第1話 嘘

文字数 4,999文字

「私、明日から田舎に帰るから」
 テレビのバラエティ番組を見ながら一人で笑い声をあげていた内村優吾は、田中美帆の言葉を正確に聞き取れなかった。音量を少し下げる。
「何?」
「だから、私、明日から田舎に帰るって言ったの」
「田舎に帰る?」 
 まだ大学の夏休みには早い。
「そう」
「何で? 何かあった?」
「おばあちゃんの具合が悪いらしいの」
 それを聞いて、優吾はテレビを消した。
「そうか。それは心配だね。確か、美帆の田舎って茨城県だったよね」
 以前、一度だけ美帆から田舎のことを聞かされたことがある。まるで目の前に田舎の風景があるかのように、田園風景や小川やそこで遊んだことを楽しげに朗々と語った。
「そうだよ。那珂市の額田だけどね」
「とにかくおばあちゃんが早く回復することを祈ってるよ」
「ふん、何それ。心にもないことを言わないでよ」
 確かに心などなかった。会ったこともないおばあちゃんに心を動かされるはずもない。ただ礼儀として言ったまで。
「俺にも心ぐらいあるよ」
「どうだか。ということで明日は朝早く出て行くからよろしくね」
「わかった。で、いつ頃帰ってくるの?」
「たぶん、一週間くらいで帰って来られると思う」
「じゃあ帰る日が決まったら連絡して」
「うん」
 翌朝、美帆はまだ優吾が寝ている間に気配を消して部屋を出て行った。
 しかし、美帆は一週間経っても、二週間経っても帰って来なかった。三週目に入ったところで、さすがに優吾も気になり電話やメールを送ったが返事はなかった。
『どういうこと?』
 真っ先に考えたのは、おばあちゃんの容態が悪化していて、連絡できる状況にない可能性だった。しかし、美帆の性格からして、もしそういう状況になっていたとしても、合間を見て報告ぐらいあるはずだ。美帆は根っこの部分はひどく真面目な子なのだ。
 あるいは、本人が何かの事故に会い、重篤な状態にあるのか。あるいは…。こういう時の想像は悪いほう、悪いほうに向かってしまう。
 当然のように自分の傍にいた美帆がふいにいなくなり、美帆がいることは当然などではなかったのだと、ごく当たり前のことに気づき優吾は愕然とする。 いなくなって初めて自分は美帆の何も知らないことに気づく。自分は美帆の何も見ていなかった。それを美帆は見抜いていた。だから、田舎に帰るという口実で、自分の元を去っていったのか。
 美帆の携帯はついに繋がらなくなってしまった。
 何度かけても『この電話番号はお客様の都合により…』というアナウンスが聞こえてくるだけだった。
 だが、すでに優吾にとって美帆はなくてはならない存在になっていた。圧倒的な喪失感の中、優吾は何としても美帆を探し出す決意をした。


 優吾が美穂と出会ったのは、優吾が店長を務める日本酒バルであった。今年24になる優吾は、いつか自分の店を持ちたいと、高校を卒業後すぐに水商売の道に入った。
 店にふらりと入って来た美帆が、まるで知り合いみたいな顔でカウンターの真ん中にドカッと座った瞬間に、優吾は美帆に恋をした。
 以来、美帆は時々思いついたようにやってきては、指定席に座った。逆に、その席が埋まっていると帰ってしまう。
 美帆との会話で、美帆は大学生で、店からほど近いところにあるコンビニでバイトをしているとわかった。今年4年生になったというから、優吾よりも2つ年下だ。でも、優吾が美帆について知っているのはそれくらいであり、それ以外の情報はほとんどない。本当はもっと知りたいと思うのだが、お客様である美帆に、こちらからしつこく訊くことはできない。
 一方の美帆は、優吾を質問攻めにした。いくらお客様だからと言って、そのすべてに答える必要もないのだが、それでもかなりの個人情報まで話してしまった。それは美帆に恋した優吾の弱みからだった。
「ふ~ん。じゃあ、今は彼女いないんだ」
 訊かれるままに、前の彼女と別れてから半年以上経つと話していた。
「寂しくない?」
「寂しいと言えば寂しいですけどね」
