第五幕 Holy, Holy, Holy ――! クリスチャンカフェにようこそ!
文字数 6,437文字
クリスチャン・カフェ(テリア)に足を踏み入れると、店内は礼拝堂を模した造 になっていた。〈主よ、人の望みの喜びよ〉の音楽が緩徐 に流れ、天井からは神性の流れる間接照明がのびやかに降り注ぐ。羽海は、店内の雰囲気の素晴らしいことに感動を覚えた。まるで教会を廃してそのままカフェへと作り変えたような空間は、期待を裏切らない荘厳な非俗に仕切られており、流れる時間さえ異なるように感じられた。客席にはすでに数名の先客が寛いでおり、30代の若いアベック、穏やかな老紳士、車椅子に乗った老婆とその隣りでウォークマンで音楽を聞く女子高生などがそれである。
「シェラハさーん! お久しぶりー!」
ヒミコが手を振ったので、羽海は反射的にその方向を目で追った。すると修道服を着た妙齢の女性がカウンターの奥から姿をみせた。瓜実顔のなごやかなその女性はにっこりと素敵な笑顔で微笑み返し、羽海たちにゆっくりと片手を差し向けた。胸にはロザリオ、片ほうの手にはラッセルの銀のドリップポットが握られている。コーヒーの燻る薫りが香油の心地よい匂いと撹拌されて溶けあって、何ともいえない快い香気があたりにみちた。
「おかえりなさいヒミコ。そちらのお嬢さんは、はじめましてかしら?」
シェラハと呼ばれたシスターは流暢な日本語で喋った。羽海はおもわず気後れし、訥々 と肯 うしかなくなってしまう。
「シェラハです。どうぞごゆっくりね」
「はい……」
「ヒミコちゃん、できればお店のことを教えてあげてね」
「はい!」
命じられてヒミコは元気よくうなずいた。それをみてシスター・シェラハは陽気な足どりで奥へと戻っていった。
「いちおうこのお店にはルール的なものがあるの」
ふたりのいるカフェの入り口にはタブレットがあって、クリスチャン・カフェのいわゆる黄金律 が彫刻されている。カフェ内で出会ったひとと宗教的な談義をすることは奨励されているが、特定の宗教へと勧誘してはならないこと、また特定の宗派を否定してはならないこと、など。『私は何らかの教義を破壊し妨害するために来たわけではなく、キリスト教徒がより良いキリスト教徒になれるよう、イスラム教徒がより良いイスラム教徒になれるよう、また、ヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒になれるよう、それぞれが各自の信仰を確かなものとするために来たのです』という聖人(サティヤ・サイ・ババ)の言葉が引用されていた。その隣には撮影時のきまりごとやバッジなどの説明があった。
「バッジって?」
羽海がとりたてて尋ねるのはその点で、既に常連の風であるヒミコがこれを補足した。
「えっと、カフェに来たひとがどんな宗教に入ってるか、分かるようにバッジをつけるの。そうすると、いろいろ話がしやすいでしょ?」
そういってヒミコは店内に視線を向けた。よく見ると若いアベックは「ZX」、年配の紳士は「B」と書かれたバッジを付けている。老女と女子高生のバッジはこの位置からは見えないが、いざ話をするとなれば確認できるだろう。
「たとえばクリスチャンならC、仏教徒ならB、無宗教ならA――さらに分類があって、分派ごとにカトリックはC†C、プロテスタントはC†P、ボゴミル派はC†B――あたしはホーリズムだからC†Hをつけるね」
ヒミコは籠の中からC†Hのバッジを手にとって胸につけた。バッジはたんなる略号だけでなく、それぞれの宗教のシンボルをもあしらってあるようだ。たとえばキリスト教は、イエスの花冠をモチーフにした植物柄の外枠というように。
「もちろん付けたくないなら付けないのも自由だよ」
羽海はさ迷った。
「わたしは無宗教だから……【A】のバッジ? あ、でもたしかうちが浄土真宗で……」
「うーん。『特定宗教に興味なし』の【N】でいいかも? 【A】は『戦闘的無神論者』って意味もあるから、とりわけ拘りのある人以外はつけないみたい」
