第1話

文字数 19,791文字

8月7日(金)
17:30
おつかれー! 私達としたことが、ちょっと久しぶりじゃないか?
なんっちゅーことだ! 仕事はどうだい?
てか明日くそ暇だったりする?

 22:21
 おつかれー、ごめん今仕事おわった~。ちょーつかれたぁ。
 ね、珍しくあいたねー。明日くっそひまだよ。なになに? どうしたの?

 22:25
 え、今終わったの⁉ 前より遅くなってない⁉ 体は大丈夫??
 いや~、良かったら公園でバトミントンしようって誘おうと思ってたんだけどさ~。
そんだけ遅いと疲れてるよね……。

既読。
バトミントン。
 揺れるオレンジのフカフカの上で、私はパタリと手を膝に落とした。
あーちゃん、なぜ、バトミントン。
電車に合わせてゴトゴトと揺れる。窓で頭がゴツゴツと弾む。
相変わらずあーちゃんは突拍子がない。なんで唐突にバトミントンなの。まぁ昔はよくやったけれど、私達もう、社会人なんだよ?
眼精疲労で瞳を閉じると、心臓がドクドクと波打つのが聞こえた。浮足立って浮いてく心。
あーちゃんは、私にとって鼻先の人参。
パブロフ犬の、メトロノーム。なんて言ったら、怒りだすかな。
つま先がひとりでにパタパタ揺れる。
疲れてますよ、疲れてますとも。けれど、あーちゃんとのバトミントン、きいちゃんことこのわたくし、北田菜穂と申しますが、行かないわけには、ゆかないのです。

 22:56
 そう、もうやり方が分からなくて進まなくてさー。
 え、てかなぜにバトミントン。笑
 いや、大丈夫、やろうやろう‼ どこ公園?
 あ、でもごめん、ゆっくり寝たいから、午後からでもいい?

 再び私は、スマートフォンを、パタリと落とす。
 ブルーライトが目に染みるのです。
 裸眼の暮らしは一年目でおサラバ。今年の検診でびっくらこいた。これは労働災害ではないか。あーちゃんに言ったら認定された。
「眼鏡がこの世になかったのなら……」それはどこかの企業の説明会でのこと。「あなたは……」確かあれは、小さな子供たちを支援する、福祉企業の説明会だ。私の脳内で花火が上がった。花火は夜道を明るく照らした。何で私は、今まで気が付けなかったのだ! 当時の私はまだ裸眼の子。けれど、眼鏡が世の中に与えたインパクトを思うと、ひたすらにその存在に、恐れおののくのだった。まぁ私が今しているのはコンタクトレンズだけども。
 そんなことを半目になりながら考えていると、アルコールの臭いが鼻をさした。酸っぱいような、独特の刺激。終電間際でもないこの半端な時間、電車の中に人はまばら。なのに、一体どれだけの人が、アルコールを摂取し放出させれば、ここまでの境地に達するのだろうか。私達は、アルコールの中で漂う魚。あ、向かいの席の酔っ払いが、こてんと横に倒れてしまった。なんとも気持ちよさそうな寝顔。力尽きた後の安寧。苦しみから解放された安らぎ。私はちょっと、うらやましくなった。あんたが酒をのんでる間、私はひとりで仕事してたよ! 心の中で、八つ当たりしてみた。そうでもしないとやってられない。思うだけなら、ないのと同じだ。アルコールでゲロまき散らすより、全然、全然マシなはずだ。
 気が付いた時には私も寝ていた。酔っぱらいはいなくなってた。なんだか負けたような気がした。終点のアナウンスで瞳が冷えた。車掌さんが来る前にそそくさと退散。降りてしまってから、不安になった。あれ、もしかして何か落とした? ああ、でももう車掌さんは通り過ぎた。今更戻ってももう無駄なんだ。次は確認してから電車を降りよう。きっとその時には、この後悔すら忘れているだろうけど。
とぼとぼとどっぷりと暗い夜道を歩く。駅前にはやけに高層なマンション。できた当初は「なぜこんなところに」。今となっては少しは分かる。車庫があるから、始発も多い。池袋までの距離も程よい。マンションが出来て、本当は少し嫌だったのだれど、人が増えて、子供が増えて、母校が潰れないでくれそうだから、それはそれで、万々歳だ。ビル風ならぬマンション風が、疲れた私と押し合いっこ。
 十分ほど歩くと町は落ち着く。星がちらちら輝きだして、月は背後で静かに微笑む。身を寄せるようにして集まる家は、もう眠りについたのだろうか。畑、林、等間隔に並ぶ白熱の街路灯。灯の傍では星は薄く、畑の上では明るく光る。だから私は、畑の空ばかりを向いて歩き、夜空は広く、地面も広く、虫達の声が、リンリンジージー舞い上がってく。
 私はこの町の世界が大好き。
 暗闇の世界に私は溶けてく。水をはらんだ土の匂いに、こわばった肺が心を許す。
 今この夜も、明日来る朝も、昼も、全部。
朝と、夜の、たった数時間しかいることのできないこの町のすべて。
私は、ただただ、愛おしいのだ。
家に帰ると夕食が、ラップに包まれ置いてあった。しまった。今日はいらない、と、ラインを一言入れ忘れていた。仕事なんかより、母の方が大切なのに。明日の朝にでも食べます、いや、お昼かもしれない、どうもすみません、と冷蔵庫の中にエビフライをしまう。あぁ、冷蔵庫に入れたら、エビフライはフライじゃなくなる。母の愛は、娘に届かず。夕食は、池袋駅のベンチですませた。クルミの入った菓子パン一つ。会社で食べるかいつも迷うが、会社で食べてもおっかなびっくり、食べた気なんて、するもんじゃないから。誰もいなくても、誰かいるよう。家に帰ってから食べることもあるけど、抑えがきかなくて食べすぎちゃうから、翌日は胃がもたれて朝は吐きそう……。ということで、苦肉の策の駅のホーム。下品と言われても仕方があるまい。二十四歳独身ОL。アフターファイブを楽しむ友達。私だって、惨めな思いだ。すごくすごく、泣きたくなるよ。可哀想って、抱きしめてほしい。そしたらなんだか、安心しそう。
化粧を落とし、シャワーを浴びる。シャワーだけでも大分疲れた。化粧水を縫って、乳液を塗って、着替えて冷房の効いたリビングへ向かう。ソファーに腰かけ胡坐をかいて、髪を改めてタオルドライして、オイルを塗って、ドライヤーかけて……ああ、面倒くさい、何でこんなことしなくちゃいけないの。
 急に右のほっぺたのあたりが、痛いくらいに熱くなった。寝ていたらしい。けれど、ドライヤーを持つ腕はあげられていた。眠っていても私は休んでないのかしら。
重力を感じながら階段を上り、部屋のベッドになだれ込むように伏せた。最後の力を振り絞って、スマートフォンのラインを開いた。わぁ、なんて眩しいブルーライト。
 あーちゃんからの返事はなかった。既読すらまだ、ついてなかった。
 私はうるうると泣きたくなった。顔を突っ伏し、ため息が漏れる。
あーちゃん、ひどい、寝ちゃったんだ。
明日は何時に待ち合わせするのよ。仕事だったら、許されないよ? ねえ、午後で良いんだよね? 私はもう、寝ますからね!
寝てもいいことなんてわかっているよ。
あーちゃんと私は、そんな感じ。明日の会う時間なんて決めてなくてもОK。話の途中で、寝てもОK。二人の会話は、何となくでいい。
 だから、ちょっと寂しかっただけ。ほんのちょっと、すねてみただけ。
 なんて嘘、すっごく悲しい。あーちゃん、あーちゃん。私はひとり。
 今日は出身地を、バカにされた。

