第一話 物語の価値はどこにあるのか? #5
文字数 9,740文字
*
放課後の図書室は、いつも以上に静謐だった。
窓から射し込んでくる夕陽が、景色を黄金色に染め上げようとしている。もしかしたら、誰もいないのではないかと考えた。いつものように談笑している生徒の姿はどこにも見えない。今日はわたしが当番を引き受けたので当然だったけれど、カウンターに他の図書委員の姿も見えなかった。奥にある司書室の扉が半ば開いていて、そこもがらんとしているのが覗える。
書架の向こうにあるテーブルのことを考えた。今日も真中さんは、あそこで小説を書いているのだろうか。わたしは、真中さんと綱島さんの、どちらかを選ばなくてはならないのだろうか。それとも、綱島さんたちにわたしみたいな人間が相応しくないのと同じように、真中さんにも、わたしは相応しくないのかもしれない。
そう。彼女も、本当はわたしを嫌っていたら?
あの本の中で見つけたわたしが、多くの人に嫌われていたのと同じように。
わたしは書架の陰に隠れて、そっと覗うようにしながらテーブルに眼を向ける。
いつも、そこで小説を書いている彼女は、いない。
これまでの秘密の逢瀬が、ただの幻だったかのように。
ただテーブルには、紅の陽が寂しげに落ちていた。
誰の姿もないここは、まるで物語の中に出てくる聖堂のようだ。
書架の間を、静かに歩いた。収められている本のタイトルを、一つ一つ確認していく。わたしが好きなのは、もちろん物語が収められている書架だ。たくさんの小説がいっぱいに詰め込まれ、鮮やかな背表紙がケースに収められたクレヨンのように不規則な順で並んでいる。そこにあるタイトルをなんという気もなしに眼にしては、そっと指先を伸ばして書棚から引き抜く。表紙を見て、ページをぱらぱら捲って、黴臭い匂いを嗅ぐ。そこに閉じ込められた、物語と世界の薫り。そこには、どんな想いが込められているのだろう。どんな子が、どんな人が、どんな人生を歩んでいくのだろう。わたしは水族館を回遊する魚のように、書架の間を歩き、物語を眺める。
物語の世界には、たくさんの子たちがいる。
そこには、たくさんの、わたしがいて。
わたしは、たくさんの、わたしになれる。
どこにも、ほんとうのわたしはいない。
ほんとうのわたしなんて、要らないんだ。
わたしは、書架の一つの前に佇んでいた。睨むように、そこに並んでいるタイトルの一つを見つめる。その雑多なタイトルの中で見つけてしまうなんて、きっと小さな奇跡のように難しいことだろう。でも、わたしは吸い寄せられるように、その本の背表紙を睨みつけていた。
人差し指が、本を引き抜く。
わたしは、その本を胸に抱いた。
わたしが、わたし自身を見つけたと思った、あの本だった。
わたしは、わたしのことが大嫌い。
だから、物語の世界でたくさんの違うわたしと出会う。そこで、わたしもこんなふうに生きられたらいいのにと夢想する。そんなこと不可能だとわかっていても、もしそうだったらなんてほんの僅かでも考えてしまう。そんなふうに読書をしていたから、本当にこれはわたし自身のことだと、そう思える本に出会うことは、これまでめったになかった。
ここに、わたしがいるって。
こんなわたしでも、いてもいいんだって。
そう安堵させてくれる本に出逢えることは、本当に奇跡だ。
それなのに──。
だめだった。わたしはその本を胸に抱えたまま、食い込んだ歯の痕で痛む唇を大きく開く。顎先に力を込めて、わたしが吐きだしてしまうすべての音を、ここにある優しい物語の数々が吸い取って、この聖なる場所の静謐さを守ってくれるようにと祈った。
でも、その祈りは、届かない。
ぼろぼろと、涙が流れて落ちた。嗚咽は醜い動物が鳴いているように酷く穢らわしい音程を奏でていた。うああ、うああ、うああ、と自分でもわけのわからない悲鳴が漏れた。物語を抱きしめながら、わたしはいったいなんなのだろうと考えた。わたしは誰なんだろう。わたしの価値はなんだろう。わたしはどこにいればいいんだろう。わたしは、どうしていつもこんなに醜いのだろう。
締め付けられる心の痛みに耐えきれず、子どものように涙を零しながら、ただ天井に顔を向け、この聖なる場所にいるはずの神様に祈った。
神様、人生が一つだけなんて、あんまりです。
わたしは、わたしなんかになりたくなかった。
わたしは綱島さんみたいになりたい。可愛くて、綺麗で、みんなから愛されて、賢く気まぐれで行動力があって。
そうでなければ、真中さんのような人がいい。強く逞しくて、確たる自分自身を持っているような、凜とした人になりたい。
涙が、止まらない。呻きが、収まらない。このまま、消えたい。本の雪崩が起きて、わたしを押し潰して、消しさってほしい。神様、こんなちっぽけで、なんの取り柄もない中学二年生の女の子くらい、書架の一つで押し潰せるはずでしょう?
