そうだ。一つ、言い忘れてたな」
「何でしょう」
思い出して立ち止まり、振り返った家茂を、麟太郎が身体の向きを変えて見上げる。
「あんたの海軍異動のごり押しが利いた理由」
「ああ……そう言えば、最初は左様なお話でしたね」
それで、理由は? とでも言いたげな顔で、麟太郎は小首を傾げた。
その仕草が、主人の『待て』を解除するのを待っている犬のようで、少しおかしくなる。
「目眩ましさ。世間に対する」
「目眩まし……でございますか」
「ああ。今来た二人も、勅書に従って要職に付けることになった。だから呼んだんだ。だけど、彼らだけを異動させたら、いかにも勅書に従いました、って感が拭えないからな。ま、焼け石に水だけど」
麟太郎は、呆然と唖然の間のような表情で、しばしポカンと口を開けていた。だが、ややあってから、うっすらと唇の片端を吊り上げる。
「上様。一つ、お伺いしても?」
「何だよ」
「その
「まあな。割と思い付きだったけど。それがどうした?」
すると、今度こそ、麟太郎の顔に不敵な笑みがはっきりと浮かんだ。
「であれば、そう悲観なさることもございますまい」
「どういう意味だ」
「その
言われた意味は、家茂にはよく分からなかった。しかし、麟太郎がさしたる思惑もなくモノを言う男ではないことも知っている。
こういう時は、時間が経てば、意味は自ずと分かったりするものだ。
「……そう願うね」
「お任せを。この勝、誠心誠意、上様のご期待に応えてご覧に入れます」
平伏した麟太郎を、どこか無感動に見下ろす。一拍の
***
(……まったく……まこと、末恐ろしいお子だ)
家茂を見送り、城を辞した麟太郎は、我が家への道を歩きながら、そう思った。
そんな家茂と、麟太郎が出会ったのは二年前のことだ。
今から遡ること約二年ほど前――
異動となってからは、出勤せず堂々とサボるか、出勤しても蕃所調所の奥でゴロゴロと横になってばかりおり、当時から頭取だった
そんな麟太郎を見兼ねたのか何なのか、ある日謹一郎に、『仕事をせぬのなら、上様のご様子を見に行ってこい!』と無理矢理城へ行かされたことがあった。それが、家茂と知り合ったきっかけだ。
『……上様のご様子? 何でです』
面倒くさそうに寝返りを打ちながら訊くと、見上げた謹一郎の顔はどこか曇っていた。
麟太郎が仕事をサボっていることとは、直接関係はなさそうな曇り方だ。起き上がって改めて謹一郎を見上げると、彼は向かいに座って溜息を吐いた。
『そなたがここへ異動してくる
『ご内証の方?』
何だそりゃ、と言いたげに麟太郎は小首を傾げる。
『私も最近知ったのだが、非公式のご側室を指すそうだ。その方と仲睦まじくいらしたのに、急に亡くなられたと』
『で、上様がしおれてるから様子を見てこいと?』
『うむ……上様は、それまでは足繁くこちらにも通っておられたのに、その頃からご無沙汰でな。私も気になってはいるのだが、日々の業務に追われて中々城に上がる機会が捉えられぬ』
麟太郎は、眉根を寄せた。
十四代将軍の座にいるのは、確か十四歳の少年だ。
(ガキのくせに、正室迎える前から側室かい。まったく生意気だねぇ)
脳裏で独りごちる内に、眉間と鼻の頭にしわが寄る。
もっとも、麟太郎自身、将軍と三つしか違わない女性を妾にしている手前、女性関係については人のことをとやかく言えた義理ではない。
『とにかく、そなたは暇にしておるのだから早く行ってこい』とせっつかれ、渋々城に足を運んだ。
この時、なぜ謹一郎の言うまま登城したのか、麟太郎にも分からない。本当に嫌だったら、行く振りをして家に帰ることもできた。
ただ、翌日、様子を訊かれた時に行かなかったと知れたら、謹一郎から叱責されることは明らかだ。それに対して言い訳するのも面倒だったからかも知れない。我ながら律儀なことだと思いつつ、表に上がって面会を求めた。
だが、意外にも許可が下りなかった。