 それはすぐに夢だと分かった。
自分の姿が見えていたし、映像全てに見覚えがあって、まるで走馬灯を旅しているようだったから。
 あーちゃんとの、幸せな思い出。だから、夢だと分かっていながら、私は、喜んで旅を続けた。
 公園で遊んでバトミントンして、夕焼け眺めて一緒に笑って。
 テスト勉強をしてるふりしてお絵描き、同じ中学、同じ高校。
 いいトコどりの、楽しい人生。暗いことには、蓋をしましょう。
 おやつのケーキを少し溢した。
 あーちゃん、ごめん、拭いたティッシュはこのゴミ箱でいい?
「お前はホント使えないゴミだなあ!」
あれ。
振り返る。
カーテンが揺れてる。
何だこの声。聞き覚えがあるなあ。
たしか……かいしゃの……。
あたりが急に、真っ暗になった。
あーちゃんがいない。あーちゃんはどこ?
「期待してたのと全然違うじゃん」
「え、何、美人? あー、ブスかー」
「外れクジだったよなあ俺たちの部署。なーんだよ、ただの冗談だろー?」
「いいよなぁ、にこにこしてりゃいいんだもんなぁ。なんにもかんがえなくていいんだもんなあ」
「あははは! もう、ひどいですよかちょーう!」
 私は、笑った。いつもにこにこ。
 だからそこにいる私も、楽しそうに笑っているんだ。
うわあ、うわあ、うわあ、うわあ! 
気持ち悪い。なんて私は気持ちの悪い!
両手で頭を掻きむしった。
気づけば目の前に階段があった。
手すりが錆びて螺旋を描く、奈落の底まで通じる階段。
あーちゃんが見えた。高校制服。私は? と思い、息を呑んだ。いない、いない、どこにもいない。いるのはこの、二十四の私。
階段以外は真っ暗なのに、あーちゃんの周りだけがぼーっと白く、螺旋状の階段が不気味に渦巻く。
 あーちゃんが私を振り返った。「じゃ」と手を挙げ、足を踏み出す。
「あーちゃん!」
 私は咄嗟にあーちゃんに抱き着く。危ないよ、その階段は……。
 でも、どうせ落ちるなら一緒に落ちよう。
 力を入れて、強く願った。
 もう二度と私を置いてかないで。
 私は訳も分からずべそをかきそうになった。
耳元であーちゃんがくすりと笑う。
「きいは本当にバカなんだから」
 今まで聞いたことの内容なその冷たい声の響きに驚き、私はぱっとあーちゃんを離した。
 あーちゃんが頬を歪ませ笑った。
 あーちゃんまで私をバカにするとは。これは悪夢だ、紛れもなく悪夢だ。
「もう一度人生、やり直してくれば?」
 え。いくらなんでも、ひどすぎないあーちゃん?
 私がぽかんと固まっている間に、するりとあーちゃんは反対へ駆け出し、ぐるぐる巻きの階段にジャンプし、「きいも来なよ!」と大きく言うから、私はまた、叫ぶように言った。
「だめ! あーちゃん、あーちゃん、あーちゃん!」
だって、それは、その先は、その先は。
もうあんな思い、私は御免だ。
縋るように手を伸ばしたら、私の顔面が、パリンと割れた。

 1:57
 ごめん、寝落ちしてた!
え、やり方が分からないって
誰かに聞くことは出来ないってこと?
 何か急に懐かしくなってさ、じゃあハト公園で!
午後からでも全然オッケー!
てか暑いから夕方にする?
あー、楽しみ~!

 はあああぁ。ため息をついて仰向けになる。顔、顔、あるよね?
 あーちゃんの夢を見るなんて、しかもバトミントンも出てくるだなんて。
あーちゃんと久々にラインしたせいだ。私の脳みそ、本当単純。
よいせと身体を横に倒して、あーちゃんに返事をいれてまた目を閉じた。
 あぁ、あーちゃん、ちゃんと生きてる。生きててよかった。
 さあ、もう一度、寝よう。今度は出来るだけ、長く眠れるといい。

 次目覚めた時は十三時だった。こんなに連続して眠っていられるのは久しぶりで、目覚めが良いのも久々だった。
一階に降りて、顔を洗って、冷蔵庫をあさって、皮がちょっと茶色くなったバナナを手に取る。剥いてみると真っ白だった。ラッキーと思ってヨーグルトと食べる。お義父さんがワイドショーを見ていた。お母さんは今日はパート。「お義父さん、おはよう」と声をかけると「おはよう菜穂ちゃん」と返事をくれた。お義父さんは、なんて良い人。でも、心の中では、こんな時間まで寝てだらしのない奴、とか思ってたりもするのかな。
 水色のワンピースをクローゼットから出して、お腹に甘茶のベルトを装備。外に出るには少しはおしゃれしないと。バトミントンをするのにスカート? 私は短足、ズボンは合わない。女は少しでも綺麗にしないと。別にワンピースが似合うわけでもないけど。若いうちだけが華なんだから。せめてブスにはならないように。化粧をしようとミラーを立てる。鏡にはくすんだ顔が映る。いつからこんな顔になったの。化粧をしないと、もう外に出られない。ありのままじゃ、恥ずかしい存在。ブスとか言われて、陰で笑われる。そう思ったら、化粧をする手が、震えだした。この下地、このファンデーションだけで、バカみたいにお金が消える。このマスカラ、このアイライナー、リップ、シャドウ、コンシーラーにチーク。働いたお金が、バカみたいに消える。頑張ったところで、美しくはならない。マシになるだけ。皆は楽しくておしゃれしてるのかしら。いいなぁ、きらきらしてて、女の子らしい。