そこで羽海は『特定宗教に興味なし』の【N】のバッジを手に取ることにした。ただし、羽海は最近カトリックに改宗することを真剣に考えているのだ。もちろん福音少女に憧れるティーンで本気でクリスチャンになろうとする子なんて足りてない。しかし、福音少女そのものとなると話は別だった。世界一有名な福音少女であらすストロベリー・マーセも、世間とバチカンから受け入れられるため、家族の長年信仰するクエーカーを捨てて伝統的なカトリックへと改宗したというエピソードを持っている(その後、家族と微妙に折合が悪い)。
けれどカトリックになると、毎日早朝の祈りを捧げたり、たまの休みには教会へ足を運んだり、マリア様の木像を彫刻したり、いろいろと守らなければいけないルールや戒律が増えるのではないか……結局のところ羽海にはそこが心配だった。もちろん本気で福音少女をめざすつもりなら、つねに清く正しい生活を送り、スキャンダルには気をつけるなど、いくつかの福音少女らしい心得を守っていかなければならないし、その点は守るつもりだった。けれどカトリックに改宗するのは、きっとそれ以上のことだ。羽海は不安を募らせた。カトリックの戒律を入る前にいまいちどよく吟味して、絶対に守れない約束をするくらいなら、むしろ最初からしない方がよいと羽海は感じた。”ニャナル”や”ジョカ”のように、世俗の福音少女として活躍する道もあるのだから。
「――羽海ちゃん、むずかしい顔してるよ?」
ヒミコにそう按じられ、羽海ははっと我に返った。
「ええ……そんなことないよ」
「先にメニュー決めちゃお!」
ちょうどタイミングよく、ふたりのテーブルにシスター・シェラハがやってきて、双 つの冷たい水のはいったコップを運んだ。クリスチャン・カフェで「命の水」として通じている施しである。屋外がこの炎天下では、まさに店へ逃げ込んできた者の生命力を回復させるありがたい浄福となる。時もちょうど昼日中、ランチとして羽海は「聖体拝領セット」を注文しようとした。しかし一瞬の沈黙が遮って
「ごめんなさい、そのメニューはクリスチャンの方限定で提供させていただいて……」
シェラハは申し訳無さそうな表情で頭を下げた、こういう場合は断るという本部からの指導になっているのだと告げて。
「あっ、ごめんなさいっ! わたし、そうとは知らずに……そっか、入信してないと提供できないメニューもあるんですね…」
メニュー名に「聖体拝領」と入っているくらいなのだから、クリスチャン以外は注文できないとわかりそうなものなのに……己の迂闊さを羽海は呪った。わざわざシェラハに申し訳なさそうに教理 上できないという断りを述べさせてしまったことが、懺悔しなければいけない罪深い罪のように感じられた。心の広いシェラハはノンクリスチャンがこのメニューを頼むことを本気で排除したいわけでなく、フランチャイジーはフランチャイズ本部の意向を守らなければならない、ただそれだけのことで、否応なくそのように立場づけられていたのだ。だがそんなときにヒミコが、持ち前の明るく透徹した声でこう言った。
「じゃ、私が聖体拝礼セット2つ注文します。プロテスタント系とはいえクリスチャンなので。資格はあるでしょ?」
羽海はそれで思わずシスターの方をまんじりともせず注視した。シスターは嬉しそうに「それならいいわね」とうけあって、ヒミコの注文した2つ分の聖体拝礼セットを仕上げるためキッチンへ向かっていった。こうしてこの場は都合よく解決されたのである。
米
デザート後、SNSにアップするスナップショットをふたりは吟味した。迷いに迷った。送るに善いものが多すぎるという意味で。もちろん投稿するのは10万人以上のユーザーにチェックされているアリスミステリアのアカウントで、個人アカウントではない。
『みなさん、わたしはいわゆるカトリック・クリスチャンではありませんが、これからもできるだけより多くの宗派の方々を理解できるよう、精一杯努めて参ります』
「なんだか、政治家みたいだね羽海ちゃん」
「……ヒミコが考えてよ、私まじめすぎてムリだ。バズったポストだって、全部あなたのアイデアだし……」
