「アリサ、こっち向いて」

文字数 1,782文字

「アリサ、こっち向いて」


 1  春子とアリサ

「アリサ、あなた、何考えてるの?」
 春子は顔を見ずに言った。当のアリサはというと、幼児用の椅子に仰け反ったような格好でだらしなく座り、背もたれには頭を乗せて、ぽかんと口を開けたまま部屋の天井を狂ったように見つめていた。
「口は閉じなさい。阿呆に見えるわよ」
 今度は顔を見て言った。
 しかし、アリサは眉一つ動かない、彼女の視点は未だ空を仰いでいる。
「そろそろ、ここを出るわ」

パチン。 

 破裂音と同時に、僅かながらアリサが頷いたように見えた。
「そんなに私と話したくないのね。それなら。ずっとそうしてなさい」と言って春子はカーテンを開けた。
 外は雪が降り始める冬の夕方だった。


2  勘違い

「綺麗ね。あなたも見る?」
 春子はアリサの隣に座って、背もたれに乗ったアリサの頭を軽く持ち上げ、ベランダの方に向けてやった。と同時に、春子が動かしたせいでアリサの口からわずかに唾液が溢れ落ちた。
「バカ」
 春子は呟いた。
 唾液はアリサの顎を伝って、顎先から水色のスカートの上に落ちた。唾液は膝のあたりにとどまって、じんわりとスカートの生地に吸い込まれていった。
「怒ってごめんなさい。今、拭いてあげるから」と春子は自分の身体の半分にも満たないアリサを抱きかかえてやった。
 それから、アリサの名前が書かれたハンドタオルをタンスから取り出し、丁寧に拭いて上げた。
「綺麗になったわ。ねえ、アリサ?」
 この時、春子はまた思い出した。
 そうか。アリサは死んでいるのだ。
 春子にはこの勘違いが何度目なのか数えるほど、余裕がなかった。
「まただ」と言葉を無理やり吐き出した。吐き出した言葉が床に落ちて、コトンと音を立てた。


3  シャボン玉

 アリサが死んだ翌日の朝、不思議なことが起こった。
 無数のカラフルなシャボン玉が部屋中を飛び回り、春子の体を優しく揺するように起こしてくれた。
 その日を境に春子には特別な能力を手にしていた。
 言葉や音のように形を持たない無形物の存在を目視するだけでなく手に取れるようになっていたのだ。
 不思議と怖くはなかった。それでも、まだ夢の中にいるのかもしれないと思って、何度かアリサに声をかけてみた。もちろんアリサは起きるはずがなかった。


4 黒い

 シャボン玉は柔らかく、指で弾くと、パチンと音を立てて小さな花火を打ち上げるように美しく消えた。アリサもきっと喜ぶだろうなあ。とそんな事を思うようになったのが、アリサが死んで3日が経ったころだった。
 と同時に小さな危険を感じるようにもなっていた。
 春子は部屋の雰囲気だって、「物体」として捉えていた。だからこそ、急いで出なければならない。それが容易に確認できた。
 部屋の中央には、薄暗く気味の悪い色をした小さな塊が浮いていた。楕円というか、完全な丸ではない、不完全な「物体」が浮いていた。部屋中に浮かんでいたシャボン玉たちのせいで、僅かに膨らみ続ける「物体」に気が付かなかったのだ。
 この頃には片手で数えられるほど、少なくなっていた。
「アリサ、また大きくなってる気がするの」と不安に満ちた声でアリサに助けを求めた。抱えていたアリサを再び小さな椅子に座らせた。
「ねえ、アリサ。これはあなたなのかしら」としつこく聞いた。
 それでもアリサは起きなかった。恐る恐る、「物体」を手にとってみた。掴むと動いて離れようとした。それでも、春子は逃さないように慎重に、「物体」を捕まえた。
「このまま、どこかに捨ててしまいましょうか。アリサ、あなたはどう思う?」


パチン。


 最後の一つとなっていたシャボン玉がアリサの頭に当たった。その小さな衝撃で、僅かにアリサが頷いたように見えた。
「私もそう思うわ。アリサ」

「ねえ、ごめんなさい」

と言って、春子は「物体」から手を離して、泣き崩れた。
 空中に放たれた「物体」は春子を包み込むように、部屋中を薄暗く気味の悪い空間へと変えた。
 春子は顔を上げて、アリサの小さな頭を優しく撫でて言った。

「アリサ、こっち向いて」

 春子はベランダから飛び降りた。


                        2018年9月28日 執筆
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