8月8日(土)
15:58
 あーちゃーん! 今家の前着いたよ!
 ゆっくりでいいから準備出来たら来てね~。

 あーちゃんちの門の前でラインを入れる。日はまだ現役。お昼にしなくて本当に良かった。気温は三十度はありそう。
 あーちゃんの家は、私の家からそう離れていなくて、私の家を出てすぐの畑を、横目に歩いてたったの五分。公園も、駅も、あーちゃんちの側にあるので、私達の待ち合わせは、小学生の頃からいつもここだ。一つ変わったことと言えば、あーちゃんの呼び出し方くらいで、昔はインターフォン、今はラインだ。インターフォン時代は、たまにお兄さんが出てきたりして、「勝手に出んなボケナス!」とかそういう、あーちゃの怒り声がそのたびに聞こえて、面白いやら、申し訳ないやら。いつか、あーちゃんに、何でお兄さんのことナスっていうの? と聞いてみたら、あーちゃんは卑屈な笑みを浮かべて、「あいつの髪の毛、ナスのヘタみたいだもん」と。人の見た目を馬鹿にするとは、なんてあーちゃんらしくないんだ。私は嫌な気持ちになって、けれどあーちゃん、それほどお兄さんが嫌いなんだ、とひらめきもあって、私は小さく、頷いてみせた。それからあーちゃんちでお兄さんにあう度、私は思わずそのヘタ見たさに、挙動不審にもじもじしていた。
 そんなことを考えていると、手元のスマートフォンがしゅぽっと鳴った。

 16:02
 きい、顔をあげよ!

 ん? と言われたとおりに顔を上げると、目の前の鋳物の門と繋がる、レンガの塀の向う側から、顔がひとつ飛び出してきた。「おぅ」と私は声を上げる。
「あーちゃん、何それ。頭おかしい」
 お祭りでよく見るひょっとのお面。
「なんだよー、もっとびっくりしてよぅ!」
 あーちゃんがお面を上にずらすと、随分いじけた顔が出てきた。
「えー、ちゃんと驚いたよ、おぅ、って」
「全然じゃん! もっとびっくりすると思ってたのに」
「んー、さっきのラインを見た時点で、何かあるなと察してしまい」
「だーってさ、きい、全然顔上げてくれないんだもん」
 あーちゃんがキキキと門を開いて、こちらにひょいと飛び出してきた。私は、えっ、と声を上げた。黒無地のTシャツ、高校時代のジャージのズボン、どうやら化粧もしていないらしい。私は自分が馬鹿みたいに思えた。
「あーちゃん、そのお面、どこで買ったの?」
 そんな心中を悟られたくなくて、誤魔化しついでにお面に言及。
「あー、この間の夏祭り。久しぶりに行ってきたの。ほら、西友の駐車場の」
「あぁ! 小学生の時行ってたやつだ。なに、彼氏さんと行ってきたの?」
 何気ない口調であーちゃんに尋ねる。昔は私と行っていたのに。
 ちくりと胸に何かが刺さった。
「そう。かれ……あ、本当はきいを誘おうかとも思ったんだけど……遅くなるからあれかなと思って。ほら、私、日曜日しかあいてなかったから、次の日会社で、きい朝早いでしょう?」
「朝早いのは皆一緒じゃん」
「いや、でもきいは特別、疲れてるから」
「彼氏さんだって忙しいじゃん。商社マンって、残業凄いよ?」
 何だか責めてるみたいになった。
「知ってる知ってる、でもあの人、体力あるから」
 あーちゃんがおかしそうにくすくすと笑った。なんだかいつもより乙女チック。ショートヘアーがふさふさと揺れる。あーちゃんかわいい。よく似合ってる。
 あーちゃんと翔君の二人の変遷、私もリアルタイムにちゃんと聞いた。大学生の時、地元のバイトで二人は出会った。個別塾の塾講師のバイト。あーちゃんも翔君も、英語の担当。翔君はあーちゃんの確か二コ上。翔君は、背が高くて顔もキリリ、今は一流商社の営業さんで、あーちゃんと信じられないくらいにお似合いである。まぁ写真でしか見たことないけど。
「そっか、そりゃそうだよね、私が疲れてる云々の前に、普通彼氏と行くものだよね」
 これは責めているんじゃなくて本当に思った。
「いや、そんなことないよ」
 笑うあーちゃん。
「花火大会じゃあるまいし、地元のちっさいお祭りじゃん。ちびっ子とかおばさんたちが、盆踊りなんか踊っちゃってさ」
「お化けのキューちゃん」私も笑う。
「そう! お化けのキューちゃん! この間もまだ流れてたよ! 全然曲が変わってないの!」
「まだあの曲流してるの?」私はおかしくて笑ってしまった。あーちゃんとお祭りに行った最後の日から、もう十年は経過している。
「私、あれ、ちょっと踊ってみたかった」
「分かる。踊ってみたかったよね」
「え、あーちゃんも?」
「うん」
「でも振付知らなかったからさ」
「そう、それ」
「皆、どこで覚えたんだろう」
「ね。ラジオ体操の代わりに踊ってたんじゃない? 私達、あっちの地区じゃないから知らないけれど」
畑の横を、てくてく歩く。
私はずっと遠くを見ていた。
空の模様が、かけがえがないから。
「きいって」
 あーちゃんの声に振り振り返る私。
「昔っからこういうの好きだよね」
「え?」
 こういうのって、何の話?
「んー、何だろう、きれいな感じ? 自然な感じ?」
 あーちゃんはそのあと、語彙力のなさっ!、と手を叩くと自分を笑った。
 あー、私があーちゃんの話を聞きそびれたのでなくて、あーちゃんは私の見ていることを、言っていたのね。
 きれいな感じ? 自然な感じ?
あーちゃんの言いたいことは私にも分かって、あーちゃんはそのこと知ってたんだと、心がすごくこそばゆくなった。
 そうなの、私、こういうのが好きなの。
 静かで、自然で、ただそこにあるの。
 とても、とても美しく思う。
「あーちゃんもこういうの好きじゃないの?」
「好きだよ!」
 当たり前じゃん! あーちゃんは言った。
「だから地元に就職したんだもん!」