「いいじゃん政治家で。『羽海ちゃんは大将なんだから!』、ふふっ」
羽海は体を左右に揺らして拒否を表明する。
「私、もう自分の言葉でつぶやくの嫌 だ。全部ヒミコがやって」
「じゃ、こうしない? 「きょうはクリスチャンカフェにお邪魔しました! カフェテリアには、クリスチャンがいっぱい! 宗派はあっても、みんなひとつ!」」
「……で、なんでその文面でケーキの画像を載せるわけ? それならこっちに人物写真…」
「肖像権に配慮! あとお店のメニューをアップして宣伝するとPRになるから、シェラハさんにお礼がもらえる」
グラスを磨いていたシェラハがにこやかにスマイルを送った。
「せめて、ケーキの味の説明を……」
「ただケーキが食べたいだけなら、こんな立地の悪い店まで来ないよ~。大丈夫、見栄えよく撮ってあるから!」
冷静に事実を指摘されて、なんだか悔しくなった羽海である。ヒミコはなかなかのバズり巧者だった。羽海だって主要な福音少女たちのSNSはチェックしており、そのままマネすれば形になりそうなものを、心がストップを掛けて素直にニャナルのようなかわいいポストが連発できない。しかしきっとニャナルだってあれは優秀なスタッフが代理投稿しているに違いないのだ(いっぽうストロベリー・マーセの信仰BOOKはしょっちゅう内容で炎上していたため、あれはすべて本人がやっているのだと噂されていた)。
羽海は表情を暗くして言った。
「私って本当にダメなコだね。私を信じてくれている人たちだって、まさか別の誰かがメッセージをしてるなんて、思ってないよね……」
「そーかな?」
「騙してるみたいに感じる」
「だ、大丈夫だよ。このアカウントは羽海ちゃんじゃなくて、アリス・ミステリアっていう架空な預言者 のものでしょ? それなら羽海ちゃんひとりじゃなくて、あたしも一緒になってやってるのもアリだよ。つまりキャラひとりに対して、二人の人格が演じてるみたいなもの、ふたりでひとり。ひとりのアカウントで別の誰かが書いてもらったら確かにずるだけど、アリスは最初からあたしたちのものだから」
ヒミコは必死にこう説得した。そこで羽海はその通りだと思った。
「そうだね。それなら良いかもしれないね。アリスは私だけじゃなく、ヒミコも含めたわたしたちの活動だから、どっちが書いてもおかしくないもんね」
そうして首尾よく納得させることができた。いまどき大統領のアカウントでも大統領自身がみずから文を考えて投稿しているなんて信じる人間はいない。その配慮ははじめから気にしすぎだったのだが、同時に悩み深い羽海の繊細さをことさら表わしてもいた。
米
時刻も一時を回って、クリスチャン・カフェの店内は閑散としてきた。カウンターに移動して、羽海はシスターシェラハと差し向かいあってコーヒーを飲む。彼女には相談したいことがあった。それは親友レイカのことである。じつに、はじめから今日はその目的のためにここがセッティングされていたのだが。
ためらいに駆られて、羽海はなんとなくあたりを見回した。カウンターの隅に「★クリスチャンのあなたに100の質問★」という昔風の記入式アンケート用紙が積み重ねられており、その形式はどう見ても'ハイデルベルク信仰問答'のパロディだった。羽海は中身まではよく見ていない。
ヒミコはカウンターにおらず、テーブル席にいるアーミッシュの女子高生とはすぐ打ち解けて何やら話し込んでいる。
羽海は始終ためらったが、シェラハも忙しいということは知っていたので、ついに焦るように切り出した。
「相談したいのは、えっとつまり、友人のことなんです。今日、本当はここに一緒に来る予定でした…仲直りして」
「でも彼女は……来ませんでした。返信がなかったんです。いまでは私たち、完全に別々です。でも、だからといって素直に謝るなんてできない。100パーセントの譲歩なんて出来ないです。だって、私も彼女からひどいことをされたし、なにより彼女が怒っている部分を私はなおすことができないんです。つまり、彼女の愛する人が死ぬという言葉を……」
「深い事情がありそうね」
「そうなんです!」
