第26話 都会にもいろいろ住んでいるので

文字数 3,823文字

 農地や駐車場、あるいは車道のど真ん中に、結構な量のゴミが散乱していることがたまにある。
 俺は大漁の予感に嬉々として近づくが、観察してみるとこれが、一つのレジ袋からバラけたゴミの集団であることに気づく。
 ひとまとめだったらしきゴミが、どうしてわざわざぶちまけられているのか?
 これもよく観察すればすぐわかる、弁当やハンバーガーの包装に、鋭い三角形の何かで切りつけたような傷が、多数ついているからだ。
 この三角形はクチバシの痕。
 つまりそう、カラスである。
 カラスは、日本中ほとんどどこにでもいる。我が家の近くは、ハシボソガラスの方をよく見かけるが、都会の方だとハシブトガラスの方が優占するらしい。
 この二種。見た目も生態もよく似通っていて、夕暮れになると集団を組んでねぐらに集まることから、住民からは、糞やその臭い、騒音、ハジラミなどの寄生虫のせいで、随分と嫌われている。何とか追い払おうと、爆竹や発煙筒で追い立てられたり、時にはねぐらに使っている街路樹を伐採撤去されたり、場合によっては銃や薬、罠で駆除されたりもする。
 しかし、どうして、カラスどもは人間の傍に来たがるのか? もっと山奥や離れ小島など、人里離れた場所に集まれば、そのような目に遭わずに済むはず。
 実は、これも生活の知恵であるらしい。カラスどもは、人間の傍にいることで、猛禽やヘビなどの天敵が、人間を恐れ、あるいは改変された環境のせいで近づけないことを知っているということだ。
 彼らの生活はこうだ。
 日中は餌を探してあちこちうろつき、様々なものを食べる。夕方になると、ぼちぼちと集まり、集団で森や街路樹といった場所にねぐらを作る。
 つまり、餌を探すのが生活のメインなのだ。
 都会にも、意外といろいろな餌がある。
 庭木になる果物や、畑の作物である野菜や穀類。
 野鳥や、その卵、ヒナ。
 クワガタやカブト、カナブン、蛾などの昆虫。
 ザリガニ、オタマジャクシ、カエル、タニシなどの水生生物。
 そして、人間の出したゴミ。
 カラスは頭が良い。人の服装どころか顔までも覚え、数を数え、言語らしきものまで操る。
 ゆえに、ポイ捨てされたレジ袋の中にある、食いかけの弁当の残りや、スナック菓子の破片、食わず嫌いが残したピクルスなど、一度でも経験すれば味をしめてしまうし、自分が経験していなくても、仲間の行動や鳴き声でその情報を共有してしまう。
 よってそういう袋が屋外に置いてあれば、つついて中身を撒き散らすし、くわえて奪って行くこともある。奪って行った先でどうするかというと、餌を探してやはり中身を撒き散らすわけだが、そうなるとこっちの手間は数倍になるわけだ。
 その撒き散らし行為には、ネコやタヌキ、アライグマ、ハクビシンといった小動物が参加する場合もあって、引き裂かれたり、細かくかみ砕かれたりしていることもある。そうなると、カラス単独犯よりも、回収、分別に手間がかかることとなる。
 まず小動物が運び去り、農地や空き地で袋を破き、さらにそれをカラスがつつきまわして散らかす例もある。実際、拾う立場からすると大変厄介な状態であるのだが、では、それをもってカラスや小動物が悪い、と結論付けるのはどうだろう。
 言うまでもないことだと思うが、彼らの目に入る場所に、そういった袋ゴミが放置されなければ、そのような事態にはならない。
 べつにポイ捨てしたつもりはなくても、ベランダやアパートの通路部分に置いてみたり、時間外で閉まっているゴミステーションの外に置いたり、車に積み込む前にほんの僅か放置しただけでも、彼らが攫って行くことはある。
 しかも、どうやって見破るのかは不明だが、ビールの空き缶やペットボトルしか入っていないレジ袋には見向きもしない。弁当やおにぎり、スナック菓子の包装が入っている袋を目ざとく選んで襲うのだ。
 また前述したように、小動物も、こうしたレジ袋を攫って行く。
 彼ら小動物は、嗅覚が発達しているだけに、正確に残飯を見つけ出す能力は、カラス以上と言って良いだろう。