我が儘を祈って、幼稚園児のように、涙をぽろぽろ流す。神様は来てくれなかった。頰がひたすらに濡れてくすぐったい。肩で涙を拭い、うああと呻きながら、それでも必死に声を殺そうとして、わたしは抱えていた小さな本をぎゅっと抱きしめる。心臓に、押し当てる。
「秋乃?」
醜いわたしの嗚咽に交じって聞こえたのは、神様の声ではなかったけれど、もしかしたら、それはわたしにとって似たようなものだったのかもしれない。なぜなら、あなたは、わたしの憧れる世界を創り出してしまう神様のような人だったから。
真中さん。
「どうしたの? 大丈夫?」
優しい声だった。だから、大丈夫だよと頷きたかったのに、わたしはその言葉のせいで余計に傷口を押し開かれたみたいに、大きく口を開いて呻きながら、真中さんの方へよろよろと足を向けた。
真中さんの肩が、わたしの身体を抱き止めるのを、感じる。わたしの髪を、いくつもの言葉と優しさを書き出す魔法の指先が、そっと撫でていく。
「もしかして、綱島さんたちとなにかあった?」
また、優しい声がする。言えない。なにも言えない。こんなこと誰にも理解してもらえない。わたしはかぶりを振った。羞恥のあまり消えてしまいたくて、自分自身を否定したくて、かぶりを振る。真中さんの手が、わたしの背をさすった。
「お願い。聞かせてよ。秋乃の物語」
頰に冷たいものが触れる。それは真中さんの人差し指だった。
わたしの物語。
不思議な、言葉の響きだった。
いつも、あなたはそう。
不思議な響きのする言葉を使って、わたしのことを魅了する。
「わたし……」
わたしは、不思議と自分が安堵していくのを感じながら、手にした文庫を心臓に押し当てて頷く。真中さんは優しく笑って、わたしの涙を拭いながら言った。
「それじゃ、いつもの秘密の席に行こうか」
*
わたしは、わたしのことをうまく話せただろうか──。
真中さんの隣の席に腰掛けて、気恥ずかしい思いで、ぽつり、ぽつり、と言葉を落としていく。いつだって、わたしは自分のことをうまく話せない。言葉は途切れ、閊えて、意味不明なものにしかなってくれなかったけれど、真中さんはときどきわたしの肩を摩るようにして、辛抱強く話を聞いてくれた。
「ほら、洟かみなよ」
そう言って、真中さんがポケットティッシュを差し出してくる。わたしはそれを使って、言われるままに洟をかんだ。思ったより、ちーんと大きな音が飛びだしてしまい、今度は別の羞恥心が燃え上がる。そんなわたしを見て、真中さんはころころと鈴を転がしたように笑った。
「恥ずかしい……」
消え入りそうな声で呟くと、真中さんは笑ったまま、わたしの肩を優しく叩く。
「落ち着いた?」
「うん……」
心臓はまだ強く脈打っていたけれど、もう顔がぐしゃぐしゃと歪んでしまうことはない。
「どうしてわかったの。綱島さんたちと関係あることだって」
「そんなの、わかるよ」真中さんは優しい眼差しで言う。「秋乃を見ていればさ」
「わたしを……?」
「うん。お昼休み、少しだけ秋乃のことを見ていたんだ。綱島さんたちのこともね。なにを話していたか知らないけれど、秋乃の様子がおかしいって思った」
「わたしの、ことを……?」
「ああ、いや、そのさ、ずっと見ていたとか、そういうわけじゃなくてね。なんていうのかさ、前にも話したと思うけれど……。こう、世界の行間を読むわけだ」
真中さんが口にしていた、それはまるで魔法みたいな言葉。
「物語を──、その中でも、特に小説を読む意味の一つって、そこにあるんじゃないかなぁって、あたしは思ってる」
「その、真中さんの言う、世界の行間を読むことが、読書をする上で大事ってこと?」
「うーん、大事というか、そもそも読書という行為の存在意義というか」真中さんは眉を寄せて難しそうな表情をした。腕を組んで首を傾げている。彼女のシュシュで纏めた尾のような髪が、大きく揺れ動く。「あ。あくまで、あたしがそう思ってるってだけだよ。本の読み方なんて、人それぞれなんだから」
「どういう意味?」
よく、わからない。わたしは洟を啜りながら、彼女に聞いた。
「あのね」彼女はわたしを見て、また優しい表情に戻る。「小説を読むって、不思議な行為だと思うんだ。書かれてる文章一つをとっても、読んだ人それぞれが違った意味を見出す。みんな違う感情を汲み取って、違う景色を想像して、違う世界を創り出して……。映画やアニメとかと違って、自分で考えて汲み取らないといけない、能動的なところがすごく大きいと思うの。でも、だからこそ、わかるようになってくることがあると思うんだ。物語の中で、いろいろな体験をして、涙を流して、優しい気持ちになって、ときには理不尽な怒りを覚えて、いろいろな人生を共有していく……」
彼女の語る言葉の一つ一つ。
それが、わたしの傷ついた胸に染みいっていく。
「綴られた文字から、行間に織り込まれた登場人物たちの心象を一つ一つ掬い取って、そうしてまったくの他人へと深く感情移入する。あたしたち人間には、それができる力があるんだよ。よく考えると、それって凄いことじゃない? だから、そんなふうにして注意深く傍らの人を見て、その人がどんなことを考えて、どんなことに悩んでいるのか、他人の心を読み解いて、感受することだってできるはず。物語に共感する感受性を、内側に閉じ込めておくだけじゃなくて外側に向けるの。そうしたら、きっと大切なことに気づけるはずなんだ」
そうやって、秋乃を見つけた。様子がおかしいな、大丈夫かなって思ってた。それでもし、これが物語だったら、傷ついた友達の側には誰かが付いていてあげなきゃ。少なくとも、あたしはそうありたいって思った。
「あたしは、そういう人間になりたいなって」
真中さんの言葉を胸の奥に書き留めるようにしながら、わたしはそこに手を置いた。ブラウスの向こう側で、心臓がどきどきと鳴り続けている。彼女の言葉の意味を理解していくにつれて、わたしは吐息を漏らしていた。優しい物語を読み終えたあとのような気分で。
「それ……。すごく、すてき」
彼女は、やっぱり照れくさそうにして笑った。
「あのさ、お節介かもしれないけれど、あたし、もう一つ秋乃に伝えておきたいって思う」
そう言って、彼女は視線をテーブルの上へと向けた。わたしが泣きながら抱えた文庫本が、ぽつねんとそこに置かれている。
「秋乃は、たぶん、この本に自分を見つけたんだね」
わたしは、はっと息を吞んで真中さんを見る。
「どうして」
「簡単だよ。あたしも、この小説が好きなの。ほら、あたしたち、似たもの同士だから」
似たもの同士。
わたしと、真中さんが?
