第4話   夕焼けモンブラン

文字数 2,374文字

「野々山さん、ちょっと」
 立原課長は声を荒げたりするタイプではない。けれど今日は声色が固いから、何か注意しようとしているのだろうとみちこにはわかる。
「はーい」
 はーいじゃなくて、はい。何回言われても変わらない。東京からきた紗奈さんは、転勤してきた野々山紗奈だった。しかも同じ部署の隣の席、四年先輩のみちこは指導係。
 紗奈はつかみどころがなくゆらゆらしていて、ミスをしても意に介する風ではない。
「これね。先方へのメールには必ず、件名を具体的に入れるように言ったでしょ。お世話になっております、では件名になってないからね」
「はーい、すみませーん」
 紗奈の周りには、文句の一つや二つ、消してしまうような乱気流がある。散っていく桜の花びらのように、もういいんじゃないの、と言わせてしまうものが。
 自分の席へ戻ってくるとエヘヘ、という顔をしてみせる。けれども誰のことも見てはいない、目があったためしがない、とみちこは思う。
「須田さん、この見積書の日付は今日でいいですかね」
 ライブの時はみっちゃんと呼びかけてくるが、会社では苗字を使う努力をしてくれている。そのあたりはわきまえているようだ。何も言わずにおこうか、いや、やっぱりきちんとしないと。
 迷った末、みちこは紗奈を給湯室へ連れ出す。
「あのね、メール一つでも会社の信頼に関わったりするから。言われたことには気を配らないと」
「ですよね。私もちゃんとしなくちゃ、って思うんですけど、つい」
「課長が優しいからって、そこは甘えちゃダメよ」
「立原さんって優しいですよねえ。銀ぶちの眼鏡なのに、お目目が二重なのも、なんかかわいいし」
 はあ。今、何の話をしているかわかってるのかしら。
「ところで次のライブ、みっちゃん、じゃなかった須田さんの後で演やってもいいですか」
「え。それはその、オーナーにも聞いてみないと」
「脩一さんは、二人で相談して決めていいよって」
「わかった」
「やった。ありがとうみっちゃん。ね、今日帰りにスイーツ食べに行きません? アパートのすぐ近くに、美味しいところ見つけて。お礼にご馳走するから」
 この天然。馬耳東風。今度から紗奈のメールまでチェックしないといけないのかも。
 それに。この間までオーナーとか佐古さんとか呼んでいたのに、脩一さんときたもんだ。私はつい最近、やっと呼べるようになったのに。ステージのトリになれたのだって、半年前からなのに。私の後で、って要するにトリをやらせてくれってことじゃないの。あんたってばサラッと言うのね。

 二人で連れ立って退社するなんて初めてのことだ。みちこは会社の人たちとは必要最低限の会話しかしないし、かたや紗奈はよくしゃべる割にはゆるゆるふわふわのカーテンの向こうに居るばかりで、そこから出てこようとはしない。
 歩きながら紗奈が、ここが私のアパート、と教えてくれる。更にツーブロックほど進むと、住宅街の一画で風見鶏の看板がゆるゆると回っていた。
「『夕焼けモンブラン』これが有名なんだって」
 濃厚な栗のペーストが口からそのまま指先にまで染みてくるようで、みちこはふっと気持ちが緩む。アイスティーのストローをくるくる回す、ふわふわの紗奈とは相変わらず、視線が合うことはないけれど。
「みっちゃんは、どんな本を読むの?」
「うーん、ミステリかな。ちょっと古い、イギリスの推理小説が好き」
「意外。ミステリかあ」
 紗奈の目には、自分はどういう人間に写っているのだろうか。幾度となく読んでいるバイブルのような青春小説もあるのだけれど、紗奈には、言いたくない気がした。
 紗奈ちゃんは? と聴くと、有名な小説家の名前が返ってきた。熱烈な読者の多い女性作家で、女性の主人公をちょっと退廃的に描く。
「私、読んだことないかも」
 みちこはそう答えるが、嘘だ。
 正直なところ苦手。初めて手に取ったときは苛立ちさえ覚えて、最後まで読まずに止めた。それでも、常に話題にのぼるので何とか読み終えたとき、イライラの正体を突き止めた。
 小説の中では雨が降っていた。それは陰鬱なもののモチーフとして繰り返しあらわれる。夏へ向かう日差しが続いたあと、季節が戻ったかのような雨が降り続く、そんな記述がある。主人公はその雨を厭い、雨に溺れて墜ちていく。
 あんたね、その時期に雨が降るのを菜種梅雨とか、穀雨とか言うのよ。あんた、と言うのは主人公に向けられたものなのか、作家へのものなのか。恵みを拒絶して、直視しようとしないその姿勢に、共感などすることができない。
 みちこは雨が好きだ。
 きっと、紗奈は雨が嫌い。

 「日暮れの色っていいよね。私、青ってあんまり好きじゃないから」
 唐突に紗奈がそんなことを言い出す。
 西窓いっぱいに秋の空。オレンジのグラデーション。沈む刹那、山のいただきにちょこんと載った、夕日の際立った輪郭。遮る雲ひとつなく、こんな日の入りが見られるなんて、一年に何回あるだろう。
 そう。私、空の青は好きだよ。でも、ターコイズブルーが駄目なの。トルコ石の、ちょっと明るくて緑がかった青色、あざといと思わない? いや、本当はそうじゃなくて、あの色を見ると思い出してしまうの。だから嫌い。
 でも、あんたはこの話をするような相手じゃない。作家への苛立ちが、紗奈に対する感情と混じり合って、さざなみを生む。
 だから、みちこが次に口にしたのは、ライブの話。
「紗奈ちゃんの曲、この前みたいにピアノ弾いてもいいかな」
 みちこには、深い海の底にあっても自分の道を見つけて進みたいという心持ちがある。けれどそれを表にあらわして、自分がこうしたい、と主張するのはとても大変で難しいのだった。だから曲に託すのかもしれない。
 トリをさらっていく紗奈のステージに自分も居よう。意地が言わせた、せめてもの一言だった。

<続く>
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