「私が新しい彼女になってあげようか?」
 思わぬことを言われ驚いたが、一目ぼれした相手からそんなことを言われ、内心嬉しかった。しかし、本心なのか読めなかったので、軽くかわすことにした。
「本心だったら嬉しいですね」
「さあ、どうかしら」
 自分の声を確かめるような言い方だった。
 そんな二人の距離が縮まったのは偶然だった。
 いつものようにバルでの仕事が終わり、自宅アパートに向けて歩いていたところ、雨が降り出した。小雨だったので我慢して歩いていたが、次第に雨足が強くなってきた。店にある置き傘を取りに戻ろうかとも考えたが、もう少し先に行けば美帆がバイトしているコンビニがある。店に戻るのも面倒な気がして、コンビニに寄ることにした。近くまで歩いて行ったところで、店の横から傘を差して出てきた美帆に呼び止められた。
「店長?」
「ああ、美帆さん」
「ひょっとして、傘を買いに来た?」
「そう」
「それだったら、私が送ってあげるから、入って」
 手招きされた優吾は一瞬迷ったが、素直に好意に甘えることにして、美帆の横に滑り込んだ。
「悪いね」
 美帆から発する女の子の匂いが優吾に異性を意識させる。
「ううん。どうせ店長んち、うちのアパートの途中だし」
 そう言えば、美帆に自宅アパートの場所を話したことがあったことを思い出した。ただし、美帆の住まいが優吾のアパートの先にあることは今初めて知った。
「そうだったんだ」
 必然的に身体と身体が触れ合う距離となる。
「美帆さん。最近店に来ないよね」
「いろいろあってね」
「いろいろ?」
「そう、いろいろ」
 その『いろいろ』が訊きたかったけれど、まだそれほど親しくない優吾に訊く勇気もない。
「あっ、ここが俺が住んでいるアパート」
「ここなんだ」
 そこで別れるつもりだったけれど、後先考えずに勢いで言ってしまっていた。
「良かったら、ちょっと寄っていかない?」
 へんな下心などなかったことが美帆にも伝わっていたようで、拍子が抜けるくらい軽い返事があった。
「うん。いいよ」
 幸い、その日は仕事に出かける前に部屋の掃除をしていた。だから、誘ったといってもよい。
 部屋にあがった美帆は、もの珍しそうにあちこち見渡している。
「そこに座ってください」
 優吾の部屋は5畳のDKと6畳の洋室二間の2DKである。一人住まいには贅沢のようだが、築年数が30年と古いので家賃が安いのである。優吾が指したソファーに美帆が座る。
「案外きれいにしてるのね」
「いやあ、たまたま今日は仕事前に掃除したんだ」
「どうせ、そんなことだろうと思った」
「ところで、美帆さん何飲む?」
「何があるの?」
「ここは店じゃないけど、一通りありますよ。アルコールも含め」
「そう。じゃあ、ウイスキーの水割りがいいかな」
 幸い、先日海外から帰って来た先輩からもらった高級ウイスキーがあった。
「わかりました。少々お待ちください」
 その日どんな話をしたか、優吾はほとんど覚えていない。ただ、妙に盛り上がって、気づいたら抱き合っていた。だが、優吾の手が美帆の胸に触れた時、美帆は優吾の耳元で『私、あんまりセックスが好きじゃないの』と言った。一瞬怯んだが、優吾を拒絶するようなことはなかった。卵型の小さな顔に涼しく切れ長の目、一番愛しいものだけに向けられる美帆の表情が優吾の心を溶かした。その後も美帆は優吾の求めを断ることはなかったが、いつもどことなくぎこちなかった。しかし、優吾はそれを美帆の慎み深さと理解していた。気がついたら、頭がどうにかなったとしか思えないほど夢中になっていた。
 それから半月後、優吾の誘いに応じる形で美帆が優吾の部屋にやってきて同棲生活が始まった。美帆は尽くす女性だった。どちらかと言えばわがままな優吾の性格をよく理解して、でき得る限り、優吾のしたいようにさせてくれた。当初の狂おしいほどの恋情は薄れていたものの、美帆は乾いた土に沁み込む水のような速さで、優吾の心の中に侵入していた。ありふれた退屈な日常に、色がついた。 