「ぜんぜん、違うと思う」わたしは頰が赤くなるのを感じ、俯きながらぼそぼそと喋る。「わたしは、真中さんみたいに、小説を読んでそんなことを考えたりなんて、ぜんぜんしなかったよ。本を読んでいる数だって、真中さんの方がずっとすごい。なにより、自分で物語を書いてしまうんだもん。ぜんぜん、すごいよ。わたしなんか、比べられないよ」
真中さんは、わたしをじっと見た。睨むようにも、挑むようにも似た眼差しだった。
「読書って行為に、上も下もないよ。ただ、物語が好きって気持ちがあればいいじゃん。それがない人だっているんだから、秋乃、それってたぶん凄いことなんだよ」
真中さんは、この聖域のように穏やかな図書室にぐるりと眼を向けた。
「図書委員の子って、やりたくなくて、仕方なくやってる子と、本が好きでやってる子、いろいろな子がいるよね。でも、秋乃は仕方なくやってるわけじゃない。カウンターの中、穏やかな表情で、いつも楽しそうに読書をしているでしょう。本を受け取るときの仕草とか、ページを捲るときの優しい手つきとか、ああ、この子って、物語だけじゃなくて、本って媒体そのものが好きなんだなって。そういうの、見ればわかるよ」
意外だった。わたしは自分が思っている以上に、真中さんに観察されていたらしい。この図書室で話をするまで、同じ教室にいるというのに、わたしは真中さんのことにちっとも視線を向けたことがなかった。こんなに明るく活発に話す子だなんて、想像もしていなかった。あるいは、これが、真中さんの世界を感受する力なのかもしれない。
世界の行間を読む。
そうして、大事なことに気づき、人を読み解いて、行動する。
それが、読書の持つ力の一つ──。
でも、わたしは俯いたまま呟いた。
「わたしは……。書店の娘になんて、生まれなければよかったって……、そう、思ってる。そうしたら、本なんて読まなくて、よかったのにって……。もっと明るくて、みんなに好かれるような子に、なれたんじゃないかって……」
こんな気持ちを、誰かに告白するのは初めてだった。
だからなのか、呟いた言葉はぐちゃぐちゃだった。嗚咽と溢れる涙と力の籠もった頰の筋肉のせいで、とても聞き取りづらい言葉になっている。
なのに、真中さんは、わたしの言葉をきちんと聞き取ってくれた。
「秋乃は、自分の物語が嫌いになっちゃったんだね」
「わたしの、物語……?」
その言葉に、わたしは空想の中でびりびりに破り棄てた真っ白な文庫本のことを想起する。汚物を処理するように、便器に流した自分の物語。すごいな、と思った。涙を堪えながら、笑いそうにすらなった。真中さんには、わたしのことが、なんでもわかるみたいだった。
「きっかけは、この本でしょう? 他の人の評価が気になっちゃった?」
彼女は、テーブルの上の文庫本に手を伸ばす。
まるで、あなたは魔法使いか、そうでなければ、神様みたい。
真中さんはその本をぱらぱらと捲った。紙の匂いを嗅ぐように、眼を閉ざして顔を近付ける。柔らかな夕陽が射し込むその光景を涙交じりに見て、まるで彼女が物語の世界に入り込んでいく瞬間を見るような錯覚に陥った。
「わかるよ。あたしも、自分の好きな登場人物や主人公が、嫌われちゃってるのはつらい。まして強く感情移入したあとじゃ、まるで自分のことを言われているみたいで、あたしって、こんなに嫌われる人間なのかなって考えちゃう」
真中さんは、わたしがなにも言わないのに、わたしの気持ちを代弁する。わたしの心の隙間、かたちにすらなっていないところを、魔法の力で読み解きながら。
「そうすると、自分の生き方に価値なんてあるのかなって、あたしも不安になるんだ。好きでこんな性格になったわけじゃない。違う人生を選べたら、そうしていたはずなのにって……。でもね、秋乃、あたし、思うんだ。本の読み方は、人それぞれで、そこからなにを感受するのかも、人それぞれなんじゃないかなって」
「それは……、そう、かもしれないけれど」
「誰もが同じ本を読んで感動できるわけじゃない。文章や文体は、物語の心臓の鼓動のようなもの。似ているようで、注意深く耳をすませば、一つ一つ違ったリズムを刻んでいる。誰しも物語の受け取り方が違うのなら、その鼓動と自分の鼓動がまったく合わないと感じる人がいても不思議じゃない。むしろ、自分の心拍と一致する文章に出逢えたときは、本当に奇跡的なことで、とても幸せな気持ちになれる。物語の価値は、一つじゃない」
そんなふうに、真摯な表情でわたしを見つめる真中さんの言葉に、わたしは聞き入っていった。こんなふうに真剣に、そして必死に、そして信念を持ってわたしに言葉を伝えようとする人に出会ったのは、初めてかもしれない。
「人間って、ものの価値を、絶対的なものとして捉えたくてたまらない生き物だよね。そして、自分の感性が世界でただ一つ、絶対に正しいものだって信じてしまってる。自分がだめだと思ったら、それは絶対的にだめで、それとは違う意見を持つ人の存在や、その人の心の動きをまるで無視してしまう。でも、きっと違うんだ。物語の価値は相対的なもので、絶対的なものなんかじゃない。表面的に見れば、もしかしたら、誰もがその本を否定的に言うのかもしれない。物事を否定する言葉の方が、表に出てきやすいもの。でも、きっと秋乃と同じように、あるいはあたしのように、この物語が好きで好きでたまらない子だっているんだよ」
真中さんは、愛しげに手にした文庫本に眼を落とす。それから、胸に抱くように、そっと心臓に押し付けた。
「百人の人間がいれば、百人のものの見方がある。百人それぞれの感じ方があって、百人それぞれの愛し方がある。そして、それは人の価値も変わらないことなんだ」
人の価値。
わたしの、価値。
「あたしは好きだよ。秋乃の、その繊細な感受性」
真中さんは笑って、わたしにその文庫本を差し出す。
わたしは呆然として、ただ自然と、その本を受け取っていた。
好き、という言葉を、誰かに言われたのは。
そんなふうに、具体的に、自分のどんなところがと挙げられて、言われたのは。
もしかしたら、初めてかもしれなくて。
「あなたが、本屋さんのお嬢さんで、読書に興味を持って、繊細な感性を磨いて、そうして、読書をするのが大好きな子じゃなかったら、こうしてあたしと話をすることなんてなかったと思う。あたしの、書きかけの物語を読んでくれることだってなかった。だから、あたしは今の秋乃が好きだよ。あたしの物語を、読んでくれてありがとう」
