第1話
文字数 1,651文字
五月の風が吹いていた。日が暮れるか暮れないか、という時間帯で、つい先週まで「寒い」と感じていた風を、「あ、涼しい!」と感じた、そのようにしてやってきた夜、一年の中で僕が最も好きな夜の一つだった。
僕は散歩をしている。本当は人間だって日光を浴びた方がいい、それはクル病だとかビタミンDがどうだとかいう話を知らなくても、本能的にわかると思うけれども、ただその日は日中部屋の片付けに追われていて、つまり、片付ける際に出てきた思い出のあれやこれやに目を通すことに追われて、気がつくとこの時間帯になってしまっていたのだ。とにかく僕は膝についた埃をはらって、表に出た。
上着を羽織ってきてよかった、と思った。涼しい、と思うにちょうどよい厚さだった。僕はあてもなく、それでもなんとなく目的意識を持って、歩く。きっと片付けていた時に、かつての君に沢山触れたせいだ。それでなくとも、君を想うにうってつけの、こよなく気持ちのいい夕暮れ時だったこともある。実際にすぐ隣に君を感じていた僕が、隣に君がいればいいのに、と思うのは必然だった。
もし今隣に君がいるなら、と僕は歩きながら考える。僕はすぐさま、今すれ違ったあのおじさんをつかまえて、「こんばんは」と挨拶した後こう言うだろう。
「気持ちのいい夜ですね」
おじさんは少しは驚くだろうけど、自分以外に話しかける相手も辺りにいないことから、自分に放たれたのだと気づいて「ええ」だとか「おう」だとか「そうですね」と返事してくれるはずだ。すると僕は隣の君に目配せしてからこう言うんだ。
「こちらは僕の彼女です」
そのまま彼女が軽く会釈するのを目の端に捉えて、僕はおじさんの方を見る。表情をよく見たいのだ。おじさんはきっとまた少し驚いた顔つきをし、なぜなら日本人はあまり人を紹介するということをしないからね、改まった場面以外では、ただ礼儀正しくされて嫌な気はしないため、少し微笑んで「そうですか」と言うだろう。「へえ」だけかもしれないし、あるいは「それは」とか「お似合いですね」かもしれないが、おおむね好意的に捉えてくれることは間違いない。なにしろ、君は僕の彼女で、僕たちの間には親密な、決して嫌らしいと目を背けたくなるようなものではない親しみの空気が流れていて、それは周りの人をもきっと微笑ましい気持ちにさせると予想されるから。
それから僕と君はまた二人で並んで歩いて、しばらく行くと今度は両手に荷物を抱えたおばさんに出会うから、そこでも僕は彼女のことを紹介してやるんだ。そうやって、道ゆく人一人一人、子どもをおんぶした若い母親だとか、初めてのデートに違いない、初々しい二人連れなんかに僕は君を紹介する。風は生温く、寒くなく涼しいと感じられ、思ったより強く吹き、君のスカートをたくしあげながら、僕と君との間をすり抜けていく。どれだけ風が吹いても僕と君との間にある優しい関係は慈しみの温度を保ち吹き飛ばされることなどなく、僕は溢れ出す想いに耐えきれなくなって、思わず駆け出してしまうだろう。うっかり君のことを置いてけぼりにして。ひとりでいた時間が長く、僕の隣に誰かがいたことの方が珍しかったから、ついその感覚を忘れて。そのくせ頭の中ではずっと君のことを紹介しながら。
君は僕の彼女
君は僕の彼女
こちらは僕の彼女です
ひとしきり走りたいだけ走って気持ちよくなって、僕は君のことを思い出す。はっ、として、振り向いて、当然君の姿はなく、あわてて僕は来た道を引き返す。バツの悪さから今度は心持ちゆっくり歩いて。
遠くに君の姿を認める。僕たちはお互いの方に向かって歩を進める。俯いて、顔を上げて目が合って、恥ずかしげにまた俯いたりしながら。
君のところまで戻った僕は、すまなさそうな雰囲気を醸し出すことを努め、君に視線を落とす。君は少しはおかしな人、といった様子で僕のことを見はするが、怒ったりしない。その瞳はすぐに弧を描いて細くなり、むしろ笑ったみたいになって、僕のことを許してくれるに違いなかった。
