(12) 後悔の瞬く夜

文字数 3,001文字

 尋深と二人、砂浜に並んで寝転がったまま、また星空と波音に身を委ねていた。でも実際には波音など耳には届かず、自分の心音ばかりが頭の中に響いていた。まるで心臓が頭蓋骨にまで上がってきて、耳の奥で大きく鼓動を打っている。そんな感じだった。

 堪え切れなくなって彼女の横顔を盗み見ると、真っ直ぐ上を向いたまま目を閉じている。それを知って安心し、ちょっと大胆に彼女を観察してみた。

 長い睫毛。額から鼻へのなだらかなライン。薄めの上唇。それよりも少しぷっくりとした下唇。(あご)から首への滑らかそうなカーブ。ゆっくりと上下する、Tシャツを控え目に押し上げた胸の膨らみ。

 どこを取っても完璧な曲線に見えた。その曲線をそっと指先でなぞってみたい。あるいは、スケッチブックに書き写して残しておきたい。そんなことを思わせるほどに。

 ほんの少し手を動かせば小指同士が触れ合う。そんな距離に二人はいた。

「いいわ」

 瞳は閉じられたまま、彼女の唇だけが動いた。

「えっ。何が⁈」

 不意を突かれて、既に限界まで鼓動を打っていた心臓が更にダメージを受けた。

「波の音。いいね。とっても。心地いい。部屋のお布団よりも、ずっとここで寝ていたい」

 彼女が目を開いてこちらに顔を向けたので、慌てて星空に視線を逸らした。隣で彼女が小さく笑ったような気がしたのは、気のせいだと思うことにした。

 とにかく落ち着こう。自分に言い聞かせるように目を閉じた。

 波音に集中する。
 寄せる波。
 引く波。
 頭の中を満たしていく波の音——。

 そうしているうちに、心臓が少しずつ元の位置に戻って、激しかった鼓動も徐々に収まっていくようだった。

 身体が軽くなる。また波が身体の下にまで滲み込んできて、持ち上げようとする。彼女の隣に留まろうと抗ってみるけれど、できることは砂を握り締めることくらいで、何の抵抗にもならない。

 (むな)しく浮き上がって揺れる身体は、いつの間にか海水に囲まれて、このままではまた上下左右の区別もなくなって、やがて海に溶けてしまう。

 そうだ。掴むべきは砂なんかじゃない。
 手だ——。
 彼女の手を——。
 そう思って、(くう)を掴んだ。

 目を開いた。

 空そのものが瞬いているようだった。視線を隣に落とすと、彼女はこっちを見て不思議そうな表情を浮かべていた。何も変わってはいない。時間もほとんど過ぎてはいないはずだった。

 一瞬の夢——。

 ただ、心臓は平常運転に戻っていた。何だか急に照れ臭くなって、関係のないことを話し始めた。小学生の頃に行っていた、あの曽祖父の家の話だ。

「おじいちゃん()はすごく古かったんだ。天井に、どう見ても人の形にしか見えない染みみたいな模様があって、それがすっごく怖かった。でも、何故か大人には言えなくて。あれは何なのかとか、人間の形をしてないかとか、言ってしまえばいいのに口に出せない。黙って一人でこっそり怖がっているしかなかった。ああいうことって、どうして言えないんだろう」

「きっと、どんな答えが返って来てもろくなことはないって分かってたんじゃないかな。ただの染みだ、形は偶然だって言われても予想通り、大人の言いそうなことでしかない。逆に、実はあそこには死体があってねとか言われちゃったら、もうその部屋にはいられない」

 なるほどと頷いた。子どもというものは、案外と大人が言いそうなことくらい分かっているのかもしれない。逆に言えば、大人なんてその程度のことしか言わないのだろう。

「トイレも最悪だった。一回土間に降りて靴を履いて行かなきゃいけないんだ。夜とか、一人で行けるようになるまで随分とかかった気がする。田舎の家って無条件に何かいそうな雰囲気を持っているし、途中の仏間には、なんか不気味な昔の人の写真が入った額縁がたくさん飾ってあったりするし」