射し込んでくる夕陽が眩しくて、照れたように笑う真中さんの表情が、埃の粒子の中で煌めいている。わたしは彼女を見つめ返しながら、わたしと似た物語を胸に抱いて、彼女を見返した。
わたしの価値。
こんなわたしにも、価値があるのだとしたら。
「綱島さんたちだって、秋乃のこと、嫌いじゃないはずだよ。綱島さん、身内には優しいタイプみたいだし、絶対に可愛がってる。だから、そんなふうに怯えないで自分の物語の価値を信じてあげて。まずはさ、あなたが好きにならなきゃ。あなたという物語を」
「わたしも……。物語の主人公に、なっていいのかな」
怖々と、そう問いかける。
「もちろん。誰の中にだって、物語はある。優しいだけが物語じゃないから、辛いこともたくさんあると思う。でも、いつかその物語を読んで、あなたのページの端に涙を落としてくれる人が、きっと現れるよ」
わたしは、文庫本を心臓に押しつける。
どきどきと、そこが高鳴る。
誰の中にも物語がある。
わたしの物語。
小説を読んだときみたいに、すてきな言葉の数々が、胸に染みこんで。
どうしてだろう。
わたしは、嬉しいはずなのに、涙をぼろぼろ流しながら頷く。
もう少しだけ、わたしは自分の物語を愛してみたい。
心から、そう感じた。
*
綱島さんたちとのぎくしゃくした関係は、まるで呪いが魔法によって解かれてしまったみたいに、あっさりと終わりを迎えた。真中さんの半分でもいい。十分の一でもいい。感受したことを、外へ出そう。黙り込んでいないで、伝えたいことを伝えようと、そう考えたおかげかもしれない。またあのアイスクリーム屋さんの話題になったとき、わたしは精一杯の勇気を振り絞り、言った。
「そのお店、みんな、いつ行ったの?」
「あ、ごめん。あれ、そういえば、なんであきのんいなかったんだっけ?」
佐々木さんが不思議そうに首を傾げた。北山さんが続ける。
「ほら、あたしが兄ちゃんの友達とカラオケするって話になって、なんか呼ばれて」
「あ、そっか、あきのんも誘おうとしたけど、リカが怒ったんだよね」
「だって、あれ、絶対合コン目的だったでしょ」綱島さんが鼻を鳴らし、苛立たしげに言う。「実際そうだったっぽいしさ。秋乃の性格じゃ、絶対萎縮すると思って」
わたしは、ぽかんとして、綱島さんのことを見遣る。
「あれ」綱島さんはわたしの視線を受け止めて、焦ったように言う。「ごめん、行きたかった? カラオケとか、秋乃に似合わないと思ってさ。前に嫌いだって言ってたから」
「ううん、そうじゃなくて」
わたしは、自分のことが情けなくて、そうして、ぜんぜん外の世界のことを見ていなかったのだなと、強く反省した。
それから、少し恥ずかしかったけれど、精一杯の笑顔を浮かべて言う。
「ありがとう。綱島さん」
「それさー、そろそろもうやめようよ」
綱島さんが、顔を顰めて言う。
「え?」
「綱島さんっての。リカでいいっての。前から言ってるじゃん」
「あ……」
それを耳にして、夕暮れの通学路を歩いていた佐々木さんたちがくすくすと笑う。
「ええと、ごめん……。リカ」
「謝ったり、ありがとうって言ったり、あきのんってば可愛いなぁ」
北山さんが笑って、わたしの肩をつつく。それはなんだか、心の表面を撫でられたような気持ちで、とてもくすぐったかった。
「じゃ、今からあのお店行く?」
綱島さんの提案に、わたしたちは乗り気で騒いだけれど、流石に中学二年生が何駅も先のお店で下校中に買い食いなどをするのは、よろしくないことかもしれない。行きたい、でも、行っちゃだめでしょー、と、佐々木さんや北山さんの間で意見が割れて、綱島さんが、えーいいじゃーん、と食い下がる。
わたしは、声を出して。
「今度の土曜日に、みんなで行かない?」
そう、提案した。
誰の中にも物語があるのなら。
物語の価値が一つではないのなら。
わたしは、わたしの物語を続けていきたい。
胸を張って、これがわたしの物語だと言えるように、生きていきたい。
思い浮かぶのは、テーブルに向かって、必死になってボールペンを走らせている真中さんの背中だった。あの物語の続きは、いつ完成するだろう。先が気になって仕方がないけれど、わたしはもうひとつ、別のことで胸の中が疼くのを感じていた。
わたしが、主人公になってもいいのなら。
わたしも、あんなふうに自分の物語を創り出したい。
小説を、書きたい。
そんな、熱い願いが、胸の中で膨らんでいく。
まだ、誰にも言えていない。
でも、お話を空想して、こっそり真中さんと同じボールペンとノートを買った。
綴ってみた物語は、あまりにも文章が稚拙で、誰かに見せるのが気恥ずかしいけれど。
いつか、完成したら、真中さんに読んでもらいたい。
あなたのおかげで、生み出された物語があるのだということを。
あなたに、知ってほしいと思った。
(第二話に続く)
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続きは、相沢沙呼・著
講談社タイガ『小説の神様 あなたを読む物語(上)』
でお楽しみください。
講談社タイガ「小説の神様」シリーズの紹介ページはこちらです。
http://taiga.kodansha.co.jp/author/s-aizawa.html
放課後の図書室は、いつも以上に静謐だった。
窓から射し込んでくる夕陽が、景色を黄金色に染め上げようとしている。もしかしたら、誰もいないのではないかと考えた。いつものように談笑している生徒の姿はどこにも見えない。今日はわたしが当番を引き受けたので当然だったけれど、カウンターに他の図書委員の姿も見えなかった。奥にある司書室の扉が半ば開いていて、そこもがらんとしているのが覗える。
書架の向こうにあるテーブルのことを考えた。今日も真中さんは、あそこで小説を書いているのだろうか。わたしは、真中さんと綱島さんの、どちらかを選ばなくてはならないのだろうか。それとも、綱島さんたちにわたしみたいな人間が相応しくないのと同じように、真中さんにも、わたしは相応しくないのかもしれない。
そう。彼女も、本当はわたしを嫌っていたら?