 あーちゃんと私は畑を見ていた。
 小学四年生の夏。お母さんと、本当のお父さんと私が過ごした最後の夏だ。
お盆休み、お父さんの休み。その時が一番、苦しかった。
嫌味を言われて、嫌味を言われて、嫌味を言われて、嫌味を言われて。
お母さんが後から、そんなことないよって励ましてくれる。
けれど、そんなこと、ないわけないじゃん。
そんなことないって思えないこと、あいつは厭らしく言ってくるんだ。
お母さんは助けてくれない。何でかそんなこと分かってる。
分かってるけど、だから、それもあって、二つの意味で、ひどく、悲しい。
その年、良いことを思いついた。外をただがむしゃらに走る、ただ、それだけ。
ひたすらに、行く当てもなく、走って走って、汗にまみれて、そうすれば泣いたって、道行く人にもバレやしないさ。仲良し家族に出くわさないように、林や畑を目指して走った。すたすたすたすた息荒げると、そのうち隣で蝶々が飛んで、蜂すれちがい、蜘蛛の巣が張って、変わった鳥が、声を上げた。おっ茶っ葉が並んで、トウモロコシがのっぽで、巨大な里芋の葉が、ゆさゆさと揺れた。
いつの間にか、お父さんのこともお母さんのことも忘れ、走るのをやめ、歩き出してた。
帰り、畑の横の一本道で、またあの雨傘に似た葉っぱを見つけた。立ち止まってじっと見つめる。私の背丈よりもう大きいんだ。
「やあ!」
 肩をいきなり誰かが叩いた。
「何してるの?」
 振り向くとそこには、あーちゃんがいた。ちなみにこれが、初めての会話。
「あっ……」
「北田菜穂ちゃんだよね? 私、同じ名前なの。知ってる?」
「あ、う、ん」
「本当にい?」
「ししし、知ってるよ! あ、青田、菜穂、ちゃん……」
 自分と同じ名前に、ちゃんを付けるのは何となくはがゆい。あーちゃんの目を見ていられなくなって、私はちょうど道向こうに見える、近所でも有名なあーちゃんの家を、こっそりと見つめて綺麗、と思った。
「あったり~」
あーちゃんは弾み、歌うように言った。
「あ、ちなみにここが私の家です」
 こっそりは結局バレていたみたいだ。
「ねえ、何してたの?」
「えっと……」
 畑を見ていたなんて、変だろうか。
「ねえ、畑見てたよね? 私、そこの窓から実は見てたの。あれ、私の部屋の窓なの。私の部屋なの」
 少女が指さす二階を見上げる。空いている窓の向こう側で、レースのカーテンがひらひらと揺れた。
 知っていたのなら、聞かないでほしい。
「そうなんだあ……」
「ねえ、畑見るの、好きなの?」
「え」
「私、畑見るの好き。お母さんが勉強しろってうるさい時は、部屋にこもって教科書だけ広げて、ずーっと、畑見て、んで空見たりするの。それで、お母さんが部屋に来たら、急いで戻って勉強するの。してたふりするの。結局後でバレるんだけどね、全然問題がすすんでないから」
 あははははー! とあーちゃんは手を叩いてまた自分で笑った。
「……お母さん、厳しいの?」
 もしかして、と私は聞いた。
「そうなの! 厳しい!」あーちゃんは顔を顰めて言った。
「食べ方とか、姿勢とか、あと挨拶とかも、本当うるさい。私のためって、本当うそつき。あとお兄ちゃんも兎に角うるさい、頭いいだけの、あのボケナスビ」
 あーちゃんはぺらぺらと饒舌に話す。
 私の心はなんだかオープン。
「私、畑見てたよ」
「お、やっぱり」
 少女が満足そうに、ムフフと笑った。
「仲間ですな」
 アーちゃんと私は、次の年、初めて同じクラスになった。
 一緒にバトミントンクラブに入って、それからはよく一緒にいるようになった。
 その間にお父さんが、大きな交差点でトラックにひかれた。もう会えなくなった。
 お母さんも、私も泣いた。あんなに殴られてたのに、お母さんも泣いた。
 あの時は事故だと信じていたけど、歳を取るにつれて、あれは、本当に事故だったのかしら、と思うことがふえた。
 あーちゃんは塾がない日によく遊んでくれた。お父さんのことは、聞いてこない。ただ、一度だけ、何気なしに、「そばにいるよ」とだけ言ってくれた。私にはそれで十分だった。お父さんが私をなじって、いじめて、殴ったことも、あーちゃんは何にも知らないままで、そのままでいいのだ。もう、全て、終わったことだ。
バトミントンをしたあと、あーちゃんの家に初めてお邪魔した日、あーちゃんのお母さんに初めて会った。厳しいと聞いていたから身構えていたけれど、あーちゃんのお母さんは綺麗で上品、ボケナスお兄さんと同じように、私には優しい。遊びに行くたびに、ケーキなんかを、だしてくれた。ああ、お母さんに持って帰りたい、なんて思った。あーちゃんは、「ケーキとか、私の誕生日でも、テストで満点取らないと出さないんだよ」と、台所にいるお母さんに聞こえないようにこっそり私に耳打ちをした。そして、「まじでなんなの」とむしゃむしゃ不貞腐れながらケーキを食べると、そのうち、ほっぺが緩みだして、「おいしいね~」と幸せそうに笑った。あーちゃんの笑顔は、こんなにも人をしあわせにするのに。変な家族だ。私は思った。家族に優しくしないなんて、何の、何の意味もないのに。
中学、高校、あーちゃんは明るくて、優秀で、みんなの憧れの的だったけれど、でも、ほんの時々、まるで何も見えていないかのように、大きな瞳が、虚ろになる瞬間があって、私はそれが、恐ろしかった。お父さんが亡くなる数日前、初めて私を殴ったあの日、夜、テレビを見ているのかと思っていたら、そんな瞳で、泣いていたから。
 
