文字数 2,518文字

 東京では、冬でも殆んど雪が降ることは無い。テツヤが生まれ育った東北地方では、冬の積雪は当たり前だった。むしろ冬に雪が積もっていない方が違和感を覚える。テツヤにとって雪は郷愁と似ていた。近年では東北でも、街中は雪が道端に残ることは少なくなった。東京の冬のイメージが、乾いたアスファルトと土埃にまみれた枯葉であるとすれば、テツヤの冬のイメージは、少しずつ東京の冬に近づいている。だが、どんなに故郷を離れようとも、幼少の時に雪を踏みながら歩いた記憶は忘れない。ぎしぎしと微かに靴底が沈む音。部屋の窓から東京の灰色の空を見る。降り続く雨が雪に変わるのを待っている。
 冬の雨は、鋭く肌に突き刺さる。雨が降った日だけは発掘の仕事は休みである。遺跡がひっそりと冷たい雨に打たれている。長い間地中深く眠っていたと言うのに、突然掘り起こされて、居心地の悪い現在の空気を吸わされる。雨が時を洗い流す。現代という空間に、歴史の中の無名な人々の営みが露出する。しかしそれもまた、結局は現在の埃に埋もれて行くに過ぎない。遺跡群を見ていると、力強く蠢く過去の息遣いが聞こえてくる。部屋で一人、雨の中の遺跡発掘現場を思う。雨がアパートのトタン屋根を叩いた。目を閉じる。遺跡は今頃、眠りについている頃だろう。広がる丘陵。地質は限りなく砂に近い。掌で掴んだ砂が、さらさらと指の間をつたって流れ落ちる夢を見た。夢の中で、目の前に広がる砂の丘を、少しずつ自らの手で崩しにかかる。しかし、それは途方もなくて、掘るどころか砂に飲み込まれそうになる。目が覚めると、冬なのにびっしょりと汗をかいていた。自分の人生を掘り起こしていたはずが、逆に埋もれて行くような錯覚に襲われた。
 冬場の作業は思いの他、厳しかった。夏場のように汗をかき過ぎて、体がおかしくなることはなかったが、体が温まるまでの間、指先は震え、爪先が靴に当たると重い痛みが走った。風が強い日は最悪だ。吹き曝しの大地に、砂埃の混じった冷たい風が吹きつける。いくら体を動かしても、体温が上がらない。砂埃が目に入るのも我慢できない。一瞬で眼圧がかかり、目を開けようとするとガンッと一撃目の中を打たれる。涙で砂を洗い流しても、またすぐ次の細かな砂が飛び込んで来る。涙の跡はくっきりと頬に残り、袖口で目を拭った分だけ日焼けのような跡になった。こんな肉体労働なんてやってられない。しかしその度に、社会に置いて行かれた自分に気付く。今、目の前の穴を掘ることでしか、落ちて行く自分を保つことができない。
 ところが最近になって、掘り進めている場所の一箇所だけ、他とは異なる奇妙な造りになっていることに気がついた。責任者に報告してしまえばそれまでだ。きっと配置転換させられる。何も無かったかのように別の穴を掘らされることになる。それは嫌だった。幸いこのことは誰も知らない。専門家が近くを通る時は慌ててその部分に砂をかけて隠し、通り過ぎるのを待った。この発見に興奮していた。作業条件の悪さなど気にならなくなった。
 冬の夕暮れは早い。陽が沈むと同時に作業が終わる。作業仲間の一人が声をかけてくれたが、この頃から誰とも話をせず、目も合わせなかった。小声で返事をすると、未練がましく遺跡を後にした。汚れてドロドロになった服を着て、疲れた表情を浮かべる割に眼光だけが鋭かった。そのうち誰からも声をかけられなくなった。テツヤにとっても好都合で、他人に顔を見られたくなかった。仲間内では、自分が掘っている場所の様子を話すのが通例になっていたからである。テツヤは嘘をつく時、目が泳ぐ。自分でもよくわかっている。ただ、テツヤがあまりにも熱心に掘り進めるものだから皆が陰で噂し始めた。しかし、その噂話は的外れなものばかりだった。失恋のせいだとか鬱病だとか誤解されたことは幸運だった。テツヤが掘り進むスピードは、仲間たちの二倍から三倍も早く、それでいて雑ではない。初めの頃は陰口を叩いていた連中も、次第に無関心になった。現場監督からは重宝がられたが、それ故に別の場所をあてがわれては困るので、わざと時間をかけた。陽が完全に落ちてから、仲間の中で最後に遺跡を後にする。まだ目で確認できるうちに場所を離れ、誰かに気付かれるのが恐かった。
 最終のバスに乗り、電車で片道一時間かけて部屋に戻る。駅は家路を急ぐ人々で溢れているが、いつもがら空きの上り電車に乗って帰る。満員電車とすれ違うと、心の中で自分が満員電車に揺られる立場ではなくてよかったと思う反面、寂しさのようなものも湧いてくる。もし望んでいたならば、満員電車に揺られる人生を送ることができたであろうか? 首を横に小さく振った。人とは逆の流れにしか乗れない自分を思う。踏み切りの音が木霊する。最寄の駅で降り、いつものように駅前のコンビニエンスストアで弁当を買う。それをレンジで温めてもらう時間が耐えられない。部屋に辿り着く頃には、街にネオンが灯る。夜の裏通りを隠れるようにして通り過ぎ、住宅地の外れにある部屋へと逃げ込んだ。部屋の明かりをつけ、コンビニエンスストアの白い袋を小さな丸テーブルの上に置く。汚れた服を脱いで、洗濯籠に投げ入れる。そして、すぐにユニットバスの熱いシャワーを浴びた。湯気が立ちのぼり、青白く冷え切った手の甲に血が満ちる。熱いシャワーの湯が全身を伝い、精気を取り戻した自分の肉体を見て溜息をついた。テツヤはまだ女性を知らなかった。故郷にいた時も、付き合っていた女性はいなかった。東京に出てからも、女性と深く関係することはなかった。知人の中には風俗で初体験を済ませた者がいたが、真似できなかった。専門学校時代の友人もいない。考えてみれば、いつも一人だった。内に篭る性格ではあったが、東京に出てからそれが一気に加速した。鳥肌立つ筋肉質の体を熱湯の流れと共に掌でなぞると、手が性器に触れた。自然に硬くなっていた。自らの手で解放すると、精液はシャワーの熱湯と共に浴槽を伝い排水口に吸い込まれた。気持ちが沈んだ。汚れた体と浴槽をきれいに洗い流し、タオルを手にした。浴槽の隅にまだ砂が僅かに残っていた。
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