僕は散歩をしている。本当は人間だって日光を浴びた方がいい、それはクル病だとかビタミンDがどうだとかいう話を知らなくても、本能的にわかると思うけれども、ただその日は日中部屋の片付けに追われていて、つまり、片付ける際に出てきた思い出のあれやこれやに目を通すことに追われて、気がつくとこの時間帯になってしまっていたのだ。とにかく僕は膝についた埃をはらって、表に出た。
上着を羽織ってきてよかった、と思った。涼しい、と思うにちょうどよい厚さだった。僕はあてもなく、それでもなんとなく目的意識を持って、歩く。きっと片付けていた時に、かつての君に沢山触れたせいだ。それでなくとも、君を想うにうってつけの、こよなく気持ちのいい夕暮れ時だったこともある。実際にすぐ隣に君を感じていた僕が、隣に君がいればいいのに、と思うのは必然だった。
もし今隣に君がいるなら、と僕は歩きながら考える。僕はすぐさま、今すれ違ったあのおじさんをつかまえて、「こんばんは」と挨拶した後こう言うだろう。
「気持ちのいい夜ですね」
おじさんは少しは驚くだろうけど、自分以外に話しかける相手も辺りにいないことから、自分に放たれたのだと気づいて「ええ」だとか「おう」だとか「そうですね」と返事してくれるはずだ。すると僕は隣の君に目配せしてからこう言うんだ。
「こちらは僕の彼女です」
そのまま彼女が軽く会釈するのを目の端に捉えて、僕はおじさんの方を見る。表情をよく見たいのだ。おじさんはきっとまた少し驚いた顔つきをし、なぜなら日本人はあまり人を紹介するということをしないからね、改まった場面以外では、ただ礼儀正しくされて嫌な気はしないため、少し微笑んで「そうですか」と言うだろう。「へえ」だけかもしれないし、あるいは「それは」とか「お似合いですね」かもしれないが、おおむね好意的に捉えてくれることは間違いない。なにしろ、君は僕の彼女で、僕たちの間には親密な、決して嫌らしいと目を背けたくなるようなものではない親しみの空気が流れていて、それは周りの人をもきっと微笑ましい気持ちにさせると予想されるから。
それから僕と君はまた二人で並んで歩いて、しばらく行くと今度は両手に荷物を抱えたおばさんに出会うから、そこでも僕は彼女のことを紹介してやるんだ。そうやって、道ゆく人一人一人、子どもをおんぶした若い母親だとか、初めてのデートに違いない、初々しい二人連れなんかに僕は君を紹介する。風は生温く、寒くなく涼しいと感じられ、思ったより強く吹き、君のスカートをたくしあげながら、僕と君との間をすり抜けていく。どれだけ風が吹いても僕と君との間にある優しい関係は慈しみの温度を保ち吹き飛ばされることなどなく、僕は溢れ出す想いに耐えきれなくなって、思わず駆け出してしまうだろう。うっかり君のことを置いてけぼりにして。ひとりでいた時間が長く、僕の隣に誰かがいたことの方が珍しかったから、ついその感覚を忘れて。そのくせ頭の中ではずっと君のことを紹介しながら。
君は僕の彼女
君は僕の彼女
こちらは僕の彼女です
ひとしきり走りたいだけ走って気持ちよくなって、僕は君のことを思い出す。はっ、として、振り向いて、当然君の姿はなく、あわてて僕は来た道を引き返す。バツの悪さから今度は心持ちゆっくり歩いて。
遠くに君の姿を認める。僕たちはお互いの方に向かって歩を進める。俯いて、顔を上げて目が合って、恥ずかしげにまた俯いたりしながら。
君のところまで戻った僕は、すまなさそうな雰囲気を醸し出すことを努め、君に視線を落とす。君は少しはおかしな人、といった様子で僕のことを見はするが、怒ったりしない。その瞳はすぐに弧を描いて細くなり、むしろ笑ったみたいになって、僕のことを許してくれるに違いなかった。