第2話
文字数 3,081文字
「ユ、ユキぃー」
泣きそうな顔でアサはやってきた。ユキはかったるそうな顔をして、めそめそと自分の机にやって来るアサを見る。買ったばかりのウーロン茶を口から離した。
「何? お昼なのになんでそんな顔して来んのよ。空気が重い」
アサは売店で買ってきたらしいイチゴクリームパンを手に持って、ユキの前に座った。そのまま、机の上に突っ伏す。
「アサもう無理だよ。今回こそ、きっともうダメ」
「はあ? 何のこと言ってんの? もしかしてメロンパンが買えなかったから?」
アサが持ってきたパンをちらっと見る。イチゴクリームパン。果汁三パーセントだ。これしか入っていないくせによくイチゴクリームパンというネーミングにしたもんだ。
アサはすねたような顔でユキからパンを取り上げた。
「違うもん……パンじゃないよ。そこまでアサは食い意地はってないもん」
絶対嘘だ。
呆れた顔をしてユキは突っ伏しているアサを突っつく。
「じゃあ、何?」
アサはむっくりと起き上がってパンの袋を開けた。甘ったるいニセモノのイチゴの匂いがする。ユキは目の前でアサが食べるのにもかかわらず顔をしかめた。
「……テスト」
「テスト?」
アサがこっくりと頷いた。アサがパンを食べながら黒板を指差す。テストまであと三日、という色とりどりのチョークで書いた、悪趣味のカウントダウンが書いてある。
「アサ……まさか」
ユキはアサを信じられないものでも見るように見た。こいつ、またやらかしたのだろうか。
アサはげっそりと絶望的な顔をしながら小さく頷いた。
「その、まさか。またやっちゃったよー」
ユキはアサから一歩引いた。イスに座っているから実際は動いてないけれど、気持ち、アサから少し離れる。
「アサ……あんた何回目だか分かってる? 学習ってもんをしないわけ?」
「そんなこと言ったってさあ。今ユキが怒ったって意味無いよー」
「意味無くない! 学習しなさいよ!」
ユキはアサを怒鳴って、これからどうすべきか早急に考え始めた。
アサは相変わらず机でめそめそしながらパンを食べている。アサの顔には、やってしまった証拠のように、ほっぺたに小さな傷ができていた。
アサの悪いくせ、それは、テスト前や、何かアサの嫌いなことが起こる前になると、新しく自分の好きなことに挑戦してしまうことだった。
「でもね、今回はバク転の自己新記録だせたんだよ」
得意そうな顔をして、アサはユキに報告する。
「バク転なんて……そんな暇あったら勉強しないと、今年こそ豊駕(とよが)島(しま)に行けないじゃない!」
目の前の幼馴染を見て、ユキこそ泣きたくなってくる。このまま机に突っ伏してしまいたい。
中学の頃も、毎回テストの時期になると何かしら挑戦していた。団地の建物の脇に生えている木から、通路に飛び移れるか、とか、逆立ちをしてどこまで行けるかとか。
アサは猿なみに運動神経が良い。ユキもアサほどじゃないが、アサについていけるぐらいの運動神経ならある。何しろ、生まれたときからずっとアサと一緒にいたのだ。アサについていくためには、運動神経を上げるしかなかった。そんな理由でやたら体を動かす遊びしかしてこなかったアサは、中学に入って、勉強するということを強制的に初めて押し付けられた。高校生になっても強制させられるということにまだ拒否反応を起こしているようで、何かに逃げるために、この時期になると自分のやりたいことを都合良く見つけてくる癖は治っていない。
「アサ、今回のテスト範囲、知ってる?」
「んー? あ、まだテスト範囲うつしてないや」
パンを完食したアサはお腹もいっぱいになって危機感が薄れたのか、けろっとしている。ウキウキとした顔でデザートのイチゴのプリンに取り掛かり始めた。
ユキは思わずため息をついた。
「ユキ? ため息ついてるよ! 幸せが逃げるよ」
「アサのせいでため息が出たのよ……」
ユキにとって、アサが悪い点数を取るのはしょうがないっていうか、関係ない。だが、ユキとアサのお母さん同士の間で、アサの成績が平均点以上ではないと、島に行かせない決まりがあるのだ。
アサとユキのお母さんは豊駕島という小さな島から本土に渡ってきた人だった。豊駕島にいたときから仲が良かったらしい。アサとユキは毎回長い休みにはその島にお母さんたちと行っていた。豊駕島は人口一万人に満たない小さな島で、温暖な気候に豊かな海、それにたくさんの生き物が住んでいる山も多くある自然豊かなところである。最近は、観光地としても少しは知られてきている。
小学校の頃は、何の苦労もなく島に行けた。けれど、中学校に入ってからはどちらも平均点以上取らなければ、島に行かせない決まりごとがいつの間にかできていた。
この決まりで苦労するのは、ユキである。ユキ本人は、それほど勉強が不得意なわけでもないから、平均点以上は余裕で取れる。学年でも上から数えたほうが何倍も早い。問題は、アサだ。さっき言った通り、自分から勉強をしないからいつもユキがアサの面倒を見てあげて、何とか乗り切ってきた。この高校に受かったのだって、ユキが苦労してアサを勉強机に向かわせてあげたからだ。奇跡に近い。もちろん、本人の行きたいという意思のおかげもあるが。
このテストで平均点以上取らないと、夏休みに島に行けないじゃない……!
