Love Your Money
文字数 2,764文字
珍しく使いに出たスーパーで、ミナミデは絶叫する。
「白菜が一玉980円!? まじか!」
ふだんは、バイト先には業者の納品があるし、自分ではカレーの材料以外の野菜を買うようなこともほとんどないから、こんなにもじっくりと生鮮食品売場を見ることはなかった。
「長雨による不作のため価格急騰」
添えられたPOPを食い入るように眺めながらミナミデはつぶやく。
「一時間働いてもオレには、白菜一玉も買えねえじゃねえか」
たしかにいつもギリギリだ。働けど働けど、カツカツの生活。金があるか、無いかと訊かれれば、無いと答えるよりない。高価なものを買うこともなく、いや、おもちゃだけは例外だけれど、おもちゃ以外の身の回りは格安のものばかりという質素な暮らしをミナミデはしていた。
そんなだから当然のように女にはモテない。遠巻きに傍観しているぶんにはいいとおもしろがる女と、支えるのが生き甲斐だ、みたいな懐の深い女が、ときどき現れるくらいだ。バンドをやっていればモテるなんていうのは、どこかの時代にねつ造された妄想の産物だ。
ただ、とんでもない誤解をされることはある。
メジャーデビューが決まりCDを出せば、出しさえすれば、ガボッと大金が舞い込む。雑誌に載りテレビに出演すれば、高級マンションに住めるくらいのギャラが支払われる。そんなことを思っているヤツがいる。
「そうなんでしょう? 羨ましい」
訊ねてくる人間がけっこういる。
「そうなったら電話してよね」
ウソみたいな話だが、そんなことを言って名刺をくれたモデル級にキレイな人もいた。
まさか、そんなことはない。まだメジャーデビューはしていないが、それくらいのことはミナミデにもわかっている。金儲けできるようになるバンドなんて、ほんの一握りだ。バンドだけで食っていける、それだって珍しい。一大ブームを巻き起こし、老若男女が口ずさめるくらいに曲がヒットする。それくらいでなければ高収入なんて見込めない。
現実は厳しい。デビューしてなまじ顔が売れてしまった分、できるバイトも限られて、ミナミデと大差ない暮らしをしている人間が身近にいた。
そんなこと、さすがに説明はしないけれど誤解をしている連中は
「いやいやいや」
ミナミデがそう返事をしても、それをただの謙遜と受け取るからまた悩ましかった。
でもまあそんなことを真剣に考えても仕方がない。ミナミデにはまだメジャーデビューなんて話はなく、慎ましやかに暮らしているのだから。
慎ましやかと言えば聞こえがいいが、その実、金がないというだけだ。
「そんなんで生活できるの?」
年に数回訊ねられ、
「ふつうに暮らしたいとは思わない?」
質問ではない問いをきっかけに別れが訪れるなんてことが、これまで何度もあった。
「ふつうってなんだよ?」
何年か前、耳にタコができるくらいに言われ続けてきたセリフがどうにもガマンならず、ミナミデは反論を試みたことがあった。
「あんた高校出てるんだっけ? 高卒の新入社員の平均手取り額が15、6万だって、ニュースでやってたわよ。あんた今、いくつよ? 30でしょ? そしたら手取り23、4万くらいに昇給してたっておかしくないんじゃない? 平均とおんなじくらいだったらふつう。そんなのわかりきったことでしょう!」
怒れる彼女は冷ややかな目で言い放ち、ミナミデは黙り込んだ。言葉がまったく出てこなかった。
(なんだよ、同級のヤツらはそんなに稼いでんのかよ。つーか、オレの給料って高校出たばっかのヤツよりも少ねえんじゃねえか!)
