第5話 それはフューラーなのかヒトラーなのか
文字数 3,292文字
昨今はフィギュアスケーターにしてオリンピアンの羽生結弦氏が阿倍晴明をイメージした楽曲、「SEIMEI」を使用したことで話題になった阿倍晴明の存在。
その陰陽師阿倍晴明が用いた紋章が「晴明桔梗」であり、正五角形を為すことからこれを「五芒星」とも言う。
古来より魔除けや守護の存在として尊ばれてきたもので、旧日本陸軍の軍帽の天辺にも弾除けや守護として「五芒星」を戴いていたほどの、それはそれは霊験あらたかな紋章である五芒星。
私はそのありがたい五芒星を現代日本文学界に当て嵌め、現代の日本文学を守護し邪気を祓ってくれる作家を五人定め、彼等を五芒星と呼び習わし且つ私淑している。
尤も勝手にそう思ってるだけだろ、と、言われたらまったくその通りなのだが。
兎にも角にもその五芒星に耀く五人の作家とは、故船戸与一氏、半藤一利氏、帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏、浅田次郎氏、福井晴敏氏、の、五氏である。
彼等に順位を付けれる訳もなく単に故人から後は年齢順にしただけなのだが、彼等は私の現代日本文学への思いの総てを統べる。
そこで統べると言えば想起されるのは統帥或いは総統、と、言う言葉ではなかろうか。
そして統帥、と、言えば大日本帝国憲法の第一章第十一条に記載された、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とされる統帥権を。
また総統と言えば台湾の総統もそうであるが先ずはヒトラーを。
それぞれ想起されたことと思う。
どちらも戦後は触れることさえない言葉である。
殊に現代に於いてたとえばオフィスなどで唐突に、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などと統帥権の条文を読もうものなら、こいつ頭がおかしくなったんじゃないのか、と、思われることは必至だ。
下手をすると新型コロナウイルスの蔓延している昨今、自宅待機を言い渡された上以降出社に及ばず、と、なるやも知れない。
ま、それは言い過ぎかも知れないが、それ程「統帥」或いは「統帥権」などと言う言葉は、むやみに口にするのも憚られる言葉だと言うこと。
私はそれを言いたかったのだ。
ヒトラーに於いても然り。
殊に小説に於いてそれ等を扱う場合非常に難しいのは言う迄もなく、扱いを間違うとその作品の出版自体が危ぶまれることになる。
これ程迄に表現の自由が保障された日本のあっても、だ。
三国同盟の締結以降枢軸国となった日本はドイツ共々、戦後もそれ等のことについて不適切な表現をすることは禁忌なのである。
‐14‐
従ってそれ等テーマを扱った作品は極単に少ない。
益してや名作となると尚の事だ。
至難の業と言えよう。
しかし私の五芒星はその至難の業を遣って退けている。
言い換えれば五芒星の仕事は奇跡に等しい。
殊に今回扱う五芒星のうちの一星である帚木蓬生氏の執筆に依る「ヒトラーの防具」は、これはもう名作中の名作であり日本人であれば国民全員が必読であろう。
え、でも、ここで紹介すると言うことはその名作に何がしかの問題があるからでしょ。
と、読者は不安になられたことだろう。
しかしご安心戴きたい。
帚木氏に於いても出版元である新潮社の編集や校閲に於いても、そんなミスは犯していない。
え、じゃ、何でここで「ヒトラーの防具」なの?
と、読者の疑念は益々深まったことと思う。
では何故ここで「ヒトラーの防具」なのか。
それには先ずこの「ヒトラーの防具」が、「総統の防具」、と、言うタイトル名であったことを述べなければなるまい。
何故改題されたのかの理由については、私の所蔵している新潮社の文庫本の中では一切触れられていない。
単に下巻の巻末に「この作品は平成八年四月日本経済新聞社より刊行された『総統の防具』を改題したものである」、と、記されているだけである。
戦前日本の青年団からヒトラーに贈られた剣道防具に端を発する本作は、ベルリンに駐在する日独混血の駐在武官補佐官香田光彦を主人公としユダヤ人女性ヒルデとの関係を中心に描かれる。
いつものように本編の内容については、新潮文庫刊行の「ヒトラーの防具」を参照されたい。
さて愈々今回の「ヒトラーの防具」に生じた問題である。
改題される以前の「総統の防具」の表紙には、Führers Rüstung(フューラース・リュストゥング)、と、ドイツ語表記がある。
当然改題された「ヒトラーの防具」には、Führers Rüstungで はなく Hitlers Rüstung と、なって然るべき筈。
ところが、で、ある。
改題されたのにも拘らず「ヒトラーの防具」ではなく、「総統の防具」を意味する Führers Rüstung のまま表紙に堂々とドイツ語が記されている。
これはどう言うことなのか。
たとえば「日本語タイトルのみ改題」と、記されているのなら私も納得するのだが、文庫本
‐15‐
の何処を見ても単に改題とされているのみである。
で、あれば、ひょっとして「フューラース・リュストゥング」は、ドイツ語で表記されると、ドイツ人に取っては「ヒトラース・リュス
トゥング」とも取れる、と、言うことなのか。
そんな馬鹿なことがあるか、と、否、しかし強ちそうとも言えな
いのである。
よくよく調べるとフューラースと言うのは「指導者」の意味があ
り、ヒトラーが用いた国家元首と首相及び党首の三つの地位の総称を指す言葉でもあるのだそうだ。