羽海は力を込めて言う。そしてこれまでに起きた出来事を、不思議な出来事も含めて――すべて話した。シェラハは、少し驚いた節も見せた。
「そうね。まず、いますぐクリスチャンになる必要は無いのじゃないかしら。その福音少女? に将来、なるとしても。」
「そうでしょうか?」
「だって、あなたはまだ子供でしょう? 自分の意思でクリスチャンになりたいと思うのは、とてもよいことよ。でも、それには大人の意思、おとなになったあなたの判断が必要なの。18歳になるまで待ってあげてね」
シェラハはやさしく微笑んだ。
「それと、仲直りのことね?」
「はい!」
「すぐ仲直りしてあげて。きっとできるから」
「できますか?」
「ふふ、聖書からではないけれど、こんな言葉があるわ。『アプリヤースァ・トゥ・パティヤースヤ・バクタ・スポルタ・ナ・ヴィドゥヤーテ』」
「どういう意味ですか?」
「魔法の言葉よ。きっと、信じて。あなたたちは仲直りできるから。ふたりで来るの、待ってるわ」
自信ありげに、シェラハはそう微笑むのだった。
「はい……」
「それにしてもその福音少女って、興味深いわね」
「え? その、はい」
「いったいどんな仕組みなのかしら」
それからシェラハは腕組みをする。
「あのシェラハさんは福音少女のこと、全然知らないんですか?」
羽海は尋ねた。意外そうに、というニュアンスを包み隠すことはどうにもできなかった。
「世間のことには疎いの。きっと本ばかり読んでいるせいね」
と、そういってシェラハは照れ隠しのようなウインクをした。
「でも、回勅が有りませんでしたっけ??」
いまの福音少女の位階制度が樹立したのが、マーセの登場から約1年後。それは当時の教皇によって出された回勅によるものと羽海は自習している(いまは、それから更に一年ほど経っている)。
「本部から回ってきてないから、しらない」
シェラハは回勅の認知をも否定した。
「そうなんですか? カトリックって、結構自由なんですね」
「そうね。厳密に言えば、私たちはカトリックではないのよ」
シェラハがびっくりするようなことを言った。何のこともなしに。羽海は驚きつつ口をひらいた。
「え、でもシェラハさんって、胸にC†Cのバッジをつけていらっしゃるじゃありませんか?」
「本部は、”カフェテリア・クリスチャン教会”よ。カフェテリアを経営するために存在するのね」
「へー」
「あなたも会員になって、バイトしてみない?」
宗派に勧誘された気がしなくもないが、かようのオファーを羽海はありがたくも断らせてもらった。バイトで通うには立地が遠かったためである。しかし羽海がカフェのために働かなかったかといえば、むしろそうではない。翌日から、比較に為らないほどの大量の太客が羽海の宣伝によって押し寄せた。じつに、シェラハに関する限り、この物語はどこまでもハッピーエンドなのである。
(第五話、おわり)
4条
(真実の称号)
1その公生涯において預言者としてのあきらかな功績が認められ、真の預言者と称するに相応しき者に対して、真実認定機関はその預言者としての活動終了後、真実の称号を追贈(Canonization)することができる。
2真実の称号は取り消すことができない。
38条
(善意の預言者の教導権)
善意の預言者は神から特別な力を与えられるがゆえに、預言によって不特定の大衆を霊的に導くことを使命とし、すべての預言者は崇高なる意志によってこの救済に義しく臨まなければならない。
「シェラハさーん! お久しぶりー!」
ヒミコが手を振ったので、羽海は反射的にその方向を目で追った。すると修道服を着た妙齢の女性がカウンターの奥から姿をみせた。瓜実顔のなごやかなその女性はにっこりと素敵な笑顔で微笑み返し、羽海たちにゆっくりと片手を差し向けた。胸にはロザリオ、片ほうの手にはラッセルの銀のドリップポットが握られている。コーヒーの燻る薫りが香油の心地よい匂いと撹拌されて溶けあって、何ともいえない快い香気があたりにみちた。
「おかえりなさいヒミコ。そちらのお嬢さんは、はじめましてかしら?」
シェラハと呼ばれたシスターは流暢な日本語で喋った。羽海はおもわず気後れし、