「そうだったね、あーちゃん、今働いてる会社と、他に抑え二つくらいしか受けてなかったもんね」
 あーちゃんとは結局、大学で別れた。
「そうそう、都会で働くのちょっと嫌だったし、やっぱ定時には帰りたかったから信金かなって。大学が東京でちょうど良かったよ。どんな感じかが分かったからさ」
 人、物、金、人。酒、ごみ、怒声、人。
 私だって前から知ってた。でも、みんな、そっちだったじゃん。そっちにいかなかったら、どうしちゃったの? 何か考えがあるの? みたいな、そんな変な威圧感。あー、あーちゃんも同じ大学だったら。あーちゃんに彼氏ができてからは、連絡の頻度すら少なくなった。それは別にあーちゃんがそうしたわけじゃあなくて、鬱陶しがられたくなくて私が自分勝手にそうしたのだけれど。
「きいは、最近会社どうなの? 残業とか昨日みたいに相変わらずひどいの?」
「私?」
 あぁ、どうしよう。なんて答えればいいんだろう。残業は昨日みたいに毎日長いよ。でもそれは、自分が上手くできないせいだよ。自分がどんくさくて常識がないせいだよ。あぁ、上司のことを、思い出した。あれは、普通のことなのだろうか。
「うん、毎日あんな感じかな」
 きいちゃんが思いっきり眉をひそめた。
「それ、やばくない?」
 やばい? やばいよ。生理も最近ちゃんと来ないもん。
「普通だよ。大学の友達も結構残業してるらしいし」
「いや、人かどうとか、そうじゃなくてさ……。あのさ、ラインでも言ってたけど、分からないこと誰にも聞けないってどういうこと? 教えてくれる人は誰もいないの?」
「いや……いるんだけど……」
 聞けないんだよ。
「……いるんだけど……」
 私がグズだから。
 あ、会社のことを、思い出した。
そんなこともできないのかよ‼ まあまあ、まだ二年目ですから。ゆとりは本当つかえねーなあ。……すみません……。あはは、ちょっとー、パワハラですよー。なぁに、あの子、また怒られてるの? ったく、自分で頭使ってかんがえろよなー、本当にあの大学、卒業したのかあ?
違う、イレギュラーなことがだったから、確認しようとしただけなのに。大きな声で、怒鳴らないで。過去の資料も沢山探して、それでも同じケースが見つからなくて、他の営業さんの仕事もあるから、だから、だから早くと思って、事務の先輩に聞こうとしたのに……。
思い出しているうちに吐き気がしてきた。私が悪いのだ。どんくさいのだ。
「あ、ごめん、責めるような言い方になっちゃったよね」
 あーちゃんがそっと背中をさすってくれた。
「え、違う、そんなことない!」
「折角の休みの日に会社の話とか嫌だよね、ごめん!」
 あぁ、あーちゃん、私が弱いばかりに。寒くもないのに震えだす手を、私は急いで背中に隠した。
 畑が終わって、左に曲がって、ずっと進むと、五、六分のところにハト公園はある。ハト公園とは、あーちゃんと私で付けた名前で、広さはバスケットコート一面分くらい。ときどき、おじいさんがベンチに座って、ハトに餌をばらまいていく。本当はやっちゃいけないけれど。それでここにはハトが集まる。だからハト公園と名付けた。小学生の考えることだ。
公園に着くと、二人でさっそく手首足首をぐりぐり回して、さあやるか、と声を出した。あーちゃんの後頭部にはひょっとこがまだいる。
 私がひょっとこに目をやっていた時、あーちゃんのテンションが急に上がって、「よっしゃあ」とラケットを空振りすると、「行くぜ」とシャトルを空高く放った。私が待て待て、と逆サイドへ走る。あーちゃんは本当、せっかちなんだから。日が傾く中、二人でラリーを小気味よくつなげた。お、私達もまだまだ現役。あーちゃんは弧を描くシャトルに夢中で、そんな風に声を上げると、あははと空に、響き渡るほどに笑った。一時間ほどして私がギブアップしても、あーちゃんはまだぴんぴんしていて、私は信じられないとベンチに座った。けれどもこの一時間は意外なほど短く、自分がこれだけ汗流しながら動けたことに感心していた。体中が熱く火照り、足の先までじんわりとする。目に入りそうになる汗をぬぐった。
「パンプス、汚れちゃったね」
 私のつま先を見てあーちゃんが言った。
「いいよ、こんなの」
 このパンプス、いくらしたっけ、百貨店で買ったから高かったよな。まあ、でもいいや。どうでもいいや。なんとかなるでしょう。
「やっぱりいいね、バトミントン。小学生の頃を思い出すねえ」
 あーちゃんが急に、ノスタルジック。
「放課後、きいとバトミントンしてるとき。今思うとあの時が、一番、楽しかったなあ」
 あーちゃんがそんなことを言うと、私は急に、先生と大人みたいに話しているあーちゃん、友達に囲まれてわらっているあーちゃん、お母さんが嫌いと不貞腐れるあーちゃん、次第に知らない人になっていくあーちゃん、そんなあーちゃんが走馬灯のようで、今日見た夢も、またあいまって、なんだか胸が、苦しくなった。
 あーちゃんは本当によくがんばったなあ。
「でもあーちゃん、今はもう、楽しいでしょう?」
 私は励ますように言った。
うん、とあーちゃんは白い歯を見せた。
「きいのおかげだべ」
 照れるとたまに、だべ、とか付ける。
「大学からはもう人生最高。好きに生きてるー、って感じだよね。あの後暫く痛かったけどさ、結局生きてたからさ、ラッキーだったなあ」
 あーちゃんが足をぶらぶら揺らした。
 いいなあ、何て言っちゃいけない。そんなこと言うようなことじゃない。
 高校三年生の時の、大学受験日。あーちゃんも私も、学科は違うけれど丁度同じ学校を受けることになっていたので、その日は一緒に大学まで行った。あーちゃんにとっては第一志望。私にとってはまあ記念受験みたいなもの。大学の門をくぐって、受験会場を見つけて、じゃあ頑張ろうねってお互いに手を振って、別れた後に、あーちゃんは。
 古い校舎の階段から落ちて、くるぶしを折って、入院になった。
 試験が終わった後も、一緒に帰ろうって約束をしたから、スマートフォンの電源を入れて、「ごめん、階段を転がり、足の首折れた、病院にいるから、帰っててちょんまげ」なんてメッセージがあったものだから、頭の中が真っ白になって、それでも、あーちゃんが階段を“落ちて”ではなくて“転がり”なんて、あーちゃんとっても辛いだろうに、なんて優しい子なのだろうって、そんなことを繰り返し考え、頭の中の真っ白を埋めた。帰りの電車で呆けていると、ふと、あーちゃんの見せるひまわりみたいな笑顔と、時々見かける、虚ろな瞳が、私の頭の中を通り過ぎて、お父さんの涙と重なって見えた。私は居ても立ってもいられなくなって、あーちゃんどこの病院とラインを入れて、面会時間にまだ余裕があるから、急いであーちゃんのいる病院へ向かった。
 色んな事があったけれど、あーちゃんが今、楽しそうでよかった。
暫く二人で腰かけていると、だんだん心地よい風がでてきて、やんわりと頬を撫でてくれた。空も消えそうなブルーで高く広がり、あーちゃんが「最近どうなの?」なんて聞くものだから、何だか変なことを口にしたくなった。
「なーんかさぁ」
 頭に手を当て空見てたあーちゃん、くるりと顔をこちらに向けた。
「課長がさぁ、使えねぇなあって言ってくんの」
 あーちゃんがゆっくり腕を下ろした。真剣な瞳でこちらを見てくる。私は気づかないふりして続けた。
「採用の時、俺はお前じゃなくて、他の子を推してたのに、とか、次は美人の子が来ないかな、とか。その後、冗談だよ、って笑って言うけど、だから私も、課長ひどーいって笑ったりするけど、だからみんなも笑ってるけど、本当のところどうなんだろうね。私のこと、馬鹿にしてるよね」
 あーちゃんが何も言わずに黙っているから、私は不安になってさらに続けた。
