文字数 3,303文字

 僕の目の前に一冊の、無地で空白のノートがある。ページをめくると、見えるのは横に描かれた線だけである。どのページをめくっても、一文字も書かれていることはない。ただのノート。でも、僕はこのノートが、書かれた願いを叶えてくれることを知っている。なぜ知っているのか、そして、なぜこのノートだと分かるのか、それは分からない。昔から聞かされた気もするし、最近になって分かったのか、それすらも記憶にない。いつ拾ったのか、そもそもどこから手に入れていたのかも、僕の頭の中には保存されていない。このノートには人の夢を叶えてくれる。ただ、それだけである。
 僕は喜々としてペンを握り、自分の欲望に従ってノートに記入した。すると、書いた文字が破線のページに吸い取られるように、奥へ奥へと、やがて見えなくなった。これで僕は、本物の魔法のノートだと確信して、次の夢を記そうと思った。しかし、不思議なことだ。まるで書けやしない。いや、厳密にはノートに接してペンを動かしている。文字が、インクが出ないのである。さきほどまで問題なく黒いインクを放出したペンが機能不全に陥ったと思い込んだ僕は、筆箱の中にはいっている、もう一つのペンを取りだして、同じことを書こうと思った。でも、黒い線どころか、筆圧の後すら残らなかった。どうやら、書いた夢が叶えるまで、新しい願いは書けないのか、単純な一日に一つまでなのかは、定かではないとはいえ、こんな代物を手にした僕は、疑問は残っているものの、焦る気持ちを皆無にして、ノートを閉じた。今日は水曜日。学校に行かなければいけない。