あの本の中で見つけたわたしが、多くの人に嫌われていたのと同じように。
わたしは書架の陰に隠れて、そっと覗うようにしながらテーブルに眼を向ける。
いつも、そこで小説を書いている彼女は、いない。
これまでの秘密の逢瀬が、ただの幻だったかのように。
ただテーブルには、紅の陽が寂しげに落ちていた。
誰の姿もないここは、まるで物語の中に出てくる聖堂のようだ。
書架の間を、静かに歩いた。収められている本のタイトルを、一つ一つ確認していく。わたしが好きなのは、もちろん物語が収められている書架だ。たくさんの小説がいっぱいに詰め込まれ、鮮やかな背表紙がケースに収められたクレヨンのように不規則な順で並んでいる。そこにあるタイトルをなんという気もなしに眼にしては、そっと指先を伸ばして書棚から引き抜く。表紙を見て、ページをぱらぱら捲って、黴臭い匂いを嗅ぐ。そこに閉じ込められた、物語と世界の薫り。そこには、どんな想いが込められているのだろう。どんな子が、どんな人が、どんな人生を歩んでいくのだろう。わたしは水族館を回遊する魚のように、書架の間を歩き、物語を眺める。
物語の世界には、たくさんの子たちがいる。
そこには、たくさんの、わたしがいて。
わたしは、たくさんの、わたしになれる。
どこにも、ほんとうのわたしはいない。
ほんとうのわたしなんて、要らないんだ。
わたしは、書架の一つの前に佇んでいた。睨むように、そこに並んでいるタイトルの一つを見つめる。その雑多なタイトルの中で見つけてしまうなんて、きっと小さな奇跡のように難しいことだろう。でも、わたしは吸い寄せられるように、その本の背表紙を睨みつけていた。
人差し指が、本を引き抜く。
わたしは、その本を胸に抱いた。
わたしが、わたし自身を見つけたと思った、あの本だった。
わたしは、わたしのことが大嫌い。
だから、物語の世界でたくさんの違うわたしと出会う。そこで、わたしもこんなふうに生きられたらいいのにと夢想する。そんなこと不可能だとわかっていても、もしそうだったらなんてほんの僅かでも考えてしまう。そんなふうに読書をしていたから、本当にこれはわたし自身のことだと、そう思える本に出会うことは、これまでめったになかった。
ここに、わたしがいるって。
こんなわたしでも、いてもいいんだって。
そう安堵させてくれる本に出逢えることは、本当に奇跡だ。
それなのに──。
だめだった。わたしはその本を胸に抱えたまま、食い込んだ歯の痕で痛む唇を大きく開く。顎先に力を込めて、わたしが吐きだしてしまうすべての音を、ここにある優しい物語の数々が吸い取って、この聖なる場所の静謐さを守ってくれるようにと祈った。
でも、その祈りは、届かない。
ぼろぼろと、涙が流れて落ちた。嗚咽は醜い動物が鳴いているように酷く穢らわしい音程を奏でていた。うああ、うああ、うああ、と自分でもわけのわからない悲鳴が漏れた。物語を抱きしめながら、わたしはいったいなんなのだろうと考えた。わたしは誰なんだろう。わたしの価値はなんだろう。わたしはどこにいればいいんだろう。わたしは、どうしていつもこんなに醜いのだろう。
締め付けられる心の痛みに耐えきれず、子どものように涙を零しながら、ただ天井に顔を向け、この聖なる場所にいるはずの神様に祈った。
神様、人生が一つだけなんて、あんまりです。
わたしは、わたしなんかになりたくなかった。
わたしは綱島さんみたいになりたい。可愛くて、綺麗で、みんなから愛されて、賢く気まぐれで行動力があって。
そうでなければ、真中さんのような人がいい。強く逞しくて、確たる自分自身を持っているような、凜とした人になりたい。
涙が、止まらない。呻きが、収まらない。このまま、消えたい。本の雪崩が起きて、わたしを押し潰して、消しさってほしい。神様、こんなちっぽけで、なんの取り柄もない中学二年生の女の子くらい、書架の一つで押し潰せるはずでしょう?
