第6話

文字数 2,449文字

 玄関を開け、靴を脱いでいると、リビングから和恵の声が漏れてくるのが耳に入った。内容までは聞き取れない。そのまま上がり框に足をかけ、階段に向かった。

「ええ。なかったことにさせてください」

 リビングの前を通り過ぎるとき、早口の声が聞こえた。
 はっとした。階段に足をかけたまま、耳を澄ませた。

「うちの方もまったく話を聞いていなかった状態で、戸惑っていることはご承知ください」

 思わずカバンに手をかけた。事務所のオーナーから渡された名刺は、財布の中に入っている。携帯電話も持って出た。
 以前、事務所の連絡先をホームページからプリントアウトした紙だけ、自分の部屋の抽斗に仕舞ってあるはずだった。
 その紙が今、電話機の横に広げられていた。

「ええ。ええ。すみませんが。はい。いずれお詫びに伺いますので」
 ドアを開けると、彼女は受話器を抱えたままちらりと孝之を見て、背中を向けた。

「……なにやってるんだよ?」
「それでは失礼します」

 ピ、と通話を切る電子音が、頭の奥で大きく響いた。
 孝之は口を開き――言葉を出そうとして失敗した。言葉と、ずっと押し込めてきた荒々しい塊が、喉元で詰まって頭が白くなった。
 リビングを飛び出し、携帯を取り出す。

〈ちょっと、親御さんと見解の不一致があるようだね〉
 オーナーの溜め息混じりの声が聞こえる。孝之はうなだれた。
〈うちは別に気にしてないんだけどねぇ。ただうちとのことで君の家の関係がぎくしゃくしてしまうのは良くないね。こちらとしては君の意思を尊重したいとは思うんだが、まあ、親御さんの気持ちを無視するわけにはいかないし。どうかな、もう一度きちんと話し合ってみて、それから考えてみたら?〉

「話なら何度かしたんです。でもずっとあの調子だから。うちのことは別にいいんです。オレ、どうせ家出るつもりですし――」

〈君が良くてもなあ〉
 面倒くさそうな声が聞こえた。
〈正直、困るわけだよ。うちも忙しいから、社員のゴタゴタに関わっている暇までないんだよね〉
「…………」
〈よく働いてくれそうだからOKにしたけど、そんな問題があるとはうちも知らなかったわけでしょ。君が真剣だっていうのはわかってるけど、こっちも仕事だからね。どうだろう、もう一度よく考えてみるっていうのは。それからでも遅くないと思うよ〉

 じゃあ、と逃げるように電話は切れた。電子音が耳に残った。
 携帯を握り締めたまま、孝之はしばらく呆然としていた。電話をかける直前まであった希望が、砕けてあたりに散らばっている。力が抜けて、階段に座り込んだ。

 ショックだった。同時に、あたりまえだ、とも思った。いいんだよ、という言葉をどこかで期待していたのだろうか。親御さんのことなんて気にするな、という言葉をかけてもらえるとでも。
 一緒に働きましょうと言われたときに、自分が認めてもらったと思い違いをしていたのだろうか。それは労働力としてであって、面倒ごとと天秤にかければ、軽く浮いてしまうほどの些細なものでしかないのに。
 もちろん、そんなこと、わかっていた。いや、わかっていなければならないと思っていた。それでもどこかで幼稚な思いに手を伸ばしていた自分に気付いて、まるごとすべてを投げ捨ててやりたい衝動に駆られた。

 家を出て、駐車場へ向かった。無性に走りたくてたまらなかった。暴走するような走り方をする奴らを、ガキだと笑ったことがある。今はメーターを振り切ってでも走りたい気分だった。

「よう。なんだ、シケた面してるな」

 駐車場に差し掛かると、蜘蛛が声をかけてきた。見上げると、ジリジリと明滅する蛍光灯に張った細い巣から、一本糸を垂らしてその先で揺れている。孝之は無視して奥へ向かった。
 いつも停めていたスペースの前まできて、初めて気付いた。

「あいつなら、いねぇぜ」
 蜘蛛が溜め息をつくのが聞こえた。
「さっき、出てっちまったぜ。引き止めてんの、聞きもせずにな。おまえ、停めた後にちゃんとU字ロック掛けなかったろう。駄目だぜ。盗ってくださいって言ってるようなもんだ。ハンドルロックなんて泥棒にとっちゃ、あってねぇようなもんなんだから」

 唖然とした。
 ぽっかりと空いた駐車スペースを見て、それから蜘蛛を見上げた。

「……盗まれた?」
「違う。出てったって言ったろうが。家出だよ家出。おまえ、何か酷いことでも言ったんじゃねぇか?」
「家出……?」
「何か思いつめた様子でよ。気になって、どうしたんだようって訊いてたんだが、だんまりで。突然、今まで話相手になってくれてありがとうって言って、そのまま切り返してどっか行っちまったよ」

 地面に目をやった。アスファルトの上に微かに残った太いタイヤの痕は、入り口付近に達するところでもう見えなくなっていた。
 孝之は立ち尽くした。わけがわからなかった。

 バイクのくせになんで勝手に家出なんかするんだ。

「結局、最後まで何も話してくれない奴だったなあ。俺の家も持っていっちまって。また家作り、面倒なんだがなあ。これ、借家なんだよ」
「――なんで」
「あ?」
「なんで、家出なんか」
「そりゃあ、持ち主様のことが、嫌になったんじゃねえの?」
「…………」
 振り向くと、蜘蛛は意地の悪い声で続けた。
「ちらっと聞いただけだから知らねぇけど、さっきあいつに文句言ってたろ? いつもは放っておかれて、おまえの都合のいいときだけ走らされて、上手くやれなきゃ怒られて。嫌んなるだろ。実際」

 駐車するとき、バイクに投げた言葉のことを思い返した。そんなに酷い言葉だったろうか。言うべきではないと思ったのは事実だ。でも一つ言葉を滑らせた途端に、こうやって出て行かれてしまうものなのか。
 ぐったりした。
 バイクの機嫌をとって喜んでいた自分が、酷く虚しかった。

「なんのために買ったと思ってるんだよ……」
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