「シェラハです。どうぞごゆっくりね」
「はい……」
「ヒミコちゃん、できればお店のことを教えてあげてね」
「はい!」
命じられてヒミコは元気よくうなずいた。それをみてシスター・シェラハは陽気な足どりで奥へと戻っていった。
「いちおうこのお店にはルール的なものがあるの」
ふたりのいるカフェの入り口にはタブレットがあって、クリスチャン・カフェのいわゆる
「バッジって?」
羽海がとりたてて尋ねるのはその点で、既に常連の風であるヒミコがこれを補足した。
「えっと、カフェに来たひとがどんな宗教に入ってるか、分かるようにバッジをつけるの。そうすると、いろいろ話がしやすいでしょ?」
そういってヒミコは店内に視線を向けた。よく見ると若いアベックは「ZX」、年配の紳士は「B」と書かれたバッジを付けている。老女と女子高生のバッジはこの位置からは見えないが、いざ話をするとなれば確認できるだろう。
「たとえばクリスチャンならC、仏教徒ならB、無宗教ならA――さらに分類があって、分派ごとにカトリックはC†C、プロテスタントはC†P、ボゴミル派はC†B――あたしはホーリズムだからC†Hをつけるね」
ヒミコは籠の中からC†Hのバッジを手にとって胸につけた。バッジはたんなる略号だけでなく、それぞれの宗教のシンボルをもあしらってあるようだ。たとえばキリスト教は、イエスの花冠をモチーフにした植物柄の外枠というように。
「もちろん付けたくないなら付けないのも自由だよ」
羽海はさ迷った。
「わたしは無宗教だから……【A】のバッジ? あ、でもたしかうちが浄土真宗で……」
「うーん。『特定宗教に興味なし』の【N】でいいかも? 【A】は『戦闘的無神論者』って意味もあるから、とりわけ拘りのある人以外はつけないみたい」
そこで羽海は『特定宗教に興味なし』の【N】のバッジを手に取ることにした。ただし、羽海は最近カトリックに改宗することを真剣に考えているのだ。もちろん福音少女に憧れるティーンで本気でクリスチャンになろうとする子なんて足りてない。しかし、福音少女そのものとなると話は別だった。世界一有名な福音少女であらすストロベリー・マーセも、世間とバチカンから受け入れられるため、家族の長年信仰するクエーカーを捨てて伝統的なカトリックへと改宗したというエピソードを持っている(その後、家族と微妙に折合が悪い)。
けれどカトリックになると、毎日早朝の祈りを捧げたり、たまの休みには教会へ足を運んだり、マリア様の木像を彫刻したり、いろいろと守らなければいけないルールや戒律が増えるのではないか……結局のところ羽海にはそこが心配だった。もちろん本気で福音少女をめざすつもりなら、つねに清く正しい生活を送り、スキャンダルには気をつけるなど、いくつかの福音少女らしい心得を守っていかなければならないし、その点は守るつもりだった。けれどカトリックに改宗するのは、きっとそれ以上のことだ。羽海は不安を募らせた。カトリックの戒律を入る前にいまいちどよく吟味して、絶対に守れない約束をするくらいなら、むしろ最初からしない方がよいと羽海は感じた。”ニャナル”や”ジョカ”のように、世俗の福音少女として活躍する道もあるのだから。
「――羽海ちゃん、むずかしい顔してるよ?」
ヒミコにそう按じられ、羽海ははっと我に返った。
「ええ……そんなことないよ」
「先にメニュー決めちゃお!」
ちょうどタイミングよく、ふたりのテーブルにシスター・シェラハがやってきて、
「ごめんなさい、そのメニューはクリスチャンの方限定で提供させていただいて……」
シェラハは申し訳無さそうな表情で頭を下げた、こういう場合は断るという本部からの指導になっているのだと告げて。
「あっ、ごめんなさいっ! わたし、そうとは知らずに……そっか、入信してないと提供できないメニューもあるんですね…」
メニュー名に「聖体拝領」と入っているくらいなのだから、クリスチャン以外は注文できないとわかりそうなものなのに……己の迂闊さを羽海は呪った。わざわざシェラハに申し訳なさそうに