我が儘を祈って、幼稚園児のように、涙をぽろぽろ流す。神様は来てくれなかった。頰がひたすらに濡れてくすぐったい。肩で涙を拭い、うああと呻きながら、それでも必死に声を殺そうとして、わたしは抱えていた小さな本をぎゅっと抱きしめる。心臓に、押し当てる。
「秋乃?」
醜いわたしの嗚咽に交じって聞こえたのは、神様の声ではなかったけれど、もしかしたら、それはわたしにとって似たようなものだったのかもしれない。なぜなら、あなたは、わたしの憧れる世界を創り出してしまう神様のような人だったから。
真中さん。
「どうしたの? 大丈夫?」
優しい声だった。だから、大丈夫だよと頷きたかったのに、わたしはその言葉のせいで余計に傷口を押し開かれたみたいに、大きく口を開いて呻きながら、真中さんの方へよろよろと足を向けた。
真中さんの肩が、わたしの身体を抱き止めるのを、感じる。わたしの髪を、いくつもの言葉と優しさを書き出す魔法の指先が、そっと撫でていく。
「もしかして、綱島さんたちとなにかあった?」
また、優しい声がする。言えない。なにも言えない。こんなこと誰にも理解してもらえない。わたしはかぶりを振った。羞恥のあまり消えてしまいたくて、自分自身を否定したくて、かぶりを振る。真中さんの手が、わたしの背をさすった。
「お願い。聞かせてよ。秋乃の物語」
頰に冷たいものが触れる。それは真中さんの人差し指だった。
わたしの物語。
不思議な、言葉の響きだった。
いつも、あなたはそう。
不思議な響きのする言葉を使って、わたしのことを魅了する。
「わたし……」
わたしは、不思議と自分が安堵していくのを感じながら、手にした文庫を心臓に押し当てて頷く。真中さんは優しく笑って、わたしの涙を拭いながら言った。
「それじゃ、いつもの秘密の席に行こうか」
*
わたしは、わたしのことをうまく話せただろうか──。
真中さんの隣の席に腰掛けて、気恥ずかしい思いで、ぽつり、ぽつり、と言葉を落としていく。いつだって、わたしは自分のことをうまく話せない。言葉は途切れ、閊えて、意味不明なものにしかなってくれなかったけれど、真中さんはときどきわたしの肩を摩るようにして、辛抱強く話を聞いてくれた。
「ほら、洟かみなよ」
そう言って、真中さんがポケットティッシュを差し出してくる。わたしはそれを使って、言われるままに洟をかんだ。思ったより、ちーんと大きな音が飛びだしてしまい、今度は別の羞恥心が燃え上がる。そんなわたしを見て、真中さんはころころと鈴を転がしたように笑った。
「恥ずかしい……」
消え入りそうな声で呟くと、真中さんは笑ったまま、わたしの肩を優しく叩く。
「落ち着いた?」
「うん……」
心臓はまだ強く脈打っていたけれど、もう顔がぐしゃぐしゃと歪んでしまうことはない。
「どうしてわかったの。綱島さんたちと関係あることだって」
「そんなの、わかるよ」真中さんは優しい眼差しで言う。「秋乃を見ていればさ」
「わたしを……?」
「うん。お昼休み、少しだけ秋乃のことを見ていたんだ。綱島さんたちのこともね。なにを話していたか知らないけれど、秋乃の様子がおかしいって思った」
「わたしの、ことを……?」
「ああ、いや、そのさ、ずっと見ていたとか、そういうわけじゃなくてね。なんていうのかさ、前にも話したと思うけれど……。こう、世界の行間を読むわけだ」
真中さんが口にしていた、それはまるで魔法みたいな言葉。
「物語を──、その中でも、特に小説を読む意味の一つって、そこにあるんじゃないかなぁって、あたしは思ってる」
「その、真中さんの言う、世界の行間を読むことが、読書をする上で大事ってこと?」
「うーん、大事というか、そもそも読書という行為の存在意義というか」真中さんは眉を寄せて難しそうな表情をした。腕を組んで首を傾げている。彼女のシュシュで纏めた尾のような髪が、大きく揺れ動く。「あ。あくまで、あたしがそう思ってるってだけだよ。本の読み方なんて、人それぞれなんだから」
「どういう意味?」
よく、わからない。わたしは洟を啜りながら、彼女に聞いた。
「あのね」彼女はわたしを見て、また優しい表情に戻る。「小説を読むって、不思議な行為だと思うんだ。書かれてる文章一つをとっても、読んだ人それぞれが違った意味を見出す。みんな違う感情を汲み取って、違う景色を想像して、違う世界を創り出して……。映画やアニメとかと違って、自分で考えて汲み取らないといけない、能動的なところがすごく大きいと思うの。でも、だからこそ、わかるようになってくることがあると思うんだ。物語の中で、いろいろな体験をして、涙を流して、優しい気持ちになって、ときには理不尽な怒りを覚えて、いろいろな人生を共有していく……」
彼女の語る言葉の一つ一つ。
それが、わたしの傷ついた胸に染みいっていく。
「綴られた文字から、行間に織り込まれた登場人物たちの心象を一つ一つ掬い取って、そうしてまったくの他人へと深く感情移入する。あたしたち人間には、それができる力があるんだよ。よく考えると、それって凄いことじゃない? だから、そんなふうにして注意深く傍らの人を見て、その人がどんなことを考えて、どんなことに悩んでいるのか、他人の心を読み解いて、感受することだってできるはず。物語に共感する感受性を、内側に閉じ込めておくだけじゃなくて外側に向けるの。そうしたら、きっと大切なことに気づけるはずなんだ」
そうやって、秋乃を見つけた。様子がおかしいな、大丈夫かなって思ってた。それでもし、これが物語だったら、傷ついた友達の側には誰かが付いていてあげなきゃ。少なくとも、あたしはそうありたいって思った。
「あたしは、そういう人間になりたいなって」
真中さんの言葉を胸の奥に書き留めるようにしながら、わたしはそこに手を置いた。ブラウスの向こう側で、心臓がどきどきと鳴り続けている。彼女の言葉の意味を理解していくにつれて、わたしは吐息を漏らしていた。優しい物語を読み終えたあとのような気分で。
「それ……。すごく、すてき」
彼女は、やっぱり照れくさそうにして笑った。
「あのさ、お節介かもしれないけれど、あたし、もう一つ秋乃に伝えておきたいって思う」
そう言って、彼女は視線をテーブルの上へと向けた。わたしが泣きながら抱えた文庫本が、ぽつねんとそこに置かれている。
「秋乃は、たぶん、この本に自分を見つけたんだね」
わたしは、はっと息を吞んで真中さんを見る。
「どうして」
「簡単だよ。あたしも、この小説が好きなの。ほら、あたしたち、似たもの同士だから」
似たもの同士。
わたしと、真中さんが?