 だが、彼らが撒き散らしたゴミを片付けていると、こんなもの食って大丈夫か? と思わされることも多い。
 先日など、小動物の歯型のついた、森○のハ○チュウが大量に散乱していた。しかも、ほとんど残っている。臭いで誘われ齧ってはみたものの、アルミコーティングの包み紙や、ニチャニチャした食感が気に入らなかったのだろう。
 フライ○チキンの骨は、噛み砕くと鋭く尖って胃を傷つけるから、犬猫には与えてはいけないってのは、飼育者には常識だ。だが、野生の小動物にはむしろご馳走なのだろう。引き裂かれたケン○ッキーの空き箱もたまに拾うが、骨が残っていたためしはない。
 スナックや残飯は塩分過多、脂肪過多で決して栄養バランスは良くない。串や吸い殻、プラ包装など、飲み込めば危険なものもいっしょになっていることも多い。
 だが、カラスや小動物たちの健康を、心配している場合でもない。

 日本に限った話ではないのだが、都会にも、結構な種類の小動物が住んでいて、人間の出すゴミは、彼等にとって重要な栄養源となっているらしい。人間は、五感も動きも鈍く、人間以外の動物には、基本無関心なので、敵としては非常にチョロい。その上、上位捕食者が町に入れないよう防いでくれているわけで、都会は小動物にとっても住みやすいことこの上ない。
 つまり、タヌキやキツネがいるからといって、べつに「自然が戻ってきた」わけではないのだ。
 要するに「都合がいいから住むようになった」だけのこと。そして、ゴミから栄養を取って、余計に殖えだせば、昆虫や他の小動物、小鳥などへの捕食圧が高まり、それはそれで困ったことになるわけだ。
 廃棄物だけではない。市民活動や企業の環境への投資により、屋上などの緑化も進んでいて、様々な生物が住みつきつつある。
 無責任なネコへの餌やりが、ネコの数を増やすだけでなく、アナグマやアライグマへの給餌になってしまっている場合もある。最近では、都会に進出してきたオオタカがカラスやハトを襲い、都会で子育てまでしているらしい。公園、植え込み、グリーンカーテンなどのおかげで、昆虫や小鳥までも増えているようだが、これをどう見るか。

 まず、理解すべきは、地球上で屈指の個体数と分布域を誇る大型哺乳類=人間という生物の活動が、何の影響もない、などということはあり得ないということだ。
 これは、単純明快な事実であるはずなのだが、どうも人間どもは「手つかずの自然」だの「人為的な影響が無い」だのに拘りたがる。白神山地の動物たちであろうと、素掘りの土水路に住む魚類であろうと、人間活動の影響を受けていない生物など地球上にはいない。
 人間どもが作り出す環境、つまり大気や水、副生産物、廃物の影響を受けないわけはないのだ。人間もまた、地球環境を構成している一員であって、他の生き物を利用し、利用されるのも、一つの自然であるということだ。
 だが、ポイ捨てゴミはいろんな意味で持続的ではあり得ない。そんなものを、ベースとした生態系、などというものは、やはり不安定ではないか、という話だ。

 意外に思われるかも知れないが、本来、生態系とは変化するものだ。
 池や沼は、放置すれば少しずつ浅くなるものだし、放っておけば野原に、野原は森に変わっていく。森は災害で消滅することもあり、地盤が崩れることもある。気温にも、降水量にも長い目で見て変動もある。
歴史上、同じ場所で百年間、まったく変わらなかった生態系など、ほとんど無いと言ってもいいくらいだ。
 実際のところ、気まぐれで持続性のない環境対策? も、無意味、あるいはポイ捨てと同じ程度に害悪である。グリーンカーテンだの、ドングリ植樹だの、魚の放流事業だののことだ。責任を持つ団体が、その効果を検証しつつ管理し、十年単位での継続性が担保できるのならば、その限りではない。
 だが、予算がつかなかったから、今年はやらないとかって何だ? それをアテにしてきた生物にとっては、裏切りもいいところ。植えっぱなしの植樹、影響評価をしない放流事業、どれも人間の自己満足にすぎない。

 人間の影響を無くすことなどできず、人間が意図的に関与しなくても、勝手に変わっていくのが生態系で、そこに適応していくのが生物である。
 人間が、環境に配慮した生活を徹底しようとしても、生じた廃棄物や余剰物の影響を受け、生物が適応し、生態系が変わっていくのは、どうしようもないのだ。
 だが、『だからどうでもいい』のではない。だからこそ、人間による影響は、可能な限り減らしていくべきではないか。ゴミに混じる残飯などの栄養物は、可能な限り減らし、彼等に影響を与えないようにするべきではないか。ということだ。
 長々と書き連ねた割に、実に当たり前の結論である。
 そんなこと、言われずとも分かっているだろうか?
 いや、分かってないだろう。
 分かっているわけがない。
 ホラ、現実にゴミは落ちている。カラスがつつき、小動物が荒らし、散乱している。
 これまでは気づかなかったかも知れないが、そう思って見ていれば、それに気づくはずだ。
 気づいても、眉をしかめただけで、通り過ぎるならば、捨てた奴らと同レベル。
 もし、分かっているならば、『捨てない』だけでは不十分だということも、分かっているはずなのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み