「残業とかも多いけど、それは、私が仕事遅いのもあって、でも、事務の先輩の教え方も不思議で、わざと大事なこと抜かして教えてるの? って感じで、やってみて、分からないから、何個かまとめて聞いてみても、それでもやってくうちに分からないことがでてきて、ああ、私って出来ない奴だなって、それで仕方なくまた聞いてみると、課長がまた、お前、そんなことも一人でできねーのかよ、って、隣の部署にも聞こえる位、大きな声で騒ぎ出して、頭使って、頭をーって、周りの人もくすくす笑って、私もしようがないからすみませんって笑って、先輩もまだ二年目だからって笑って」
 あのさあ、ときいちゃんが腕を組んだ。
「それさあ、きいが出来ないんじゃなくて、先輩が教え漏れがあるのがいけないんじゃないの? きいはその漏れを聞いてるだけでしょ? 別にきいのせいじゃなくない?」
「いや、でも、多分昔の資料をあされば分かることだと思う」
「そんなことしてたら日が暮れるよ。他の仕事できないじゃん。営業さん、困るんじゃないの? 商社って作る書類多いんじゃないの? 」
「……うん……」
「きいがあまりにも帰り遅い日が続くからさ、翔に聞いたら、うちの会社で、事務の女性でそこまで遅い人はあんまりいない、って。そう言う人の上司は大体ハズレだって」
「……残ってその日に終わらなかった分を、私が勝手に終わらしてるだけだよ……。営業さんは明日で良いよって言ってくれるんだけど。てかその営業さん、飲みに行って、次の日は二日酔いで遅刻してきたりするんだよね。あ、ごめん、話それた」
 私はふーっと深呼吸した。
「次の日に仕事持ち越すと、次の日頼まれた仕事ができなくなって、その仕事が急ぎだとさらに焦って、やっぱり間違いも多くなるから……。定時後にやると、先輩はもういないから、分からないこと聞くことも出来ないけれど、そのかわり資料あさる時間はあるから、ここぞばかりに倉庫をあさって……まあ、自己満残業だよね。上司にもそう言われたし、だから、残業時間の申告は少なめにつけて……。はあ。当たり前だよね、明日で良いって言われたものを、その日中にやってるんだから」
「いーやいやいや」
 あーちゃんは、苦笑いの表情で手を横に振った。
「きい、本当にそう思ってるの? 自己満残業? きいは次の日の仕事のためにやってるのに? 会社の為にやっているのに? 疲れて、私からのラインもまともに返せなかったりしてるのに? てかそれ、きいのキャパ以上の仕事が来てるってことでしょう? 毎日夜の十時までかかる仕事量って、おかしいくない? てか、二日酔いで遅刻してきたやつ、パワハラ課長はちゃんと注意するわけ?」
 きいちゃん、なんだか怒ってるなあ、と思いながら、この時ふと、きいちゃんがここ最近ラインをしてこなかったのは、私が疲れているのを気にしてかな、と思った。だとしたら、きいちゃん、優しすぎる。
「しないしない。バカだな~って、笑ってるよ。まあ二日酔いで遅刻は、男性はたまにやっちゃうことで……」
「いーやいやいや、男性とか関係ないでしょ、翔の会社だったらありえないね。接待の翌日ならまだしもよ。仲間内の飲みで遅刻とか、皆興ざめて軽蔑するわ。きいとか怒り心頭じゃないの?」
「そりゃあ! ……でも、私も笑うだけだよ。そんなことで怒ってたら、ヒステリー女だ! って噂されるよ」
「はあ?」
「うち、女性少ないから、男性に噂されたら居心地悪いよ」
 ちっ、とあーちゃんが舌打ちをした。あーちゃんこわい。せっかくバトミントン、楽しかったのに、あーちゃんの笑顔がなくなってしまった。
「でもきいはムカついてるわけでしょう?」
「うん」
「嫌だなって思ってるわけでしょう?」
「でも仕方がないもん、人のことぐちぐち言っても!」
 あーちゃんがきゅっと口を結んだ。あ、悪いこと言ったかなって思った。あーちゃんを非難するつもりはこれっぽちも私にはなかったのに、これじゃあ、あーちゃんが悪いみたいだ。
「例えば、翔君みたいな人だったら、何か意見を言ったら、理解しようと努力してくれるだろうから、言った方がきっと良いんだよ。でも、あの人たちに何か言っても、ただ笑って、馬鹿するだけ、私の言うことなんて雑音と一緒」
 まあそれは、私がどんくさいからなのだけど、と小声で小さく呟いていた。私は仕事のできない人間。覚えも悪くて要領も悪い。一人、いつも残ってるのろま。でも一応努力はしているつもりで、休みの日は本屋へ出掛けて、仕事術の本とか読んだりしてみて。この案件危ないと思ったら、先輩、メールのCC.に入れてもいいですか? って、聞いて。本当は先輩のメールも見たいのだけど、なんだかそんなこと怖くて頼めない。別に先輩は怖い人じゃないけど、あまりにも放置されているものだから、嫌われてるのかな、とかたまに思う。同期の事務の子は、先輩に凄くかわいがられて、仕事もどんどんできるようになって、何だか私は、ひとりぼっち。これは、愛想が足りないせいかしらと、ただ毎日、あの人たちに、笑うたびに、心がどんどん擦り減っていって、自分の中の、ドロドロが沸き立つ。
「……なんか、こんなこと言ったらあれだけど、きいの会社、ちょっと、変」
 あーちゃんも小声でぼそっと言うと、帰ろっか、と立ち上がった。首まで落ちた、ひょっとこがおどけた。いや、彼はいつも、おどけているけど。
 あーちゃん、こんなこと、どこの会社でも良くあることだよ。
 そう言おうとして、口をつぐむ。そんなこと言ったら、まるで、あーちゃんが世間知らずみたいだ。
でも、ねえ、あーちゃん。社内の女性に点数を付けたり、僕、今生理前だから、優しくしてね、とか、そんなこと言う人は、普通にいるよ。そんなこと聞いても聞こえないふりをして、気にしないのも、仕事じゃないかな。
 真面目な人は、どんどん病んで、いないと思ったらトイレで見つかり、それが社内の噂になって、皆でやべー、とくすくす笑って、俺も昔はよく吐きました、そんなことを武勇伝にしていく。それが、強い。それが、仕事。
 帰り道、時間はもう五時半を過ぎていて、それでも日はまだ明るかったけれど、太陽のおれんじがいよいよ濃くて、子供の頃が思い出される。畑、林、街路灯はまだ灯っていない。あーちゃんは何だか言葉少なで、私は畑の上の空眺めて、ああ、夕日がきれいねと、ひとり心の中でごちて感動。畑の上は、いつだって広い。電線も、街路灯も、邪魔なものは、何もないもの。鳥が自由に空を渡って、カラスだって、美しく飛ぶんだ。
「ねえ、きい」
 表札の前で、あーちゃんは言った。
 あーちゃん、真顔。畑の奥から延びる夕陽で、おそろしく静かで美しいまなこ。
「私、婚約したの」
「はい?」
 目が丸くなるとは、このことですか。
 私のラケット、カランと音立て地面に落ちた。
「え、え、あ、あ、翔、君と?」
 バカ、そんなの当たり前でしょう。ラケットを拾いながら、突っ込みを入れる。
「そうだよ」あーちゃんは馬鹿真面目に答えてくれた。
「翔が十月からタイに転勤になって、だから、私も付いて行くの」
「タタたた、タイー⁉」
 そんな、そんなことって! あーちゃんが日本からいなくなるって!
「だから、懐かしいこと、思い出して。今のうちに堪能しようって。お祭りに行ったのもその一環かな。翔もあのお祭り、小さい頃に行ってたらしいよ」
 いや、もうそんな、そんな……そんな情報要りませんから……。
「そ、そうだった、んだ」
んだ、んだ、んだ、んだ……心の中で、情けないエコー。
「ごめんね、きいは今、毎日辛いのに、なんか、私は、こんな、幸せ……」
「ななななんでよ! おめでたいよ、さ、最高だよお‼ おめでとーう‼」
ああ、神様、なんていじわる。あーちゃんいなくなったら、私、死ぬのに。