なにもかもバカらしく思えて、たしかあの日、ミナミデはバイトをサボったのだった。
やけに高価な白菜を抱え、ミナミデはそんなことを思い出していた。ミナミデは今も、あの頃とおなじ店で働いている。
「なあ、知ってっか?」
店に戻ったミナミデはおなじ店でバイトする内山くんに訊いた。高卒で就職したらいくらぐらいの手取りがもらえるのか、知っているかと。
「知ってますよ、15、6ってとこでしょ」
とくに動揺する様子もなく、内山くんはサラリと答えた。
「僕、前にふつうの会社に就職していたことがあるんですよ」
鶏肉をザクザクと串に刺しながらも口調は穏やかだ。
(また、ふつうかよ)
そう思ったけれど、腹は立っていなかった。むしろ内山くんがふつうでホッとする気がした。
ちゃんと年齢を確認したことはないが、見たところ内山くんは20代の終わりくらいだから、そういうことがあってもちっともおかしくない。作家志望だけあって、難しい時事ネタに熱く持論を語ることも多かったし、内山くんはミナミデよりも遥かにちゃんとした経験を積んでいるだろう。
「知ってたらバイトすんのバカらしく思えねえ?」
そんな内山くんがバイト生活をしている理由が気になるところだけれど、もちろんそんなことは訊けない。
「そういうことは考えないに限ります」
これまたサラッとさりげない調子で内山くんは答えた。
「今書いている小説、構想はもう何年も前から考えていたんですよ。それを半年とか一年とかかけて言葉にするんです。筆がのっているときは一日中パソコンをパチパチしていることもあるし、年がら年中、頭の中は小説のことでいっぱい。休みなしで働いているようなもんです。
それが本になったとして、手元に入ってくるお金は一冊数十円、数百円の世界。膨大な時間をかけても収入はごくわずか。たぶん時給換算なんてできないんじゃないですかね。
だけど僕はそんなことを考えて、ものを書いているわけじゃない。ミナミデさんだって、そんなこと考えてバンドやってるんじゃないでしょ?
バイトだっておんなじですよ。お金のことなんて考えてたら、なにもできないし、なにもしたくなくなっちゃう」
「おまえかっこいいな」
ミナミデは思ったままを素直に口にした。
「べつにかっこつけて言ってるんじゃないですよ。書くのが好きだから書きたいし、書く時間が欲しい。だから余計なことは考えないし、余計な労働はしない。それだけです」
(だよな、オレだってそうだ。バンドをやりたいだけだ)
思うまま好きなようにやっているつもりでも、ときどき別方向に傾いてしまうことがある。比べたりしても仕方がない。もっとだいじなことがあるじゃないか。ミナミデは内山くんに気付かされた。
白菜が買えるかどうかを時給に換算なんてするもんじゃない。欲しいなら払い、躊躇うなら止めればいい。単純なことだ。
「あればあったで文句はないが、ないならないなりに。ふつうがなんだ、オレ流で行くぜ」
ザックリと白菜に包丁を入れながらミナミデは大きなひとりごとを口にした。
「白菜が一玉980円!? まじか!」
ふだんは、バイト先には業者の納品があるし、自分ではカレーの材料以外の野菜を買うようなこともほとんどないから、こんなにもじっくりと生鮮食品売場を見ることはなかった。
「長雨による不作のため価格急騰」
添えられたPOPを食い入るように眺めながらミナミデはつぶやく。
「一時間働いてもオレには、白菜一玉も買えねえじゃねえか」
たしかにいつもギリギリだ。働けど働けど、カツカツの生活。金があるか、無いかと訊かれれば、無いと答えるよりない。高価なものを買うこともなく、いや、おもちゃだけは例外だけれど、おもちゃ以外の身の回りは格安のものばかりという質素な暮らしをミナミデはしていた。
そんなだから当然のように女にはモテない。遠巻きに傍観しているぶんにはいいとおもしろがる女と、支えるのが生き甲斐だ、みたいな懐の深い女が、ときどき現れるくらいだ。バンドをやっていればモテるなんていうのは、どこかの時代にねつ造された妄想の産物だ。
ただ、とんでもない誤解をされることはある。
メジャーデビューが決まりCDを出せば、出しさえすれば、ガボッと大金が舞い込む。雑誌に載りテレビに出演すれば、高級マンションに住めるくらいのギャラが支払われる。そんなことを思っているヤツがいる。
「そうなんでしょう? 羨ましい」
訊ねてくる人間がけっこういる。
「そうなったら電話してよね」
ウソみたいな話だが、そんなことを言って名刺をくれたモデル級にキレイな人もいた。
まさか、そんなことはない。まだメジャーデビューはしていないが、それくらいのことはミナミデにもわかっている。金儲けできるようになるバンドなんて、ほんの一握りだ。バンドだけで食っていける、それだって珍しい。一大ブームを巻き起こし、老若男女が口ずさめるくらいに曲がヒットする。それくらいでなければ高収入なんて見込めない。