それはつまりナチスが社会体制の一元化を狙いヒトラーをフューラーとしたのであり、フューラーはドイツ語では或る意味ヒトラーそのものを指す。
また戦前日本はフューラーを総統と訳したそうで、ヒトラーは日本語では総統閣下、と、言うことになる。
前述でも指摘したが日本語での総統は単に国家元首を指すこともあり、台湾の総統はその一例である。
しかし台湾の総統の総統をドイツ語にすると Prasident と、言うことになり Führers とは一線を画すと言うことになる。
畢竟 Hitlers Rüstung = Führers Rüstung でも良いのだ。
しかしそうであったたとしても、「日本語タイトルのみ改題」としないのは出版社として不親切ではないのか。
本編ならいざ知らず、その辺りの入り組んだ事情を分かっている読者はそんなに居ない筈だ。
やはり私は「日本語タイトルのみ改題」、と、一文入れるべきで
あったように思う・・・・・と、ここで新たに私は思い到った。
ひょっとしてこれは原作者の帚木蓬生氏自身による指示であったかも知れない、と、言う「青天の霹靂」にも等しい私自身の閃き。
と、すればである。
そのくらいの知識は私の作品を読むのなら読者全員が持っていて然るべき、と、言う五芒星のうちの一星からの啓示、と、言うことになる。
で、あれば、「日本語タイトルのみ改題」、と、一文入れるのはナンセンスじゃないか。
否、そうかも知れない。
そうだとすれば私は何と愚かなのだろう・・・・・と、ここで下世話な私はまた新たに閃いてしまった。
でもそれは考え過ぎで、単に出版社が「総統」とするより「ヒトラー」とする方が分かり易いし部数も伸びる。
つまり大人の事情で売れるように改題しただけで、その際ドイツ語表記に関しては改題の必
‐16‐
要がなかったし、単に「日本語タイトルのみ改題」と言う一文を入れなかっただけ。
と、言う私特有の下世話な発想。
どちらなのだろう。
私としては前者の理由であることを望むばかりだ。
否、仮に後者であったとしても今後も、 尚Führers Rüstung のままでいい。
何故ならそれが私の五芒星の一星に対する最低限の礼儀であり、また帚木氏を崇拝する多くの読者が見ている「夢」から彼等を醒めさせない、唯一の処方箋でもあるからだ。
‐17‐
その陰陽師阿倍晴明が用いた紋章が「晴明桔梗」であり、正五角形を為すことからこれを「五芒星」とも言う。
古来より魔除けや守護の存在として尊ばれてきたもので、旧日本陸軍の軍帽の天辺にも弾除けや守護として「五芒星」を戴いていたほどの、それはそれは霊験あらたかな紋章である五芒星。
私はそのありがたい五芒星を現代日本文学界に当て嵌め、現代の日本文学を守護し邪気を祓ってくれる作家を五人定め、彼等を五芒星と呼び習わし且つ私淑している。
尤も勝手にそう思ってるだけだろ、と、言われたらまったくその通りなのだが。
兎にも角にもその五芒星に耀く五人の作家とは、故船戸与一氏、半藤一利氏、帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏、浅田次郎氏、福井晴敏氏、の、五氏である。
彼等に順位を付けれる訳もなく単に故人から後は年齢順にしただけなのだが、彼等は私の現代日本文学への思いの総てを統べる。
そこで統べると言えば想起されるのは統帥或いは総統、と、言う言葉ではなかろうか。
そして統帥、と、言えば大日本帝国憲法の第一章第十一条に記載された、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とされる統帥権を。
また総統と言えば台湾の総統もそうであるが先ずはヒトラーを。
それぞれ想起されたことと思う。
どちらも戦後は触れることさえない言葉である。
殊に現代に於いてたとえばオフィスなどで唐突に、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などと統帥権の条文を読もうものなら、こいつ頭がおかしくなったんじゃないのか、と、思われることは必至だ。
下手をすると新型コロナウイルスの蔓延している昨今、自宅待機を言い渡された上以降出社に及ばず、と、なるやも知れない。
ま、それは言い過ぎかも知れないが、それ程「統帥」或いは「統帥権」などと言う言葉は、むやみに口にするのも憚られる言葉だと言うこと。
私はそれを言いたかったのだ。
ヒトラーに於いても然り。
殊に小説に於いてそれ等を扱う場合非常に難しいのは言う迄もなく、扱いを間違うとその作品の出版自体が危ぶまれることになる。
これ程迄に表現の自由が保障された日本のあっても、だ。
三国同盟の締結以降枢軸国となった日本はドイツ共々、戦後もそれ等のことについて不適切な表現をすることは禁忌なのである。
‐14‐
従ってそれ等テーマを扱った作品は極単に少ない。
益してや名作となると尚の事だ。
至難の業と言えよう。
しかし私の五芒星はその至難の業を遣って退けている。
言い換えれば五芒星の仕事は奇跡に等しい。
殊に今回扱う五芒星のうちの一星である帚木蓬生氏の執筆に依る「ヒトラーの防具」は、これはもう名作中の名作であり日本人であれば国民全員が必読であろう。
え、でも、ここで紹介すると言うことはその名作に何がしかの問題があるからでしょ。
と、読者は不安になられたことだろう。
しかしご安心戴きたい。
帚木氏に於いても出版元である新潮社の編集や校閲に於いても、そんなミスは犯していない。
え、じゃ、何でここで「ヒトラーの防具」なの?