「じゃ、私が聖体拝礼セット2つ注文します。プロテスタント系とはいえクリスチャンなので。資格はあるでしょ?」
羽海はそれで思わずシスターの方をまんじりともせず注視した。シスターは嬉しそうに「それならいいわね」とうけあって、ヒミコの注文した2つ分の聖体拝礼セットを仕上げるためキッチンへ向かっていった。こうしてこの場は都合よく解決されたのである。
米
デザート後、SNSにアップするスナップショットをふたりは吟味した。迷いに迷った。送るに善いものが多すぎるという意味で。もちろん投稿するのは10万人以上のユーザーにチェックされているアリスミステリアのアカウントで、個人アカウントではない。
『みなさん、わたしはいわゆるカトリック・クリスチャンではありませんが、これからもできるだけより多くの宗派の方々を理解できるよう、精一杯努めて参ります』
「なんだか、政治家みたいだね羽海ちゃん」
「……ヒミコが考えてよ、私まじめすぎてムリだ。バズったポストだって、全部あなたのアイデアだし……」
「いいじゃん政治家で。『羽海ちゃんは大将なんだから!』、ふふっ」
羽海は体を左右に揺らして拒否を表明する。
「私、もう自分の言葉でつぶやくの
「じゃ、こうしない? 「きょうはクリスチャンカフェにお邪魔しました! カフェテリアには、クリスチャンがいっぱい! 宗派はあっても、みんなひとつ!」」
「……で、なんでその文面でケーキの画像を載せるわけ? それならこっちに人物写真…」
「肖像権に配慮! あとお店のメニューをアップして宣伝するとPRになるから、シェラハさんにお礼がもらえる」
グラスを磨いていたシェラハがにこやかにスマイルを送った。
「せめて、ケーキの味の説明を……」
「ただケーキが食べたいだけなら、こんな立地の悪い店まで来ないよ~。大丈夫、見栄えよく撮ってあるから!」
冷静に事実を指摘されて、なんだか悔しくなった羽海である。ヒミコはなかなかのバズり巧者だった。羽海だって主要な福音少女たちのSNSはチェックしており、そのままマネすれば形になりそうなものを、心がストップを掛けて素直にニャナルのようなかわいいポストが連発できない。しかしきっとニャナルだってあれは優秀なスタッフが代理投稿しているに違いないのだ(いっぽうストロベリー・マーセの信仰BOOKはしょっちゅう内容で炎上していたため、あれはすべて本人がやっているのだと噂されていた)。
羽海は表情を暗くして言った。
「私って本当にダメなコだね。私を信じてくれている人たちだって、まさか別の誰かがメッセージをしてるなんて、思ってないよね……」
「そーかな?」
「騙してるみたいに感じる」
「だ、大丈夫だよ。このアカウントは羽海ちゃんじゃなくて、アリス・ミステリアっていう架空な
ヒミコは必死にこう説得した。そこで羽海はその通りだと思った。
「そうだね。それなら良いかもしれないね。アリスは私だけじゃなく、ヒミコも含めたわたしたちの活動だから、どっちが書いてもおかしくないもんね」
そうして首尾よく納得させることができた。いまどき大統領のアカウントでも大統領自身がみずから文を考えて投稿しているなんて信じる人間はいない。その配慮ははじめから気にしすぎだったのだが、同時に悩み深い羽海の繊細さをことさら表わしてもいた。
米
時刻も一時を回って、クリスチャン・カフェの店内は閑散としてきた。カウンターに移動して、羽海はシスターシェラハと差し向かいあってコーヒーを飲む。彼女には相談したいことがあった。それは親友レイカのことである。じつに、はじめから今日はその目的のためにここがセッティングされていたのだが。
ためらいに駆られて、羽海はなんとなくあたりを見回した。カウンターの隅に「★クリスチャンのあなたに100の質問★」という昔風の記入式アンケート用紙が積み重ねられており、その形式はどう見ても'ハイデルベルク信仰問答'のパロディだった。羽海は中身まではよく見ていない。
ヒミコはカウンターにおらず、テーブル席にいるアーミッシュの女子高生とはすぐ打ち解けて何やら話し込んでいる。