島に行かない夏休みなんて、夏休みではない。それに、高校生になって初めての夏休みだ。絶対、アサと一緒に島に行きたい。
「ごちそうさまでしたー」
アサの手がパンと音を鳴らして合わさった。
それに合わせるようにして、ユキの決心もようやっと固まる。
「アサ」
「え、何?」
ユキが普通じゃないのを感じ取ったのか、アサはユキから一歩引いた。
「いい? これで平均点以上とらないと、豊駕島には行けない」
「あ、うん。そーだね」
「分かってる?」
「分かってるよう」
アサはうるさそうに立ち上がった。パンとプリンのゴミを持ってゴミ箱に向かおうとする。その手首を、ユキがぱっとつかんだ。
「分かってない。アサ、今日からあたしの家に泊りなさい」
「ええ? 何で?」
アサは思いっきり嫌そうな顔をした。アサのためを思っての行動なのに、そんな顔をされると非常に腹が立つ。中学校からだからもう大分慣れてはいるにしても。
「勉強するために決まってるでしょ! このままじゃ島に行けない!」
アサの手首にこもる力が強くなった。
「アサ、豊駕島、行きたくないの?」
「……行きたい」
「そうでしょ? あたしだって行きたい。だから、今日からテスト終わるまであたしの家に来るのよ。毎日つきっきりで試験勉強よ。分かった?」
アサは返事をしなかった。でもその代わりに、小さな声で、「テスト範囲、写してくる」と言って教室から出て行った。
よし。第一段階は乗り越えた。
心の中で小さくガッツポーズをする。本当に大変なのはこれからだけど、とりあえず、第一ステージクリアだ。後は、アサの頭にとにかく重要なところを押し込んでいけば、何とかなる、はず。
ユキは机の下からテスト用のノートを取り出した。今回の範囲を全てまとめたノートだ。半ばこうなること予想がついていたから、テスト範囲はほぼ暗記済みだ。
ノートを開いて、今日からアサにつきっきりで教えて上げられるよう、自分の勉強をしようとした。けれど、廊下に立っている人影を見て、諦めてノートを閉じた。
窓から夏の匂いを含んだ風がふわりとユキの長い黒髪を撫でた。その風に背中を押されるようにユキはその人物に近づいていった。
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泣きそうな顔でアサはやってきた。ユキはかったるそうな顔をして、めそめそと自分の机にやって来るアサを見る。買ったばかりのウーロン茶を口から離した。
「何? お昼なのになんでそんな顔して来んのよ。空気が重い」
アサは売店で買ってきたらしいイチゴクリームパンを手に持って、ユキの前に座った。そのまま、机の上に突っ伏す。
「アサもう無理だよ。今回こそ、きっともうダメ」
「はあ? 何のこと言ってんの? もしかしてメロンパンが買えなかったから?」
アサが持ってきたパンをちらっと見る。イチゴクリームパン。果汁三パーセントだ。これしか入っていないくせによくイチゴクリームパンというネーミングにしたもんだ。
アサはすねたような顔でユキからパンを取り上げた。
「違うもん……パンじゃないよ。そこまでアサは食い意地はってないもん」
絶対嘘だ。
呆れた顔をしてユキは突っ伏しているアサを突っつく。
「じゃあ、何?」
アサはむっくりと起き上がってパンの袋を開けた。甘ったるいニセモノのイチゴの匂いがする。ユキは目の前でアサが食べるのにもかかわらず顔をしかめた。
「……テスト」
「テスト?」
アサがこっくりと頷いた。アサがパンを食べながら黒板を指差す。テストまであと三日、という色とりどりのチョークで書いた、悪趣味のカウントダウンが書いてある。
「アサ……まさか」
ユキはアサを信じられないものでも見るように見た。こいつ、またやらかしたのだろうか。
アサはげっそりと絶望的な顔をしながら小さく頷いた。
「その、まさか。またやっちゃったよー」
ユキはアサから一歩引いた。イスに座っているから実際は動いてないけれど、気持ち、アサから少し離れる。
「アサ……あんた何回目だか分かってる? 学習ってもんをしないわけ?」
「そんなこと言ったってさあ。今ユキが怒ったって意味無いよー」
「意味無くない! 学習しなさいよ!」
ユキはアサを怒鳴って、これからどうすべきか早急に考え始めた。
アサは相変わらず机でめそめそしながらパンを食べている。アサの顔には、やってしまった証拠のように、ほっぺたに小さな傷ができていた。
アサの悪いくせ、それは、テスト前や、何かアサの嫌いなことが起こる前になると、新しく自分の好きなことに挑戦してしまうことだった。
「でもね、今回はバク転の自己新記録だせたんだよ」
得意そうな顔をして、アサはユキに報告する。
「バク転なんて……そんな暇あったら勉強しないと、今年こそ豊駕(とよが)島(しま)に行けないじゃない!」
目の前の幼馴染を見て、ユキこそ泣きたくなってくる。このまま机に突っ伏してしまいたい。