「ぜんぜん、違うと思う」わたしは頰が赤くなるのを感じ、俯きながらぼそぼそと喋る。「わたしは、真中さんみたいに、小説を読んでそんなことを考えたりなんて、ぜんぜんしなかったよ。本を読んでいる数だって、真中さんの方がずっとすごい。なにより、自分で物語を書いてしまうんだもん。ぜんぜん、すごいよ。わたしなんか、比べられないよ」
真中さんは、わたしをじっと見た。睨むようにも、挑むようにも似た眼差しだった。
「読書って行為に、上も下もないよ。ただ、物語が好きって気持ちがあればいいじゃん。それがない人だっているんだから、秋乃、それってたぶん凄いことなんだよ」
真中さんは、この聖域のように穏やかな図書室にぐるりと眼を向けた。
「図書委員の子って、やりたくなくて、仕方なくやってる子と、本が好きでやってる子、いろいろな子がいるよね。でも、秋乃は仕方なくやってるわけじゃない。カウンターの中、穏やかな表情で、いつも楽しそうに読書をしているでしょう。本を受け取るときの仕草とか、ページを捲るときの優しい手つきとか、ああ、この子って、物語だけじゃなくて、本って媒体そのものが好きなんだなって。そういうの、見ればわかるよ」
意外だった。わたしは自分が思っている以上に、真中さんに観察されていたらしい。この図書室で話をするまで、同じ教室にいるというのに、わたしは真中さんのことにちっとも視線を向けたことがなかった。こんなに明るく活発に話す子だなんて、想像もしていなかった。あるいは、これが、真中さんの世界を感受する力なのかもしれない。
世界の行間を読む。
そうして、大事なことに気づき、人を読み解いて、行動する。
それが、読書の持つ力の一つ──。
でも、わたしは俯いたまま呟いた。
「わたしは……。書店の娘になんて、生まれなければよかったって……、そう、思ってる。そうしたら、本なんて読まなくて、よかったのにって……。もっと明るくて、みんなに好かれるような子に、なれたんじゃないかって……」
こんな気持ちを、誰かに告白するのは初めてだった。
だからなのか、呟いた言葉はぐちゃぐちゃだった。嗚咽と溢れる涙と力の籠もった頰の筋肉のせいで、とても聞き取りづらい言葉になっている。
なのに、真中さんは、わたしの言葉をきちんと聞き取ってくれた。
「秋乃は、自分の物語が嫌いになっちゃったんだね」
「わたしの、物語……?」
その言葉に、わたしは空想の中でびりびりに破り棄てた真っ白な文庫本のことを想起する。汚物を処理するように、便器に流した自分の物語。すごいな、と思った。涙を堪えながら、笑いそうにすらなった。真中さんには、わたしのことが、なんでもわかるみたいだった。
「きっかけは、この本でしょう? 他の人の評価が気になっちゃった?」
彼女は、テーブルの上の文庫本に手を伸ばす。
まるで、あなたは魔法使いか、そうでなければ、神様みたい。
真中さんはその本をぱらぱらと捲った。紙の匂いを嗅ぐように、眼を閉ざして顔を近付ける。柔らかな夕陽が射し込むその光景を涙交じりに見て、まるで彼女が物語の世界に入り込んでいく瞬間を見るような錯覚に陥った。
「わかるよ。あたしも、自分の好きな登場人物や主人公が、嫌われちゃってるのはつらい。まして強く感情移入したあとじゃ、まるで自分のことを言われているみたいで、あたしって、こんなに嫌われる人間なのかなって考えちゃう」
真中さんは、わたしがなにも言わないのに、わたしの気持ちを代弁する。わたしの心の隙間、かたちにすらなっていないところを、魔法の力で読み解きながら。
「そうすると、自分の生き方に価値なんてあるのかなって、あたしも不安になるんだ。好きでこんな性格になったわけじゃない。違う人生を選べたら、そうしていたはずなのにって……。でもね、秋乃、あたし、思うんだ。本の読み方は、人それぞれで、そこからなにを感受するのかも、人それぞれなんじゃないかなって」
「それは……、そう、かもしれないけれど」
「誰もが同じ本を読んで感動できるわけじゃない。文章や文体は、物語の心臓の鼓動のようなもの。似ているようで、注意深く耳をすませば、一つ一つ違ったリズムを刻んでいる。誰しも物語の受け取り方が違うのなら、その鼓動と自分の鼓動がまったく合わないと感じる人がいても不思議じゃない。むしろ、自分の心拍と一致する文章に出逢えたときは、本当に奇跡的なことで、とても幸せな気持ちになれる。物語の価値は、一つじゃない」
そんなふうに、真摯な表情でわたしを見つめる真中さんの言葉に、わたしは聞き入っていった。こんなふうに真剣に、そして必死に、そして信念を持ってわたしに言葉を伝えようとする人に出会ったのは、初めてかもしれない。
「人間って、ものの価値を、絶対的なものとして捉えたくてたまらない生き物だよね。そして、自分の感性が世界でただ一つ、絶対に正しいものだって信じてしまってる。自分がだめだと思ったら、それは絶対的にだめで、それとは違う意見を持つ人の存在や、その人の心の動きをまるで無視してしまう。でも、きっと違うんだ。物語の価値は相対的なもので、絶対的なものなんかじゃない。表面的に見れば、もしかしたら、誰もがその本を否定的に言うのかもしれない。物事を否定する言葉の方が、表に出てきやすいもの。でも、きっと秋乃と同じように、あるいはあたしのように、この物語が好きで好きでたまらない子だっているんだよ」
真中さんは、愛しげに手にした文庫本に眼を落とす。それから、胸に抱くように、そっと心臓に押し付けた。
「百人の人間がいれば、百人のものの見方がある。百人それぞれの感じ方があって、百人それぞれの愛し方がある。そして、それは人の価値も変わらないことなんだ」
人の価値。
わたしの、価値。
「あたしは好きだよ。秋乃の、その繊細な感受性」
真中さんは笑って、わたしにその文庫本を差し出す。