と、読者の疑念は益々深まったことと思う。
では何故ここで「ヒトラーの防具」なのか。
それには先ずこの「ヒトラーの防具」が、「総統の防具」、と、言うタイトル名であったことを述べなければなるまい。
何故改題されたのかの理由については、私の所蔵している新潮社の文庫本の中では一切触れられていない。
単に下巻の巻末に「この作品は平成八年四月日本経済新聞社より刊行された『総統の防具』を改題したものである」、と、記されているだけである。
戦前日本の青年団からヒトラーに贈られた剣道防具に端を発する本作は、ベルリンに駐在する日独混血の駐在武官補佐官香田光彦を主人公としユダヤ人女性ヒルデとの関係を中心に描かれる。
いつものように本編の内容については、新潮文庫刊行の「ヒトラーの防具」を参照されたい。
さて愈々今回の「ヒトラーの防具」に生じた問題である。
改題される以前の「総統の防具」の表紙には、Führers Rüstung(フューラース・リュストゥング)、と、ドイツ語表記がある。
当然改題された「ヒトラーの防具」には、Führers Rüstungで はなく Hitlers Rüstung と、なって然るべき筈。
ところが、で、ある。
改題されたのにも拘らず「ヒトラーの防具」ではなく、「総統の防具」を意味する Führers Rüstung のまま表紙に堂々とドイツ語が記されている。
これはどう言うことなのか。
たとえば「日本語タイトルのみ改題」と、記されているのなら私も納得するのだが、文庫本
‐15‐
の何処を見ても単に改題とされているのみである。
で、あれば、ひょっとして「フューラース・リュストゥング」は、ドイツ語で表記されると、ドイツ人に取っては「ヒトラース・リュス
トゥング」とも取れる、と、言うことなのか。
そんな馬鹿なことがあるか、と、否、しかし強ちそうとも言えな
いのである。
よくよく調べるとフューラースと言うのは「指導者」の意味があ
り、ヒトラーが用いた国家元首と首相及び党首の三つの地位の総称を指す言葉でもあるのだそうだ。
それはつまりナチスが社会体制の一元化を狙いヒトラーをフューラーとしたのであり、フューラーはドイツ語では或る意味ヒトラーそのものを指す。
また戦前日本はフューラーを総統と訳したそうで、ヒトラーは日本語では総統閣下、と、言うことになる。
前述でも指摘したが日本語での総統は単に国家元首を指すこともあり、台湾の総統はその一例である。
しかし台湾の総統の総統をドイツ語にすると Prasident と、言うことになり Führers とは一線を画すと言うことになる。
畢竟 Hitlers Rüstung = Führers Rüstung でも良いのだ。
しかしそうであったたとしても、「日本語タイトルのみ改題」としないのは出版社として不親切ではないのか。
本編ならいざ知らず、その辺りの入り組んだ事情を分かっている読者はそんなに居ない筈だ。
やはり私は「日本語タイトルのみ改題」、と、一文入れるべきで
あったように思う・・・・・と、ここで新たに私は思い到った。
ひょっとしてこれは原作者の帚木蓬生氏自身による指示であったかも知れない、と、言う「青天の霹靂」にも等しい私自身の閃き。
と、すればである。
そのくらいの知識は私の作品を読むのなら読者全員が持っていて然るべき、と、言う五芒星のうちの一星からの啓示、と、言うことになる。
で、あれば、「日本語タイトルのみ改題」、と、一文入れるのはナンセンスじゃないか。
否、そうかも知れない。
そうだとすれば私は何と愚かなのだろう・・・・・と、ここで下世話な私はまた新たに閃いてしまった。
でもそれは考え過ぎで、単に出版社が「総統」とするより「ヒトラー」とする方が分かり易いし部数も伸びる。
つまり大人の事情で売れるように改題しただけで、その際ドイツ語表記に関しては改題の必
‐16‐
要がなかったし、単に「日本語タイトルのみ改題」と言う一文を入れなかっただけ。
と、言う私特有の下世話な発想。
どちらなのだろう。
私としては前者の理由であることを望むばかりだ。
否、仮に後者であったとしても今後も、 尚Führers Rüstung のままでいい。
何故ならそれが私の五芒星の一星に対する最低限の礼儀であり、また帚木氏を崇拝する多くの読者が見ている「夢」から彼等を醒めさせない、唯一の処方箋でもあるからだ。
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