 突然美帆が田舎へ帰ると言い出したのは、同棲生活が半年を迎えたある日のことだった。

三 
 いざ美帆を探すとなった時、優吾は美帆についての何の情報も持っていないことに気づく。それは、美帆が自分のことを話さなかったせいでもあったが、優吾にとって美帆はずっと傍にいるものと思っていたからでもあった。美帆が使っていた部屋に残された荷物の中にも行方を示すものはなかった。
 優吾はまず、美帆がバイトをしていたコンビニに行ってみたが、突然来なくなって、こちらこそ迷惑していると、ケンもホロロに追い返されただけだった。だが、美帆との生活の中から唯一手がかりになり得ると思われる人物を思い出した。それは美帆から飲み友達として紹介された松沼カリナという女性だった。確か、美帆は同じ大学の子だと言っていた。慌てて携帯の登録番号を確認すると、幸いなことに番号が残っていた。早速電話してみる。
「もしもし、私、田中美帆と付き合っている内村優吾と言いますが」
「はい?」
「田中美帆をご存知ですよね?」
「えっ、待って。ああ思い出した。あの美帆ちゃんね。それで?」
 優吾は簡単に事情を話し、会ってもらうことにした。
「田舎に帰ったんだよね」
「そう言ってたんですけど。連絡が取れなくなって、今や音信不通状態なんです」
「彼女の田舎って、どこだっけ?」
「茨城県県の那珂市の、額田って聞いてます」
「やだ、それって、私の田舎だよ」
「ええー」
「そう言えば、私、彼女にうちの田舎のことについて話したことがある」
 美帆が見ていた景色は他人のものだったのだろうか。
「そんなあ」
「彼女って、あなたにどんな話をしてたわけ?」
「同じ大学で気の合う子だって…」
「いやー、もう笑っちゃうね。そもそも彼女とは以前バイト先が一緒だっただけで、それほど親しくもなかったし。もちろん、大学も違うしね」
 二人で過ごした時間が心許ないものになっていた。
「あなた、遊ばれたんじゃないの?」
「そんなはずないです…」
 他人にはわからない小さな棘がささった。
「そう思いたいのはわかるけど」
「松沼さん、誰か彼女のことがわかる人知りませんか?」
「一人だけ思いつく子がいる」
 松沼が携帯に表示された名前を優吾に見せた。
「この人は?」
「彼女が辞める時、後釜として彼女が連れて来た後輩」
 翌日、松沼から訊いた番号に電話する。
「はい、横井ですけど」
「突然の電話で失礼します。横井さんが以前アルバイトをされていた時のバイトリーダーだった松沼さんから紹介されて…」
「ああ、はい。それで?」
「横井さんは、田中美帆さんのことご存知ですよね」
「知っていますけど…」
「どうしてもお会いして話したいことがあるんです」
「そうですか。でも、今美帆さんは病院に入院されてます。ですので、とりあえず、私が代理でお話を聞かせてください」
「わかりました。お願いします」
 優吾は横井の言うことを全面的に信用したわけではなかったが、今は他に選択肢がなかった。
 翌日、指定された喫茶店に出向くと、童顔なのに濁った暗い沼のような瞳の女が待っていた。
「今日は、お時間いただいてすみません」
 優吾が挨拶すると、横井はにこりともせずに頷いただけだった。
「それで、姉にどんなご用ですか」
 心の一部がしびれ、双眸が開く。
「えっ、美帆さんはあなたのお姉さんですか?」
「そうです。ただ、田中美帆というのは偽名です。姉の本名は北川好美です」
 目の前の景色がぐらりと揺れ、冷たい絶望に落ちる。同時に、自分の薄汚れた記憶が蘇る。やんちゃだった中学時代、部活終わりの帰り道で偶然出会った他校の女子生徒を襲った。さんざん弄んだ後に、偶然持っていたナイフを突きつけ『絶対に誰にも言うなよ』と凄んで見せた。
「どうされましたか。顔面蒼白ですけど。明日姉をこの場に連れてきます。やっとあなたが愛した人に再会できるんです。ですから、必ず来てくださいね」
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