「でも、結婚して、あーちゃんじゃなくて、翔君が仕事辞めても良かったのに! なんて、あれ、おかしいか、それはおかしい、翔君がタイに行くから、けっこんするのに、いや、ちがう、そうでなくてもふたりはいずれ……」
 バカなこと言った、バカなこと言った。ああ、あーちゃん、さよならあーちゃん。幸せにおなり。幸せにおいなり。
 あはははは、と腹を抱えた。今日一番の、笑いだった。なのにあーちゃんの反応がないから、ちらりと見やると悲しそうなくちもと。
「きいは本当に、バカなんだから」
 もう一回人生、やり直してくれば。
 私ははっと、目を見開いて、今日見た夢がフラッシュバック。あの時のあーちゃんの、不気味な微笑み。身構えた私は、カチコチに固まる。けれど、あーちゃんは天使な微笑み、私を、ふわっと抱きしめてくれた。あーちゃんの短い髪が、頬を掠める。生暖かい、汗かきあーちゃん。今、ここに、一緒に、生きてる。
「苦しいくせに、いつも笑うよね、きいは」
 気づけば頬に涙が伝う。いや、本当はさっきから泣いてた。止めようとしても止まらないから、笑って誤魔化そうと、したんだっけ。
「ねえ、きい」
あーちゃんが、ぐい、と肩を掴んだ。
「会社、やめなよ」
 あーちゃんの肌は、化粧なんかなくても、絹のように、美しいんだ。
「私、結婚の報告ついでに、この話をしようと思っていたの。辛いのにニコニコ、会社でもどうせきいは笑ってるんでしょう? まるでお面を被ってるみたいに。あ、そう、このひょっとこ、これをお祭りで見かけた時に、私の中で、ピンときたの。きいのあれは、お面のせいだと」
 お面より仮面の方が格好がいいなあ。そんなことをぼんやり思う。あーちゃんが首にかけてたお面を外し、顔に当てると声がくもった。
「ほら、お面の下は誰にも見えない。泣いていても、怒っていても、お面の下は誰にも見えない」ひょっとこがおどける。
「……私、そんな顔じゃないよ」ちょっといじになって言い返してみた。
「そういうことじゃないの!」あーちゃんが声張る。「しょうがないじゃない、はんにゃとかおかめとか、そういうのしかなかったんだから! あのお店、絶対におかしい!」
「ごめん、あーちゃん、怒らないで……」
「別に怒ってないよ」
ピシリとあーちゃんが言って、空気が止まった。
怒ってるように、聞こえたけれど。ああ、そうだ、顔が見えなくても声である程度分かるじゃないか。なんて、そんなこと言ったら、屁理屈だって怒るだろうか。声だってどうせ、お面を被れる。私はそのことを、身をもって知ってる。
「あーちゃん……言ってることは分かるけど、でもお面は、被るものだよ。あーちゃんだって、被ってるでしょ」
 「まあね」とあーちゃんは暫し黙った。ひょっとこがじっとこちらを見つめる。あーちゃんの顔が、全然見えない。
「……でも、きいのは違うよ」
ぱっとお面を下げたあーちゃんは、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「私のは自分の作ったお面。でもきいのは自分のじゃなくて、例えばパワハラおやじの手作りお面。おやじが大好きなにこにこ女。言い方かえれば、おやじの女⁉ おえー! きもっ、きいそれでいいの⁉」
「あーちゃん、ひど……」それはすこし、いいすぎじゃあないか。
「でもだって、そう言うことでしょ! 一日何時間働いてるのきいは? 上司のお好みに合わせて笑って、傷ついて笑って、苦しくても笑って! そんな状態で、何時間いるの⁉」
「だってそれは、仕事だから」
「そうだよ、仕事だよ。でも私は人のお面なんて被ってないよ」
「それは……」私はちょっと、イラっとしてきた。
「あーちゃんが環境に恵まれてるだけでしょ? それに、あーちゃんは昔っから出来る子だったじゃん! 出来る子だから、自分のでいいんだよ! 別に人に好かれなくていいから‼」ああ、違う、昔っからとか、そんなこと言うな。そんな暗いこと、何も言うな。
「はあ? きいはあんな奴らに好かれてどうするの⁉ てか出来るとか出来ないとか、だからそれ以前にきいの会社は変だって言ってんの! 私の会社で、例えばきいの言う、“出来ない”人間が働いてたとして、その人間に会社の上司が、お前はできねえやつだなあ自己満残業、とか、そんなバカで意味のないこと、口が裂けても言わないからね⁉」
「だから、それはあーちゃんの会社がいい会社なだけ」
「だったらきいだってそう言う会社に入ればいいじゃん! そういう会社に転職すればいいって言ってるんじゃん! 今の会社やめろって言ってるんじゃん! きいが東京ど真ん中の商社のОL⁉ 夕焼けがきれい~とか小さい頃から黄昏てたきーが⁉ ぜんっぜんらしくないんですけど」
「そんなの分かってるよ‼」
 気が付けば私は怒鳴り声をあげてた。でもそれは同時に涙声みたい。むかむかしているのにどうしてか悲しく、振り返ればもう行き止まりの看板。あーちゃんのいう正論は夕陽のように遠い。残された道は、マンホールの下かな。そんな残酷な私の情景、伝えるためにはどうすればよいかと、頭の中を探ってみるけど、手始めのピースすら見つけられない。どうして私はこうなったのだろう。どうして私は、いつも、自分が、とっても惨め。
「でも、そこしか通らなかったんだもん……」ようやく喉から絞り出した答えは、私のことを、さらに惨めに。
「……きいの学歴なら私の会社なら喜んでとったと思うけどね」
 地元の信用金庫。私の好きな、この土地の……。顔を上げて、きいちゃんを見た。
「どうせ大学の友達とおんなじ所、適当に受けていったんでしょう。わかるよ、その気持ちくらい、私にも」
 きいちゃんの瞳が、ゆるりと微笑む。
「きいが私のお面を外してくれるまでは、私も、同じだったから」
「え」
 あーちゃんは私のぽっかり顔を、気にしないふりして話し続けた。
 あの日、階段から落ちたあの日、病院で寝てる私のところへ、きいはどこからともなくすっ飛んできた。私のことを抱きしめながら、「頑張んなくていいよ、あーちゃんのままがいいよ」、わんわんわんわん泣いてくれたじゃん。あの時きいは、私が、先生からの期待とか、お母さんからの監視とか、受験勉強や将来のこととか、色んなことに耐えきれなくなって、自分で階段から落ちたんじゃないかって、疑って疑って仕方がなくて、あは、今思い出しても、本当おかしい。でも、なんだか私、ああ、私、そうだったんだって、いや、あれは事故だったんだけど、ああ、私、そうだったんだって。しかもそれを、きいはずっと、気にしていたんだって。なんだか心が、温かくなって。お母さんもあれから、きいがあんまりにもああ言って、わーわー、わーわー泣くものだから、なんだか自殺未遂かもと思い始めて、あれからずっと、優しくなった。「頑張んなくていいよ、あーちゃんのままがいいよ」その言葉が胸にしみて、力が抜けて、あの後きいが帰った夜に、実は、私、一晩中泣いた。私が人のお面を外したのは、多分、きっと、その時からだよ。それで、それから、自分のを探した。人は、誰しもお面を被るけれど、被るべきお面は人のじゃなくて、偽りなんかじゃなくて、自分にとって、自然なお面。
 私は静かに話を聞いた。あーちゃんのそんな話、初めて聞いた。あの時、私が駆け付けたあの日、あーちゃんがそんなことを考えていたなんて、私には思いもよらなかった。
 あーちゃんがすっと、息を吸った。
「きい、不自然だよ。今のきいは、とっても不自然」
 今のあーちゃんはとっても自然で、それはまるで精霊のよう。
「きい、生きていても、人が望むお面をつけてちゃ、いつかきっと、壊れちゃうよ。」
 ねえ、きい。きいはもうよく頑張ったんだよ。
 きい、きいはもう、そのお面を外せるんだよ。
「きいは、人のお面を被るために、この世に生まれてきたわけじゃないでしょう?」