 僕の通う学校は、決して小さくはないが、声を大にしていえるほどの大きさもない、ごく平凡な高校だ。唯一、良いところをあげるならば、授業が終わる時間が、他の学校に比べたらやや早いくらいである。それでも、やや、だ。十分程度なものだ。
 僕自身は、友達は多くない。いないと言ってしまっても問題ないが、本当にいない人に対しては失礼極まるから、多くないと伝えておく。心の中で行われる流ちょうな会話が、実際にクラスメイトを相手にすると、とたんに頭の中が白紙になって、口ごもる。だから、相手も気をつかい、そして時間とともに離れていってしまう。そんな子どもだ。でも、幸運なのか昔から遊んでいる幼馴染が、同じ学校に在籍している。クラスは違うが、みんなの予定が合えば、一緒に帰ったりしている。
 僕の学校での生活は基本一人だ。時々、クラスメイトとお話しするくらい。それも、数分程度の世間話みたいなものだ。孤独を感じることもあるが、それでも、嫌だと思ったことは一度もない。人とずっといるのは、疲れてしまう。省エネと言えば聞こえはいいが、面倒な問題に巻き込まれるのを避けたいだけの、逃避者だ。授業はしっかり聞くし、テストの結果も悪くはない。そのため、先生方からは好かれやすい。変に問題も起こさない、都合の良い模範生とでも思っているんだろう。そんなこんなで時間は過ぎる。形だけで聴衆がゼロだと思う帰りの会が終わり、まだ青い空のまま放課後を迎えた。部活も何もやってない僕は、この学校にいる存在意義を見失ったので、イスを立って、教室から出た。教室の外に設置されている自分のロッカーを開けて、今日の授業で使った教科書をしまっていると、視界の外側から、僕のことを呼ぶ声が聞こえ、反射的に作業を止めて、その声をした方向に振り向いた。僕の幼馴染、圭太だ。
「今日は部活オフになったから、一緒に帰ろうぜー」
「ここ最近オフばかりじゃないか」
彼と話すとき、僕は自然と言葉を紡ぐことができる。
「サボってるんじゃないかと疑ってるな。そんなことないだろ。本当にオフだよ、オフ」
「わかった、わかった。美香は部活?」
「多分な。全員が別のクラスのせいで、いちいち確認しに行くのはめんどくさいな」
「それは、わかるけど。以前はそう言って帰ったら、結果的に美香が置いてかれたと、喧嘩になりかけたじゃん」
「あー、めんどくさい。さっさと行くぞ、直樹」
 僕は、持っていた教科書を半強制的にロッカーの中に投げ込んで、僕たちの教室から、少し離れた、もう一人の幼馴染のいる教室を目指して、歩を進めた。
 教室に到着して、中を覗くと、美香は、バッグの中に教科書を入れているところだった。何も考えていなさそうな圭太は、美香を見つけるとすぐに、
「美香―。今日は部活あるのか?」と、教室全体に聞こえる大声で言った。
 美香は、びっくりとして一瞬、背筋を伸ばしたが、すぐにこちらを振り返り、多少の不満を言いたそうな顔をしながら、ないから一緒に帰ろう、と優しそうな声をだした。
 電車も、自転車も使わない、徒歩の下校。周りの古びれたアパートや目新しい新築なんかではなく、まだ植えたばかりの米の苗や、時代に取り残された和風の屋敷だったら、どんなに今の光景が絵になるのだろう。そんな理想は不幸に、現実は何年も変わらない、三人の世界。圭太がたくさん喋り、僕が反応して、美香が笑う。変わらない。何も変わらない、不変の世界。
 圭太は、サッカー部に所属している。エースまではあと一歩でなれそうな実力を持っているが、彼の向上心は昔に比べたら、どこかに飛んで行った印象がある。それでも、多くの友達に囲まれている人気者だ。
 美香は美人だ。何年も一緒にいるけど、不意に彼女に対してドキッとすることがある。学業に精を出して、ただノートを取るだけの僕に比べたら、競う前に白旗をあげるくらいだ。そして、正義漢からなのか、良妻賢母の片鱗を見せつけるかのように、僕たちのだらしのない生活に関わってくる。
 二人は、まるで別世界の住人のようだ。明らかに、一般と呼べる人たちではない。まさに、理想の男女。そこに不純物が混じってしまっている。それが僕だ。
みんなの家は、歩いて一分もかからないところにある。
 家に帰り、僕は、迷うことなく自分の机に向かった。そこにはすべてを吸い込みそうな一冊のノートがある。昨日と何も変わらない。僕は、昨日に比べたら、恐ろしいくらいなにも思いつかなかった。とりあえず、試しに誰もが思いつくようなことを書いた。黒い婉曲の線が紡ぎ、やがて文字となった。そして、文字が集まり、文となった。すると、同じように、文字はページの見えない底に沈み、やがて姿を消した。慣れない現象に戸惑いつつも、書けたことには感心した。しかし、僕が書いた昨日の願いは、叶えられていないことに気が付いた。若干の不信感を抱きつつも、書けただけ、満足はしていた。そして、時間をスキップするように、惰性的にスマホから流れるたくさんの動画を見始めた。

 あの夢のノートが、僕の変わらない毎日に侵害することはなかった。一人で過ごし、たまに三人で帰る。もはや変えようがない日常。それでも、僕は半分バカらしく、そして半分はすがるように、ノートに毎日、僕のその日のとっさに思いついた願いを書き続けた。相変わらず、文字はノートのどこかに保存されるように、消えていくが、その願いがかなえられることは、今の今まで出会ったことはない。すでに、少しでも期待した自分を恥ずかしく思っていた。そもそも、今の生活に不満を思っているわけではないのだ。それなのに、より良くしようとしたのだ。叶える必要のない無駄な願いだった。それなのにかなえてもらえるわけがない。つまらんものに時間を割いてしまったことを後悔するように、ある日を境に、パタリと、ノートを引き出しにしまった。
 ノートを書くのをやめてから、何日か、何週間か経ったときに、僕しかいない家にインターホンが響いた。僕は、勧誘か営業の類だろうと思い、一度は無視を決めたが、しつこいくらいインターホンを押す相手に、怒りを覚えながらも、ドアを開けた。そこには美香がいた。
彼女の顔は、やけに慌ただしく感じ、そして辛そうだった。僕が、何事かとおもい、彼女が声を出すまで待ったが、やがて彼女は、圭太とは真逆の、消えゆくようなか細い声で、圭太が車にひかれた、とつぶやいた。

 この日を境に、僕の不変の世界は崩れていった。
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