読み切り

文字数 3,645文字

俺は・・・という名前の平凡な夫だった。
小学2年のとき東京から田舎へ引っ越した
おれは、田舎のガキ大将とそりが合わず、
孤独で居ることが多かった。
そんなとき声をかけてくれたのが
今の妻、紗百合だ。
サユと呼んでた。

田舎だったけど、そのころはまだ自然も残っていて、
田んぼでアメンボウを見たり、
池のほとりでなくウシガエルの声を聞き、
「どこに居るのかな」などといいながら
探し回っても、見つけることが出来なかった。

秋の川には源氏ボタルが居て、虫かごで周囲を照らして
電灯代わりにしていた。
夏にはオニヤンマやギンヤンマが飛び、
大きなスズメバチも居た。

サユが飼っていた犬が居なくなったのは、
小学5年のときだ。
もう歳だったので、老衰だったのだろう。
サユは死んだことは悟ったのだろう。
そのこと自体に悲しんでいる様子は無かった。
少なくともそのときの俺には気が付くことはできなかった。

しばらくして、保健所から連絡があって、
死体を引き取りに行った。
サユが以前通っていた、亡くなった祖母の家で
倒れ伏して死んでいたらしい。
餓死だったようだ。

サユは犬、名前はイチロだったかな、
その葬式をしたいと言い出した。
当然、彼女の両親は認めることはなく、
犬の死体をリュックにいれて、
俺とサユで山の見晴らしのいい
そして、サユのおばあちゃんの家が見える
場所に埋めた。
今でもその場所ははっきりと覚えている。
犬の死体をリュックにいれたことをしかられ
俺も両親に一晩、外に出された。
サユは行方知れずになり、村中が総出で
夜の山や川を探した。
俺が、犬を埋めた場所にサユの母親を
連れて行くと、サユはそこで泣きつかれて
眠っていた。

あれから25年 俺達は結婚して13年になる。
残念なことに新鮮味もなく、結婚記念日さえ忘れて
しまう俺だったが、彼女は良妻賢母を
勤め上げてくれていた。
俺は、東京の大学を出て、塾の講師をしていた。
まあ、不景気で就職に失敗したとも言う。

結婚してすぐ生まれた、長女は中学生になった。
常日頃から、弟が欲しいと言い続けていた実乃梨は
中学にあがってすぐ、念願がかなった。

病院で 洋水検査の結果、男の子だと判明した。
本当に幸せだった。
だけど、病院に一人呼ばれた俺は、
もうひとつの事実を突きつけられた。

子宮がんだった。

今すぐ手術すれば、5年生存率は80%以上
医者は、子供はあきらめて、手術を勧めてきた。
俺も子供よりサユが大切だ。
彼女に事実を伝え、堕胎をすすめた。

実乃梨も、「弟よりもお母さんのほうが大事」
そう言って説得したが、
サユは親が子供のために命を捨てられるのなら、
生まれてくる子供にもそれは言えるはず、
そういって、堕胎を拒否した。

しばらく病院に通ううちに、俺には変化が生まれた。
ある意味産婦人科だったからかもしれない。
人が死ぬ病院ではなく、生まれてくる場所。
いつの間にか俺の現実は麻痺して行った。

サユに会っても、亡くなった祖母と話している
ような感覚に陥る。
まるで仏壇の写真と話しているようだ。

本当なら泣き叫びたい衝動を、受け止められない俺は
いつの間にか、殺していた。
サユは生きているのに、自分の中で彼女はもう死んでいた。

母親に会うたびに、泣き顔で抱きつく実乃梨、
それに対して、おれは至って平静だった。
サユの両親は俺に対して、心の強い人だと
見当違いのことを言っていた。

気が付くと俺は、彼女の写真をまとめて、
荷物を一つ一つ丁寧に保存していた。
自分の心を荷物のように閉じ込めるように。
だが、ある日、彼女は言った。

「なぜ、昔の話ばかりするの?」
夏休みに実乃梨がホームステイするんでしょ。
ニュージーランドは冬だし、
冬に着るもの出さないとね。
そう言うと彼女は生まれてくる息子の帽子と手袋を
編んでいた。

彼女の余命は1年、それが息子の命の代償だ。
医者にある相談をされた。
子供を生んだ場合、それからの命は
1ヶ月単位あるかないか。
ご自宅で過ごされては?
ある意味医者が、産婦人科の医者だからかもしれない。