 あーちゃん。どうしよう。
のっぺらぼうだ。
 お面をかぶっていなかったら、のっぺらぼうだ。
 自分のお面も、まだ持っていない。
 今まで作ることを、しなかったのだ。
 そんなことも、気が付かなかった。
 
 あーちゃんが別れ際、「ほれ」とひょっとこのお面をくれた。
「いましめだべ。別にきいがひょっとこになりたいって言うんなら、ひょっとこでも私はいいと思うけどね」
 タイに行く前に、もう一度くらい、あそびましょうよ。
 お父さんの、お墓参りもさせて。
 きいの中の、今まであった沢山のことを、私の知らないきいを聞かせて。
 もう私とは、しばらく会うことも無いだろうから、
 今まできいが気を遣って話せなかったこと、
 知らない人だと思って、話していいよ。

 畑に太陽。こっそりと月。ヒグラシの鳴く声、揺れるさといも。あ、ハトが麦の跡地をついばんでいる。瞳を閉じると、大地を感じる。風を感じる。空を感じる。それはどれも偽ることない、ありのままの自然の姿。
 例え人間が先阻もうと、彼らは毅然と、ただそこにある。

ああ、あーちゃん。

「菜穂ちゃん、どうしたんだ、目が真っ赤だよ⁉」
 家に帰ると「お帰り」と言いかけたお義父さんが、細い瞳をひん剥いて言った。
 私は普段泣かない代わりに、いったん泣くと目が化け物になる。
「お義父さん……」
 もういいや、どうにでもなあれ。自然であーれ。あ、お母さんもキッチンにいた。
「お母さんも……あのさ、私……」
 リビングのテーブルにひょっとこを乗せる。お義父さんもお母さんもそれを目で追った。
 やめてやめて。
ひょっとこはいやよ。


 
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