第2話
文字数 1,951文字
廊下を歩く足音は4つ、外からは窓を介してしとしとと小さく雨音が聞こえるだけ。僕が危惧していた教員の見回りもなく、普段は物置として使われている特別室まですんなりと来れてしまった。
教室はしばらく使われていなかったのだろう、微かにカビ臭い匂いと椅子やら机にはかけられた白い布の匂いが混ざったに空気が部屋中に混ざっていた。彼は部屋の中央に埃をかぶっている椅子へ近づくと躊躇いなく座ると、もう一つあった椅子へ腰掛けるよう軽く視線で促す。それに対して否定する理由もないので僕も腰をかける。
目の前には教室によくある大きな窓が鎮座し、小さな雨粒が窓ガラスを控えめにノックするように叩きガラスを濡らす。そして濡れてもなお、その存在を誇示するかのように一際大きな大輪の花を咲かす巨大な青い紫陽花とそれを引き立てる様に鬱蒼と咲く赤い紫陽花達が校庭の一角に鎮座していた。
周囲は草に覆われ薄暗い雰囲気に支配されているというのに、その紫陽花が咲いている場所だけは明るく華やかな空間だと感じてしまう。そして触った指先から凍傷でも起こしてしまうのではないかと心配になりそうな程、海よりも深いアイオライトの様な冷ややかさ。あの花を食べたら一体どんな味がするのだろうか。
「すごい青だよね」
彼の声にすぐさま反応できず、数秒経ってから僕は視線を紫陽花から教室の中へと戻す。彼も視線は紫陽花へ向けたまま再度口を開いた。
「あの紫陽花、この学校ができる前からあるらしい。最初は一株の小さな紫陽花だったのに少しずつ少しずつ他の草木や動物の死骸を食らって大きくなっていったらしい。まさに紫陽花の女王様だ」
「ええ?」
「はは、誰だって同じリアクションをするもんさ。だけれど本当の話なんだ」
「誰から聞いたんだい、それとも図書館にある学校の怖い話かい。あの怖い話はよくできているから信じてしまうのもわかるけれど」
僕の言葉に対して彼は口をつぐみ、目を細めて形の良い唇の両端を持ち上げ笑っている。まるで不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいだと思った。そんな僕の気持ちを知ってか彼は笑みを浮かべたまま首を左右に軽く振る。
「怖い話なんて大人が考えたつまらない嘘だろう?僕が言っているのは本当のことさ。だからと言って証拠を持ってこいだの証人を連れてこいだとか、どうしようもない事を言わないでくれよ。だって、僕は本当のことしか言わないのだから」
自信満々に言い放つ彼をしばらく眺め、次には声をあげて笑ってしまった。そんな僕を見た彼は少し驚いた表情を浮かべ、すぐに先ほどとは違う柔らかな笑みを浮かべて僕を見つめる。
「君も声をあげて笑うんだね」
「どういう意味だい、ああ、でも。…確かにそうかも、声をあげて笑うなんて、普段ならできないから」
「教室でも笑った顔を見たことがない」
「笑えないからね。クラスメェトの顔もわからないし、愉快な話をされても面白くないし、同意を求められる笑いなんて器用なことできないし」
「そうか、だけれどそれは君の良さでもあるんじゃないかい」
「そんな訳ないよ、そのせいで僕はクラスで浮いている」
「そうか…、僕はそんな君を否定しないけれど」
彼がこぼした小さな言葉に僕は泣きそうになって、慌てて俯いて自分の制服のズボンを見つめた。紺色のズボンは僕が感じている感情の半分程度には同じ色をしているんじゃないかと思う。僕を笑う声や視線、仕草を背後から感じるたびに僕の心は紺色に近い暗くて重い色に押しつぶされそうになっていくのだ。その度に僕は自分の心という部分に蓋をする、そうすれば10痛くても、蓋のせいで痛みは半分に減るのだから。
「ああ、雨が止んだ」
「え?」
「雨、止んだみたいだから帰るとしよう」
その言葉通りに窓を叩いていた雨はやんだらしく、鼠色だった空から微かな光が差し込んでいる。僕は彼に促されるまま立ち上がり、教室を後にした。教室から靴箱がひしめき合う正面玄関まで彼は一言も口を開かず、僕が靴を履き替えるのを待っていた様に廊下側から正面玄関の扉を指差す。
「じゃあ、またね」
「帰らないのかい」
「教室に忘れ物をしてしまったんだ」
「待っていようか?」
僕の言葉に彼は左右に頭をふり、困ったように眉を八の字にして僕を見つめる。それは彼なりの拒絶だったのかもしれない、僕は小さく頷くと正面玄関の扉を押す。もしかしたら彼が実は幽霊で振り返ったらいないのではないかという、微かな期待を胸に振り返ると彼はきちんと先ほどと同じ位置で僕を見送るように手を上げる。
何故だか無性に恥ずかしくなって、僕も同じように手を軽く胸元まで上げると左右に振った。
「さよなら」