医者は彼女に自宅で出産するように勧め、
彼女もそれに納得し応じた。
別に子宮がんだから、出産が危険になるわけでもない。
医者が特別に家まで来てくれるらしい。

小さなクリニックの産婦人科医だ、
余命1年の妊婦など生涯に2度は見ないだろう。

彼女は、クリニックを退院し、3ヶ月ぶりに家に戻ってきた。
冷蔵庫を見て、何が入っているかチェックして、
食生活が乱れていないか、とか
洗濯や風呂掃除ができているかを見ているようだ。

だが、夫婦の寝室に入ると彼女は怪訝な表情を見せた。
元々2個あった、枕が一個しかないのだ
サユの服はすべてクリーニングに出され
綺麗に整頓してあった。
もう戻ることがない、そう告げているようだった。

サユは突然、大声を上げると、絶叫した。
彼女は大粒の涙を流しながら、
「なんで、なんで
私生きてるよ。まだ生きてるよ。」
そう呟くと崩れ落ちた。
もうこの家に彼女の居場所はないのだ。

喚き散らす彼女に、おれも応じてしまった。
「俺達には将来があるんだ。未来のことを考えるのは当然だろ。」
言ってしまった。もう止められない。
「お前はその生まれてくる子供と引き換えに、
俺と実乃梨を見捨てたんだ。俺は働きながら一人で子供を
育てるんだぞ。お前を殺したその子を育てて、いける自信が・・
ない。」
言ってしまった、人間として最低だ。

「再婚すればいいじゃない。一人で育てる自信がないなら
再婚すればいい。私は死んでまであなたを縛ろうとは思わない。」

「ねぇ、私の戒名は何にする?」
そう言うと彼女は寝室のドアを固く閉め、

俺は廊下で、何も考えられずに

泣き止んだ子供のように喪失感に襲われていた。
ドア越しに俺は言った。
「俺はお前をあきらめたわけじゃない。」
「自分のためかもしれない、いい訳かもしれない。
でも俺は弱いんだ。いつもお前が居た。
小学2年のあのときから、俺は一人では立てないんだ。」

彼女からの反応は無かった。

俺は、家を出ると夜の街を彷徨った。


「おとーさん、今、オークランドだよ。」
ニュージーランドから電話がかかってきた。
サユはあの後パスポートを持って、NZに来たらしい。
本当は学校の規則ではダメなのだが、
余命のわずかなサユを慮って、ホームステイ先に頼み込んで
2人でホームステイしているらしい。

 サユは俺とは口を訊きたくないらしく、
実乃梨は元気そうに電話を切った。

それから2週間ほどは、何も考えることもなく、
ただ勤務先の塾に行き、子供達に受験勉強を教えていた。

「お母さん帰った~?」

そんな実乃梨からの電話がかかってきた。

「えっ、いつ?」
「昨日の昼だから、もう家についてるんじゃないの?」
実乃梨の言葉に俺は耳を疑った。
娘に心配はかけられないので、仕事が遅くなってるけど
急いで帰ると、伝えると ニュージーランドからの電話を切った。
もしかしたら病院に居るかも、そう思い電話をかけた俺は、
クリニックの医師が、心の底から軽蔑の言葉を浴びせるのを聞いた。

「奥さん、死産でした。」
医師はあなたは、もうこないでください。
もはや人間として扱っていないレベルで拒絶した。
俺は小学校5年のときのことを思い出していた。
彼女の故郷は 京都の宮津、しばらく山道を登ったところだ。
列車の走っている時間ではないし、
自動車を運転すれば、今の精神状態だと危険だと

そのくらいの判断が出来るくらいには冷静だった。

紫式部だったか清少納言だったかは忘れたが、
タクシーの運転手に宮津まで行ってもらい。
そこで別のタクシーに乗ると、
俺は急いで、イチローの墓に走っていった。
彼女、サユはそこにいた。
イチロ、彼女は息子にそう名前をつける気だったらしい。
医者からへその緒をもらって、犬の墓があった場所に埋めていた。

普通なら正気を疑うところだが、俺は叫んでいた。

「俺はもう一人で立てる。一人で歩いていける。
もう、お前と2人じゃないと何も出来ない子供じゃない。」
ふふ、そう言うとサユは笑った。
「そうね、私も子供を2人残して、あの世に行けないわ。」

「イチローと私は行くけど、ちゃんと実乃梨を育て上げて。」
自宅に実乃梨を呼び戻し、弟、イチローの死産を伝えた。

何のためにお母さんは死ぬの、そう泣き叫ぶ娘を抱きかかえると

サユは

「よさの海のあまのしわざとみしものをさもわがやくと潮たるるかな」

なぜこんな唄を読んだのかは、古文に詳しくない俺にはわからない。

だが、10日も経たないうちに、彼女は天の橋を渡っていった。



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