現実は厳しい。デビューしてなまじ顔が売れてしまった分、できるバイトも限られて、ミナミデと大差ない暮らしをしている人間が身近にいた。
そんなこと、さすがに説明はしないけれど誤解をしている連中は
「いやいやいや」
ミナミデがそう返事をしても、それをただの謙遜と受け取るからまた悩ましかった。
でもまあそんなことを真剣に考えても仕方がない。ミナミデにはまだメジャーデビューなんて話はなく、慎ましやかに暮らしているのだから。
慎ましやかと言えば聞こえがいいが、その実、金がないというだけだ。
「そんなんで生活できるの?」
年に数回訊ねられ、
「ふつうに暮らしたいとは思わない?」
質問ではない問いをきっかけに別れが訪れるなんてことが、これまで何度もあった。
「ふつうってなんだよ?」
何年か前、耳にタコができるくらいに言われ続けてきたセリフがどうにもガマンならず、ミナミデは反論を試みたことがあった。
「あんた高校出てるんだっけ? 高卒の新入社員の平均手取り額が15、6万だって、ニュースでやってたわよ。あんた今、いくつよ? 30でしょ? そしたら手取り23、4万くらいに昇給してたっておかしくないんじゃない? 平均とおんなじくらいだったらふつう。そんなのわかりきったことでしょう!」
怒れる彼女は冷ややかな目で言い放ち、ミナミデは黙り込んだ。言葉がまったく出てこなかった。
(なんだよ、同級のヤツらはそんなに稼いでんのかよ。つーか、オレの給料って高校出たばっかのヤツよりも少ねえんじゃねえか!)
なにもかもバカらしく思えて、たしかあの日、ミナミデはバイトをサボったのだった。
やけに高価な白菜を抱え、ミナミデはそんなことを思い出していた。ミナミデは今も、あの頃とおなじ店で働いている。
「なあ、知ってっか?」
店に戻ったミナミデはおなじ店でバイトする内山くんに訊いた。高卒で就職したらいくらぐらいの手取りがもらえるのか、知っているかと。
「知ってますよ、15、6ってとこでしょ」
とくに動揺する様子もなく、内山くんはサラリと答えた。
「僕、前にふつうの会社に就職していたことがあるんですよ」
鶏肉をザクザクと串に刺しながらも口調は穏やかだ。
(また、ふつうかよ)
そう思ったけれど、腹は立っていなかった。むしろ内山くんがふつうでホッとする気がした。
ちゃんと年齢を確認したことはないが、見たところ内山くんは20代の終わりくらいだから、そういうことがあってもちっともおかしくない。作家志望だけあって、難しい時事ネタに熱く持論を語ることも多かったし、内山くんはミナミデよりも遥かにちゃんとした経験を積んでいるだろう。
「知ってたらバイトすんのバカらしく思えねえ?」
そんな内山くんがバイト生活をしている理由が気になるところだけれど、もちろんそんなことは訊けない。
「そういうことは考えないに限ります」
これまたサラッとさりげない調子で内山くんは答えた。
「今書いている小説、構想はもう何年も前から考えていたんですよ。それを半年とか一年とかかけて言葉にするんです。筆がのっているときは一日中パソコンをパチパチしていることもあるし、年がら年中、頭の中は小説のことでいっぱい。休みなしで働いているようなもんです。
それが本になったとして、手元に入ってくるお金は一冊数十円、数百円の世界。膨大な時間をかけても収入はごくわずか。たぶん時給換算なんてできないんじゃないですかね。
だけど僕はそんなことを考えて、ものを書いているわけじゃない。ミナミデさんだって、そんなこと考えてバンドやってるんじゃないでしょ?
バイトだっておんなじですよ。お金のことなんて考えてたら、なにもできないし、なにもしたくなくなっちゃう」
「おまえかっこいいな」
ミナミデは思ったままを素直に口にした。
「べつにかっこつけて言ってるんじゃないですよ。書くのが好きだから書きたいし、書く時間が欲しい。だから余計なことは考えないし、余計な労働はしない。それだけです」
(だよな、オレだってそうだ。バンドをやりたいだけだ)
思うまま好きなようにやっているつもりでも、ときどき別方向に傾いてしまうことがある。比べたりしても仕方がない。もっとだいじなことがあるじゃないか。ミナミデは内山くんに気付かされた。
白菜が買えるかどうかを時給に換算なんてするもんじゃない。欲しいなら払い、躊躇うなら止めればいい。単純なことだ。
「あればあったで文句はないが、ないならないなりに。ふつうがなんだ、オレ流で行くぜ」
ザックリと白菜に包丁を入れながらミナミデは大きなひとりごとを口にした。