「さよなら、気をつけて」
僕はその言葉を聞いて駆け足で玄関から、まだぬかるむ地面へ足をつけたのだった。
教室はしばらく使われていなかったのだろう、微かにカビ臭い匂いと椅子やら机にはかけられた白い布の匂いが混ざったに空気が部屋中に混ざっていた。彼は部屋の中央に埃をかぶっている椅子へ近づくと躊躇いなく座ると、もう一つあった椅子へ腰掛けるよう軽く視線で促す。それに対して否定する理由もないので僕も腰をかける。
目の前には教室によくある大きな窓が鎮座し、小さな雨粒が窓ガラスを控えめにノックするように叩きガラスを濡らす。そして濡れてもなお、その存在を誇示するかのように一際大きな大輪の花を咲かす巨大な青い紫陽花とそれを引き立てる様に鬱蒼と咲く赤い紫陽花達が校庭の一角に鎮座していた。
周囲は草に覆われ薄暗い雰囲気に支配されているというのに、その紫陽花が咲いている場所だけは明るく華やかな空間だと感じてしまう。そして触った指先から凍傷でも起こしてしまうのではないかと心配になりそうな程、海よりも深いアイオライトの様な冷ややかさ。あの花を食べたら一体どんな味がするのだろうか。
「すごい青だよね」
彼の声にすぐさま反応できず、数秒経ってから僕は視線を紫陽花から教室の中へと戻す。彼も視線は紫陽花へ向けたまま再度口を開いた。
「あの紫陽花、この学校ができる前からあるらしい。最初は一株の小さな紫陽花だったのに少しずつ少しずつ他の草木や動物の死骸を食らって大きくなっていったらしい。まさに紫陽花の女王様だ」
「ええ?」
「はは、誰だって同じリアクションをするもんさ。だけれど本当の話なんだ」
「誰から聞いたんだい、それとも図書館にある学校の怖い話かい。あの怖い話はよくできているから信じてしまうのもわかるけれど」
僕の言葉に対して彼は口をつぐみ、目を細めて形の良い唇の両端を持ち上げ笑っている。まるで不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいだと思った。そんな僕の気持ちを知ってか彼は笑みを浮かべたまま首を左右に軽く振る。
「怖い話なんて大人が考えたつまらない嘘だろう?僕が言っているのは本当のことさ。だからと言って証拠を持ってこいだの証人を連れてこいだとか、どうしようもない事を言わないでくれよ。だって、僕は本当のことしか言わないのだから」
自信満々に言い放つ彼をしばらく眺め、次には声をあげて笑ってしまった。そんな僕を見た彼は少し驚いた表情を浮かべ、すぐに先ほどとは違う柔らかな笑みを浮かべて僕を見つめる。
「君も声をあげて笑うんだね」
「どういう意味だい、ああ、でも。…確かにそうかも、声をあげて笑うなんて、普段ならできないから」
「教室でも笑った顔を見たことがない」
「笑えないからね。クラスメェトの顔もわからないし、愉快な話をされても面白くないし、同意を求められる笑いなんて器用なことできないし」
「そうか、だけれどそれは君の良さでもあるんじゃないかい」
「そんな訳ないよ、そのせいで僕はクラスで浮いている」
「そうか…、僕はそんな君を否定しないけれど」
彼がこぼした小さな言葉に僕は泣きそうになって、慌てて俯いて自分の制服のズボンを見つめた。紺色のズボンは僕が感じている感情の半分程度には同じ色をしているんじゃないかと思う。僕を笑う声や視線、仕草を背後から感じるたびに僕の心は紺色に近い暗くて重い色に押しつぶされそうになっていくのだ。その度に僕は自分の心という部分に蓋をする、そうすれば10痛くても、蓋のせいで痛みは半分に減るのだから。
「ああ、雨が止んだ」
「え?」
「雨、止んだみたいだから帰るとしよう」
その言葉通りに窓を叩いていた雨はやんだらしく、鼠色だった空から微かな光が差し込んでいる。僕は彼に促されるまま立ち上がり、教室を後にした。教室から靴箱がひしめき合う正面玄関まで彼は一言も口を開かず、僕が靴を履き替えるのを待っていた様に廊下側から正面玄関の扉を指差す。
「じゃあ、またね」
「帰らないのかい」
「教室に忘れ物をしてしまったんだ」
「待っていようか?」
僕の言葉に彼は左右に頭をふり、困ったように眉を八の字にして僕を見つめる。それは彼なりの拒絶だったのかもしれない、僕は小さく頷くと正面玄関の扉を押す。もしかしたら彼が実は幽霊で振り返ったらいないのではないかという、微かな期待を胸に振り返ると彼はきちんと先ほどと同じ位置で僕を見送るように手を上げる。
何故だか無性に恥ずかしくなって、僕も同じように手を軽く胸元まで上げると左右に振った。
「さよなら」
「さよなら、気をつけて」
僕はその言葉を聞いて駆け足で玄関から、まだぬかるむ地面へ足をつけたのだった。