羽海は始終ためらったが、シェラハも忙しいということは知っていたので、ついに焦るように切り出した。
「相談したいのは、えっとつまり、友人のことなんです。今日、本当はここに一緒に来る予定でした…仲直りして」
「でも彼女は……来ませんでした。返信がなかったんです。いまでは私たち、完全に別々です。でも、だからといって素直に謝るなんてできない。100パーセントの譲歩なんて出来ないです。だって、私も彼女からひどいことをされたし、なにより彼女が怒っている部分を私はなおすことができないんです。つまり、彼女の愛する人が死ぬという言葉を……」
「深い事情がありそうね」
「そうなんです!」
羽海は力を込めて言う。そしてこれまでに起きた出来事を、不思議な出来事も含めて――すべて話した。シェラハは、少し驚いた節も見せた。
「そうね。まず、いますぐクリスチャンになる必要は無いのじゃないかしら。その福音少女? に将来、なるとしても。」
「そうでしょうか?」
「だって、あなたはまだ子供でしょう? 自分の意思でクリスチャンになりたいと思うのは、とてもよいことよ。でも、それには大人の意思、おとなになったあなたの判断が必要なの。18歳になるまで待ってあげてね」
シェラハはやさしく微笑んだ。
「それと、仲直りのことね?」
「はい!」
「すぐ仲直りしてあげて。きっとできるから」
「できますか?」
「ふふ、聖書からではないけれど、こんな言葉があるわ。『アプリヤースァ・トゥ・パティヤースヤ・バクタ・スポルタ・ナ・ヴィドゥヤーテ』」
「どういう意味ですか?」
「魔法の言葉よ。きっと、信じて。あなたたちは仲直りできるから。ふたりで来るの、待ってるわ」
自信ありげに、シェラハはそう微笑むのだった。
「はい……」
「それにしてもその福音少女って、興味深いわね」
「え? その、はい」
「いったいどんな仕組みなのかしら」
それからシェラハは腕組みをする。
「あのシェラハさんは福音少女のこと、全然知らないんですか?」
羽海は尋ねた。意外そうに、というニュアンスを包み隠すことはどうにもできなかった。
「世間のことには疎いの。きっと本ばかり読んでいるせいね」
と、そういってシェラハは照れ隠しのようなウインクをした。
「でも、回勅が有りませんでしたっけ??」
いまの福音少女の位階制度が樹立したのが、マーセの登場から約1年後。それは当時の教皇によって出された回勅によるものと羽海は自習している(いまは、それから更に一年ほど経っている)。
「本部から回ってきてないから、しらない」
シェラハは回勅の認知をも否定した。
「そうなんですか? カトリックって、結構自由なんですね」
「そうね。厳密に言えば、私たちはカトリックではないのよ」
シェラハがびっくりするようなことを言った。何のこともなしに。羽海は驚きつつ口をひらいた。
「え、でもシェラハさんって、胸にC†Cのバッジをつけていらっしゃるじゃありませんか?」
「本部は、”カフェテリア・クリスチャン教会”よ。カフェテリアを経営するために存在するのね」
「へー」
「あなたも会員になって、バイトしてみない?」
宗派に勧誘された気がしなくもないが、かようのオファーを羽海はありがたくも断らせてもらった。バイトで通うには立地が遠かったためである。しかし羽海がカフェのために働かなかったかといえば、むしろそうではない。翌日から、比較に為らないほどの大量の太客が羽海の宣伝によって押し寄せた。じつに、シェラハに関する限り、この物語はどこまでもハッピーエンドなのである。
(第五話、おわり)
4条
(真実の称号)
1その公生涯において預言者としてのあきらかな功績が認められ、真の預言者と称するに相応しき者に対して、真実認定機関はその預言者としての活動終了後、真実の称号を追贈(Canonization)することができる。
2真実の称号は取り消すことができない。
38条
(善意の預言者の教導権)
善意の預言者は神から特別な力を与えられるがゆえに、預言によって不特定の大衆を霊的に導くことを使命とし、すべての預言者は崇高なる意志によってこの救済に義しく臨まなければならない。