中学の頃も、毎回テストの時期になると何かしら挑戦していた。団地の建物の脇に生えている木から、通路に飛び移れるか、とか、逆立ちをしてどこまで行けるかとか。
アサは猿なみに運動神経が良い。ユキもアサほどじゃないが、アサについていけるぐらいの運動神経ならある。何しろ、生まれたときからずっとアサと一緒にいたのだ。アサについていくためには、運動神経を上げるしかなかった。そんな理由でやたら体を動かす遊びしかしてこなかったアサは、中学に入って、勉強するということを強制的に初めて押し付けられた。高校生になっても強制させられるということにまだ拒否反応を起こしているようで、何かに逃げるために、この時期になると自分のやりたいことを都合良く見つけてくる癖は治っていない。
「アサ、今回のテスト範囲、知ってる?」
「んー? あ、まだテスト範囲うつしてないや」
パンを完食したアサはお腹もいっぱいになって危機感が薄れたのか、けろっとしている。ウキウキとした顔でデザートのイチゴのプリンに取り掛かり始めた。
ユキは思わずため息をついた。
「ユキ? ため息ついてるよ! 幸せが逃げるよ」
「アサのせいでため息が出たのよ……」
ユキにとって、アサが悪い点数を取るのはしょうがないっていうか、関係ない。だが、ユキとアサのお母さん同士の間で、アサの成績が平均点以上ではないと、島に行かせない決まりがあるのだ。
アサとユキのお母さんは豊駕島という小さな島から本土に渡ってきた人だった。豊駕島にいたときから仲が良かったらしい。アサとユキは毎回長い休みにはその島にお母さんたちと行っていた。豊駕島は人口一万人に満たない小さな島で、温暖な気候に豊かな海、それにたくさんの生き物が住んでいる山も多くある自然豊かなところである。最近は、観光地としても少しは知られてきている。
小学校の頃は、何の苦労もなく島に行けた。けれど、中学校に入ってからはどちらも平均点以上取らなければ、島に行かせない決まりごとがいつの間にかできていた。
この決まりで苦労するのは、ユキである。ユキ本人は、それほど勉強が不得意なわけでもないから、平均点以上は余裕で取れる。学年でも上から数えたほうが何倍も早い。問題は、アサだ。さっき言った通り、自分から勉強をしないからいつもユキがアサの面倒を見てあげて、何とか乗り切ってきた。この高校に受かったのだって、ユキが苦労してアサを勉強机に向かわせてあげたからだ。奇跡に近い。もちろん、本人の行きたいという意思のおかげもあるが。
このテストで平均点以上取らないと、夏休みに島に行けないじゃない……!
島に行かない夏休みなんて、夏休みではない。それに、高校生になって初めての夏休みだ。絶対、アサと一緒に島に行きたい。
「ごちそうさまでしたー」
アサの手がパンと音を鳴らして合わさった。
それに合わせるようにして、ユキの決心もようやっと固まる。
「アサ」
「え、何?」
ユキが普通じゃないのを感じ取ったのか、アサはユキから一歩引いた。
「いい? これで平均点以上とらないと、豊駕島には行けない」
「あ、うん。そーだね」
「分かってる?」
「分かってるよう」
アサはうるさそうに立ち上がった。パンとプリンのゴミを持ってゴミ箱に向かおうとする。その手首を、ユキがぱっとつかんだ。
「分かってない。アサ、今日からあたしの家に泊りなさい」
「ええ? 何で?」
アサは思いっきり嫌そうな顔をした。アサのためを思っての行動なのに、そんな顔をされると非常に腹が立つ。中学校からだからもう大分慣れてはいるにしても。
「勉強するために決まってるでしょ! このままじゃ島に行けない!」
アサの手首にこもる力が強くなった。
「アサ、豊駕島、行きたくないの?」
「……行きたい」
「そうでしょ? あたしだって行きたい。だから、今日からテスト終わるまであたしの家に来るのよ。毎日つきっきりで試験勉強よ。分かった?」
アサは返事をしなかった。でもその代わりに、小さな声で、「テスト範囲、写してくる」と言って教室から出て行った。
よし。第一段階は乗り越えた。
心の中で小さくガッツポーズをする。本当に大変なのはこれからだけど、とりあえず、第一ステージクリアだ。後は、アサの頭にとにかく重要なところを押し込んでいけば、何とかなる、はず。
ユキは机の下からテスト用のノートを取り出した。今回の範囲を全てまとめたノートだ。半ばこうなること予想がついていたから、テスト範囲はほぼ暗記済みだ。
ノートを開いて、今日からアサにつきっきりで教えて上げられるよう、自分の勉強をしようとした。けれど、廊下に立っている人影を見て、諦めてノートを閉じた。
窓から夏の匂いを含んだ風がふわりとユキの長い黒髪を撫でた。その風に背中を押されるようにユキはその人物に近づいていった。
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