今日は気分が優れぬので誰とも会いたくないから、という返事だった。とは言え、いくら若くても将軍は将軍だ。
気分次第で会うの会わぬのを決めていては、仕事になるまい。これが機嫌伺いだからまだいいものを、火急の用件だったらどうするのだろう。
先代は先代で、どこか奇矯な振る舞いをするという噂があったし、今代は今代でガキだ。
仮にも国の
(そちらの都合で会わぬというなら、こっちはこっちでやらせてもらうわ)
脳裏で吐き捨て、『上様はこちらか?』などと取り次ぎに出てきた小姓に訊きながら、スタスタと奥へ足を進めていく。
この時の麟太郎は、まだ中奥にまで入れる立場ではなく、普段は大広間まで来ることさえなかった。
しかし、慌てて止めに入る近侍たちの進行方向を注意して見定めれば、将軍の居所は大体見当が付く。
当たりを付けた部屋の前に、近侍が控えていた。間違いなさそうだ、と大股に近付き、近侍が止める
広い室内は、上段と
そこも勢いよく開ける音に、驚いたように顔を上げたのは、少年か少女か、一瞬判断に迷うような美貌の
総髪ではあるが、頭頂部で結い上げた漆黒の黒髪、逆卵型の小振りな輪郭、大人になり掛けの子猫のような目元と、黒曜石のような瞳、薄く引き締まった唇――形式張らない小袖と袴に身を包んでいるところからすると、そんな容姿でも恐らく少年だろう。
彼は、しばらくこちらを見ていたが、やがて表情を掻き消すように俯いた。
『……失礼。上様でいらっしゃいますか』
しかし、相手は答えなかった。
相変わらず、抱えた膝に額を埋めるようにして俯いている。
『いきなり無礼ではありませんか!』
その代わり、背後から怒鳴りながら近付いてきた少年が、麟太郎と将軍の
将軍より三、四歳は年嵩に見える、十代後半の、こちらは一目で少年と分かる風体だ。
『言伝をお聞きにならなかったのですか。上様はご気分が優れぬと
『なれば、ご自分でそう
近侍の少年より長身なことを生かし、麟太郎は伸び上がるようにして近侍の肩越しに、少年将軍を見やった。
ややあって――本当に、いつまでも何も言わないつもりか、と訊きたくなるくらいの時間が空いたあと、少年はポツリと何か言う。ただ、その声は小さすぎて聞き取れなかった。
『恐れながら、今一度
己でも大人げない上に、少し意地悪が過ぎると思うような言葉だ。しかし、少年は再度口を開いた。
『……台命なら従うって言ったか?』
麟太郎は眉を
『じゃあ、柊和を殺した奴を正当に処罰できるようにしろ』
言われた意味が分からない。首を、顎が上に向きそうなくらい傾げたくなった。
『……失礼ながら、その、ヒナ……と
問い掛けて、もしやその『ヒナ』というのがご内証の方かと思い当たる。直後には、考えた通りの答えが返ってきた。
『俺の側室だよ。非公式だったから知ってる奴は限られてるし、そうなると定義的には妾に近いけどな。四ヶ月前に急に死んだ。病気でもなかったのに数日会わなかった内に突然死んだんだ。最後に会った日は元気だったのに』
長めの前髪を掻き上げながら、少年は
年に見合わぬ、その瞳の持つ昏さが、妙に気になった。麟太郎には、家茂と同い年の娘がいるから、それも関係しているかも知れない。
これは、話を聞かぬでは帰れない。胸の内で瞬時にそう断じると、自分を阻むように上段と下段の
『申し遅れた。某、勝麟太郎義邦と申す。そなたの名は?』
『……私ですか』
ここまで無遠慮に押し入って来た麟太郎への不快感と、急に改まった態度で発せられた問いへの戸惑いが入り交じった表情で、少年が確認する。
是の意を示して小さく頷くと、『川村崇哉と申します』と言って会釈した。
『そうか。では、川村殿。少し、上様のお話を伺いたいのだが、人払いをお願いしてもよろしいだろうか』
崇哉は、かすかに瞠目する。だが、麟太郎とヒタと睨み合ったあと、何も言わずに進路を空けた。
©️神蔵 眞吹2024.