わたしは呆然として、ただ自然と、その本を受け取っていた。
好き、という言葉を、誰かに言われたのは。
そんなふうに、具体的に、自分のどんなところがと挙げられて、言われたのは。
もしかしたら、初めてかもしれなくて。
「あなたが、本屋さんのお嬢さんで、読書に興味を持って、繊細な感性を磨いて、そうして、読書をするのが大好きな子じゃなかったら、こうしてあたしと話をすることなんてなかったと思う。あたしの、書きかけの物語を読んでくれることだってなかった。だから、あたしは今の秋乃が好きだよ。あたしの物語を、読んでくれてありがとう」
射し込んでくる夕陽が眩しくて、照れたように笑う真中さんの表情が、埃の粒子の中で煌めいている。わたしは彼女を見つめ返しながら、わたしと似た物語を胸に抱いて、彼女を見返した。
わたしの価値。
こんなわたしにも、価値があるのだとしたら。
「綱島さんたちだって、秋乃のこと、嫌いじゃないはずだよ。綱島さん、身内には優しいタイプみたいだし、絶対に可愛がってる。だから、そんなふうに怯えないで自分の物語の価値を信じてあげて。まずはさ、あなたが好きにならなきゃ。あなたという物語を」
「わたしも……。物語の主人公に、なっていいのかな」
怖々と、そう問いかける。
「もちろん。誰の中にだって、物語はある。優しいだけが物語じゃないから、辛いこともたくさんあると思う。でも、いつかその物語を読んで、あなたのページの端に涙を落としてくれる人が、きっと現れるよ」
わたしは、文庫本を心臓に押しつける。
どきどきと、そこが高鳴る。
誰の中にも物語がある。
わたしの物語。
小説を読んだときみたいに、すてきな言葉の数々が、胸に染みこんで。
どうしてだろう。
わたしは、嬉しいはずなのに、涙をぼろぼろ流しながら頷く。
もう少しだけ、わたしは自分の物語を愛してみたい。
心から、そう感じた。
*
綱島さんたちとのぎくしゃくした関係は、まるで呪いが魔法によって解かれてしまったみたいに、あっさりと終わりを迎えた。真中さんの半分でもいい。十分の一でもいい。感受したことを、外へ出そう。黙り込んでいないで、伝えたいことを伝えようと、そう考えたおかげかもしれない。またあのアイスクリーム屋さんの話題になったとき、わたしは精一杯の勇気を振り絞り、言った。
「そのお店、みんな、いつ行ったの?」
「あ、ごめん。あれ、そういえば、なんであきのんいなかったんだっけ?」
佐々木さんが不思議そうに首を傾げた。北山さんが続ける。
「ほら、あたしが兄ちゃんの友達とカラオケするって話になって、なんか呼ばれて」
「あ、そっか、あきのんも誘おうとしたけど、リカが怒ったんだよね」
「だって、あれ、絶対合コン目的だったでしょ」綱島さんが鼻を鳴らし、苛立たしげに言う。「実際そうだったっぽいしさ。秋乃の性格じゃ、絶対萎縮すると思って」
わたしは、ぽかんとして、綱島さんのことを見遣る。
「あれ」綱島さんはわたしの視線を受け止めて、焦ったように言う。「ごめん、行きたかった? カラオケとか、秋乃に似合わないと思ってさ。前に嫌いだって言ってたから」
「ううん、そうじゃなくて」
わたしは、自分のことが情けなくて、そうして、ぜんぜん外の世界のことを見ていなかったのだなと、強く反省した。
それから、少し恥ずかしかったけれど、精一杯の笑顔を浮かべて言う。
「ありがとう。綱島さん」
「それさー、そろそろもうやめようよ」
綱島さんが、顔を顰めて言う。
「え?」
「綱島さんっての。リカでいいっての。前から言ってるじゃん」
「あ……」
それを耳にして、夕暮れの通学路を歩いていた佐々木さんたちがくすくすと笑う。
「ええと、ごめん……。リカ」
「謝ったり、ありがとうって言ったり、あきのんってば可愛いなぁ」
北山さんが笑って、わたしの肩をつつく。それはなんだか、心の表面を撫でられたような気持ちで、とてもくすぐったかった。
「じゃ、今からあのお店行く?」
綱島さんの提案に、わたしたちは乗り気で騒いだけれど、流石に中学二年生が何駅も先のお店で下校中に買い食いなどをするのは、よろしくないことかもしれない。行きたい、でも、行っちゃだめでしょー、と、佐々木さんや北山さんの間で意見が割れて、綱島さんが、えーいいじゃーん、と食い下がる。
わたしは、声を出して。
「今度の土曜日に、みんなで行かない?」
そう、提案した。
誰の中にも物語があるのなら。
物語の価値が一つではないのなら。
わたしは、わたしの物語を続けていきたい。
胸を張って、これがわたしの物語だと言えるように、生きていきたい。
思い浮かぶのは、テーブルに向かって、必死になってボールペンを走らせている真中さんの背中だった。あの物語の続きは、いつ完成するだろう。先が気になって仕方がないけれど、わたしはもうひとつ、別のことで胸の中が疼くのを感じていた。
わたしが、主人公になってもいいのなら。
わたしも、あんなふうに自分の物語を創り出したい。
小説を、書きたい。
そんな、熱い願いが、胸の中で膨らんでいく。
まだ、誰にも言えていない。
でも、お話を空想して、こっそり真中さんと同じボールペンとノートを買った。
綴ってみた物語は、あまりにも文章が稚拙で、誰かに見せるのが気恥ずかしいけれど。
いつか、完成したら、真中さんに読んでもらいたい。
あなたのおかげで、生み出された物語があるのだということを。
あなたに、知ってほしいと思った。
(第二話に続く)
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続きは、相沢沙呼・著
講談社タイガ『小説の神様 あなたを読む物語(上)』
でお楽しみください。
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