「わたしのおばあちゃん家にもあった。額に入った昔の人の写真。遺影なのかしらね。せめてにっこり微笑んでくれてたりすればいいのに、みんな音楽室のベートーヴェンより怖そうで暗い感じのばかりだし。どうして飾ってあるのって訊いてみたこともある。そしたら一人一人どういう関係の人なのか説明してくれたんだけど、こっちはそんなことに興味はないから全然聞いていない」

 彼女の笑い声にはふんわりとした優しさがあった。しっかり笑っていても、どこかしら儚さのようなものがあった。神経に直接作用する麻薬のような声だった。麻薬が悪ければ、魔法と言い換えてもいい。あるいは唯一、波音にも勝る音か——。

「昼間は海で遊んだり山に虫取りに行ったり。虫取り網を持って近くの山を走り回ってたな。一本、小さな木なんだけど、すごくたくさん虫が集まっている木があって、木の種類なんか知らないから分からないんだけど、樹液が多かったのかな。カナブンとかたくさんいて、運がいいときはクワガタがいたりして」

「わたしは虫は駄目だあ。カブトムシも触れない」

「へえ。予想外」

「どういう意味よ」

「あ、いや。何でもない。あー、海でもよく遊んだな。その割には上手く泳げないんだけど。ずっと浮き輪つけてただ浮かんで遊んでただけのような気がする。それじゃ何回海に入っても泳げるようにはならないよな」

「泳ぎならいくらでも教えてあげるわよ。でも、分かってると思うけど、うちのサークルの練習ほど甘くはないからね」

「本当に逃げ出したくなりそうだから遠慮しとくよ」

「もし逃げたりしたら、捜索隊を編成して、地の果てまでも追いかけるから」

「何でだよ。俺の首に懸賞金まで賭けられそうだな」

「いいかもね。生死は問わずって」

「ただの水泳教室じゃなかったのかよ。何の組織が何を養成しようとしてるんだよ」

「意気地なしに生きる価値なしよ」

 それは百パーセント混じりっけなしの冗談だった。彼女に他意がなかったことも確かだろう。けれど、意気地なしに生きる価値なしというこの彼女の言葉は、この夜以降の自分を思い返せば、はっきりと意味を持って心に刺さる。

 いろんな意味で大切な夜だった。なのに、あのときの自分はそんなことに思いが至らなかった。それ以上踏み込むことをせずに、当たり障りのない会話に終始した。

「おじいちゃん()で、山や海で昼間さんざん遊んで、だから夜はすぐに寝ちゃってたけど、それでも眠りに落ちるまでの少しの時間、波の音が聞こえるんだ。寝息みたいな波の音が」

「寝息?」

「そう。何の寝息なのか——海の寝息なのか、地球の寝息なのか、分かんないけど」

 また茶化されると思って少しだけ身構えたものの、彼女は何も言わなかった。恐る恐る様子を盗み見ると、また目を閉じていて、心なしか笑っているように見えた。

 二人の合間を縫って海が鳴っていた。いや、寝息を立てていたというべきか。

 あの夜に告白をするべきだった。あとになって随分とそう後悔したものだ。我ながら腰抜けぶりが情けなかった。これまでの人生で一番背中を押してやりたい、針で突いてやりたいと思うのは、あの夜の自分だ。もちろん、仮にあの夜に告白していたとしても結果は同じだったかもしれない。それでも、もしも、あの夜から今とは違う時間軸が分離して、二人がその上を歩いていたとしたら。そうしたら今頃、二人は——。

 今更何を思おうが、何の意味もない。思い直して、隣の席に置いてあった自分の鞄に目をやってから時計を見る。三十分が過ぎても、尋深は現れなかった。
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